文在寅政権の統治感覚は完全に麻痺し、国民から遊離している

朝鮮半島西側の南北軍事境界線の北朝鮮側海域で、韓国海洋水産部の漁業指導船の指導員だった男性公務員(47歳)が北朝鮮軍によって射殺される事件が起きた。韓国の民間人が北朝鮮軍によって射殺される事件の発生は8年ぶりのことで、韓国国民の間に北朝鮮に対する激しい反発と憤慨を呼び覚ました。

そうした反発の大きさを感じ取ったのか、北朝鮮の金正恩委員長は、事件から3日後、「われわれの海域で予想外の恥ずべきことが起き、文在寅大統領と南の同胞を大きく失望させたことに対し、非常に申し訳なく思う」と前代未聞の謝罪を表明する通知文を韓国側に送ってきた

聯合ニュース9/25「韓国人射殺で金正恩氏が謝罪『失望させ非常に申し訳ない』」>

それに比して、文在寅大統領の反応といえば、国民の感覚とは大きくずれていて、その統治感覚はどこか麻痺しているようにしか見えない。

射殺事件の一連の経緯を追ってみる。

男性公務員が乗っていた漁業指導船から姿を消したのは、夜間当直勤務についた9月21日未明から午前中のことで、その日の昼食時間になっても姿を見せず、同僚らが船内や付近の海上を探したが見つからなかったため、海上警察に通報した。行方不明になったのは、延坪島(ヨンピョンド)の南の海上、軍事境界線の延長線上にある北方限界線(NLL=Northern Limited Line)から13キロの韓国側の海上で、海軍や海上警察、海洋水産部が捜索したが見つからなかったという。その後、一日以上経過した翌22日午後3時半ごろになって、おそらく北朝鮮軍の無線交信の傍受からNLLの北側の北朝鮮側の海域で、浮遊物につかまって海上を漂流している人がいるのを北朝鮮側が覚知し、その1時間後にはこの人物が行方不明の海洋水産部所属の公務員であることを韓国側も特定したという。青瓦台によると、北朝鮮側の船が海上でこの公務員を発見したという報告は、その日の午後6時30分には文在寅にも伝えられた。この時点で、何かアクションを起こし北朝鮮側に身柄の保護を求めていたとしたら、この男性が射殺されることはなかったに違いない。

長時間、漂流して疲労困憊のはずの海中の男性に対し、北朝鮮軍は船の上から尋問するとともに、どう扱うか上部に指示を仰いでいたようだ。そして発見から6時間後の夜9時30分、北朝鮮の通知文によると「わが軍人は艇長の決心の下で海上警戒勤務規定が承認した行動準則により、10余発の銃弾で不法侵入者に対して射撃し、この時の距離は40~50メートルだった」としている。そして「射撃後は何の動きも音もなく、10余メートル接近して確認の捜索をしたが、正体不明侵入者は浮遊物の上におらず多量の血痕が確認された。わが軍人は不法侵入者が射殺されたと判断し、侵入者が乗っていた浮遊物は国家非常防疫規定により海上現地で焼却した」と明らかにした。

中央日報日本語版9/25「北朝鮮通知文全文」>

実は、この「焼却」について韓国軍は「射殺後、ガソリンをまいて遺体を焼却し毀損した」と発表し、韓国国民の怒りを煽った。無線傍受で得た情報に基づく推測か、米軍の無人偵察機による監視データの解析結果とみられる。

しかし、男性の発見から射殺まで6時間のあいだ、韓国軍は北朝鮮側の関連の動静をすべて掌握していたにもかかわらず、何の行動も起こさなかった。北韓軍が、新型コロナウイルスの流入防止のため、NLLに接近する者は射殺するように指示を出していたことは、韓国軍も把握していたということだが、まさか本当に銃撃するとは考えていなかったともいう。

男性が「射殺され遺体が焼却されたと見られる」と、聯合通信が最初に伝えたのは23日深夜、さらに韓国軍の報道官が「北による蛮行を強く糾弾し、これに対する北の説明と責任者の処罰を強力に要求する」と正式に表明したのは、24日午前11時。射殺から37時間以上が経過していた。

この間の23日午前1時半(韓国時間)には、文在寅は国連総会でビデオ演説を行い、「終戦宣言こそが韓半島で非核化と恒久的な平和体制の道を開く扉となる」「終戦宣言を通じて和解と繁栄の時代に進められるよう国連と国際社会が力を合わせてほしい」と訴え、北朝鮮との和解と朝鮮半島の平和にまで言及していた。ビデオ演説は事件1週間前の15日に事前収録されたもので、北朝鮮による韓国国民の射殺という衝撃的な事件からわずか4時間後の国連での上映だった。タイミングが悪かったとはいえ、演説の順番を先に延ばすことも可能だったはずだ。なぜなら、ビデオ演説の直前、23日午前1時に青瓦台では射殺事件を受けて緊急の国家安保会議NSCが召集されている。普通の感覚だったら、演説の中身と半島情勢の現実があまりにも乖離し、齟齬を来していることは誰でもわかるはず。文政権の感覚麻痺を象徴している。

