朝鮮半島に住む人々は、自分の都合のいいように歴史を書き換えるという習性は、どうも今に始まったことではなく、古来からの習い性でもあるようだ。
元慰安婦12人が日本政府を相手取って起こした損害賠償請求訴訟で1月8日、ソウル中央地方裁判所は原告側の請求を認め、日本政府に対し原告1人当たりに1億ウォンの賠償支払いを命じる判決を言い渡しました。判決文で裁判所は「この事件は、被告(日本政府)により計画的、組織的に行われた犯罪行為であると判断できる。国家の主権的行為といっても主権免除を適用できない」とした。
「慰安婦を日本政府が計画的・組織的に強制連行した」という証拠はどこにあるのか?裁判所や文在寅政権、国民の一部が「そうであってほしい」という願望が判決文に盛り込まれたに過ぎない。
ところで、秀吉の朝鮮出兵「文禄慶長の役」について、日本が負けたことになっていることを知り、驚かされたと言う記述が、1890年代の朝鮮半島を訪れ、その実態を記録した日本人の紀行文のなかにある。本間九介著『朝鮮雑記~日本人が見た1894年の李氏朝鮮~』(祥伝社2016年)で読むことができる。
福島二本松出身の本間九介(安達九郎)は1890年21歳の時、朝鮮半島に渡り、1919年3・1独立運動に際して暴徒に殺害されるまで、30年間にわたって朝鮮半島に滞在し、総督府の嘱託などとして朝鮮事情の調査に従事し、内田良平のアジア主義運動にも深く関わった人物とされる。「朝鮮雑記」が当初、新聞(「二六新報」)に連載されたのは、日清戦争の直前の1894年4月から6月にかけてで、イザベラ・バードの『朝鮮紀行』よりも4年も早く、朝鮮の実情を伝えている貴重な文献となっている。
その本間九介は、旅の途中、黄海道の旅籠で「東学党の幹部」だ称する人物(のちに徐丙鶴、東学の中心人物で当代一流の知識人だと分る)と会い、その人物から「あなたがたの国には壬辰のことで、わたくしどもの国を敵視しておられる人が多いのではないか」と問われる。
「壬辰」とは1592年のことで、韓国人が「壬辰倭乱(イムシンウェラン)」というときは、1592年の「文禄の役」から1598年の「慶長の役」まで足かけ7年に及んだ朝鮮出兵を指す。
この時、本間は「壬辰の役では、わが国が大勝、かの国は大敗した。大勝した国の人が、大敗した国の人を敵視する理由はないし、むしろ私たち日本人は、この勝利を空前の大快事としている。彼らは、もしや、わが軍を破ったものと思っているのではないか」と思ったという。
「朝鮮雑記」を書いたころの本間の朝鮮語能力はまだ高くなく、主に漢文による筆談で意思の交流を試みた。本間の文章や筆談による会話の内容を読むと、広範な漢籍の知識など漢文の能力は当代一流の朝鮮知識人にもひけをとらないことがわかる。
このとき、本間はすぐに筆を執り、「壬辰の役では、八道(朝鮮全土)の草木ことごとくが、わが軍に蹂躙された。わが軍は全勝した。勝っている側が、どうして恨みを今日まで懐くというのか」と反問した。それに対し、彼らは大いに不満を感じたようで、「あなたがたの国では、この歴史を忌(い)んで(不吉とし、遠ざけて)事実を伝えていないだけではないか」と反論した。
これに対し、本間は「朝鮮と日本は歴史を伝えるところは同じではないようだ。どうか、事実を照らし合わせようではないか」と言い、次のように反駁する。「あなたがたの国が勝ったとして、それならどうしてわが軍が、長距離を進軍して八道を、まるで無人の地を行くかのように蹂躙できたのか。またどうして二人の王子を捕虜にすることができたのか。もしわが軍が敗北したというなら、あなたがたの国はなぜ、明に援けを求めたのか、何を苦しんで畿内(都城)から逃れたのか」と聞いた。