そもそも、「終戦宣言」に言及した文在寅の演説は、米国と事前に打ち合わせた形跡はなく、北朝鮮による非核化がないまま「終戦宣言」だけ先行して行ってしまえば、北朝鮮は非核化の実行を放棄するだろうし、「終戦宣言」を理由に在韓米軍の撤収を要求してくることも考えられるとして国内からも厳しい批判の声が上がった。

朝鮮日報社説9/24「非核化のない終戦宣言、安保空白を自ら招く=韓国」>

かつてホワイトハウスで安全保障担当の補佐官を務めたマイケル・グリーン戦略国際問題研究所(CSIS)副所長は、「終戦宣言は中国、ロシア、北朝鮮が国連軍司令部と韓米連合司令部、韓米合同軍事演習を破棄せよと主張できる口実を与えるだけだ」と指摘し、さらに「韓国の大統領が米国議会や政府の立場とこれほど一致しない演説をするのは見たことがない」「平和を宣布することで、朝鮮半島の平和が実現できると考えるのは幻想だ」と酷評している。

朝鮮日報9/25「元ホワイトハウス補佐官、文大統領の国連演説に「米国の立場とこれほど異なる演説は初めて」>

韓国人男性の射殺と「遺体焼却」という衝撃のニュースに韓国国民が激しく憤慨するなか、文在寅は25日午前、10月1日の「国軍の日」を前にした記念式典で「われわれ自身の力で強い安全保障体制を備えてこそ、平和をつくり、守り、育てていける。政府と軍は、国民の生命と安全を脅かすいかなる行為にも断固として対応する」と演説したが、射殺事件にも北朝鮮にもひと言も触れなかった。

実は、この演説の日の朝、金正恩からの謝罪の通知文は届いており、事件の真相について報告を受け、金正恩から謝罪があったことも知りながら、国民には何の説明もしなかった。演説の中身には明らかに秘匿した内容があったことは、その直後に青瓦台が、北朝鮮からの通知文があったことを公表し、秘匿した内容はすぐにバレることが分っていたにもかかわらず、文在寅は知らないふりをしたのである。そこには一点の誠実さも正直さもないことを国民はすぐに見抜いたはずだ。

朝鮮日報社説は、韓国軍の事実経過の発表に基づき、恐らく多く国民が抱いているであろう感情を代弁した激しい論調の社説を掲載した。

「疲労困憊(こんぱい)の状態で漂流していた非武装の民間人を発見しても、救助どころか6時間以上にわたり海上で動けなくし、射殺して油を注いで焼却したというのだ。いかなる犯罪集団でもまねのできない猟奇的な殺人だ。」

「(韓国政府は)韓国国民を海上で射殺し、焼却したことも「コロナ防疫のため」として北朝鮮の立場を代弁したのだ。今、地球上で防疫を口実に海上で溺れる人間を助けることもせず、調査(尋問)して残忍に銃殺し、火で燃やすのは北朝鮮しかない。人間と生命に対する最低限の尊重の思いさえ彼らにはない。恐ろしくぞっとする。」

「韓国軍と政府が存在する理由は何か。金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長にへつらい、屈従するために存在しているのか。」

「漂流であれ越北であれ、人間をウイルスのように殺害し、消却できるのかということだ。このような集団に対して「同じ民族」と言ったり、「平和」について話し合ったりするというのか。今この状況でも大統領と政府は国民を欺き、「終戦宣言」を口にし、軍人たちはそれに迎合している。あきれてものも言えない事態だ。」

朝鮮日報社説9/25「北が人間をウイルスのように焼却しても1日隠した文大統領…大統領がいて政府があって軍もあるが国はあるのか」>

こうした社説をはじめ、韓国国民の多くを激怒させたこの「遺体の焼却」について、冒頭にも紹介した北朝鮮の通知文では、不法侵入者を射殺したあと、その侵入者が乗っていた浮遊物を国家非常防疫規定により海上現地で焼却したとして「現在までわが指導部に報告された事件転末に対する調査結果は以上です」と述べた上で、「われわれは貴側軍部が何の証拠を基にわれわれに不法侵入者取締と取締過程の説明に対する要求もなく、一方的な憶測で蛮行、応分の対価のような失礼かつ対決的色彩の強い語彙選んで使うのか、大きな残念を表さざるを得ない。」と記している。<前掲:中央日報「北朝鮮通知文全文」

つまり、韓国軍は北朝鮮側に事実関係を問い合わせ、説明を求めることもなく、一方的な憶測で「蛮行」だ、「責任者の処罰」だと騒ぎ立て、対決的な姿勢を煽っているというのだ。どちらの言い分を信じるべきか?

韓国国防部は、韓国国民が殺害されても、南北軍事合意には違反していないと強弁した。2018年、文在寅の平壌訪問を機に交わされた南北軍事合意の柱は、境界線地域の陸上・海上・空中でのすべての敵対行為を禁じているが、民間人に対する射撃は敵対行為ではないということか。国民を守らない軍隊にいかなる存在理由があるのか。

韓国統一部は、この問題で北と接触を取ろうとはしなかった。事件の1週間前9月16日、平壌共同宣言(2008年9月19日)から2周年になるのを前に、就任後初めて板門店を訪れた李仁栄(イ・イニョン)統一部長官は「2017年当時、戦争さえ取り沙汰された一触即発の状況に比べると、今は軍事的な緊張が緩和し、国民が平和を体感できる状況となった」とし、「南北首脳の歴史的な決断と合意は高く評価されるべきだ」「軍事的な対立を防ぐ装置として平壌共同宣言と南北軍事合意が重要な機能を果たした」と述べ、今からみると完全にあさっての方角を向いた気楽なコメントをしている。

聯合ニュース9/16「韓国統一相が板門店訪問 「北は南北合意順守の意志ある」

李仁栄統一部長官は、北朝鮮からの通知文について「金正恩委員長が射殺の指示をしたのではなさそうだ」「北朝鮮の謝罪は非常に異例だ」とコメントし、野党からは「北朝鮮に免罪符を与えようとしている」と非難されている。

とにかく北朝鮮寄りの姿勢を隠そうともせず、南北関係にも一貫して太平楽な状況認識を示すことこそ、李仁栄氏を中心に「主体思想派」と呼ばれる80年代学生運動出身の左派政治家の典型なのだ。

ところで、青瓦台は北朝鮮からの通知文の公表と同時に、ここ最近、文在寅と金正恩との間で交わされた親書の内容も公開した。文在寅は9月8日に送った親書で、金正恩の被災地訪問に言及して、「特に国務委員長(金正恩委員長)の生命尊重に対する強い意志に敬意を表する」と述べたという。

朝鮮日報9/26「金正恩委員長「申し訳ない」の一言に大喜びして身を乗り出す文政権」

実の兄を暗殺し、叔父を高射砲で殺害したという冷血の独裁者のどこに「生命尊重の強い意志」を感じることができるというのか?韓国国民も驚くような、ここまで媚びへつらった言葉を使ってまでして親書を交わし、これまで国民にはいっさい明らかにしてこなかったのである。

文政権は、2019年11月、北朝鮮船の乗組員12人を殺害したと告白し亡命を求めてきた北朝鮮の20代に男2人を、北に返せば死刑になることは分っていたにもかかわらず、板門店から北に強制送還した。また2017年12月には、韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP1哨戒機に火器管制レーダーを照射した事件のときも、駆逐艦は、日本に亡命を求めて北朝鮮を脱出した兵士4人の乗った船を捜索している最中だったと言われる。

「週間現代」9月22日号の元自衛隊幕僚長河野克俊氏とジャーナリストの近藤大介氏による対談記事(「尖閣、北朝鮮、改憲…自衛隊トップ「統合幕僚長」はどう向き合ったか」)によると、近藤氏が韓国政府の関係者から非公式に聞いた話として以下のような記述がある。

「金正恩委員長が、自らの肝煎りで進めてきた「北朝鮮のハワイ」こと元山(ウォンサン)の「葛麻(カルマ)海岸観光地区」の視察に行った際、あまりの苦役に耐えかねた建設現場の兵士たちの一部が、暗殺未遂を起こした。犯人は一網打尽にされたが、4人が船で日本に亡命しようとした。

それで、開城(ケソン)に設立した南北合同連絡事務所を通じて、北朝鮮から韓国に、SOSの緊急連絡が来た。「親北」の文在寅政権は、すぐに韓国軍を緊急出動させ、必死の捜索を始めた。その様子がものものしかったので、不審に思った自衛隊がP-1哨戒機を出した。韓国軍は、ここで自衛隊に見つかっては大変と思い、なりふり構わずレーダー照射して追い払ったという。ちなみに、4人のうち一人は、船上で死んでいたが、残りの3人は翌日、板門店から北朝鮮側に引き渡したと聞きました。」これに対して河野元幕僚長「その話は、たしかに可能性の一つとして報告を受けた」と明かしている。

これでは文在寅政権は、どちらに顔を向け、誰のために政治を行っているのか、分らない。文在寅政権の統治感覚は完全に麻痺し、国民の感覚とは遊離している。こんな政権とまともに付き合っても、外交成果は何も期待できないのは明らかだ。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

0コメント

  • 1000 / 1000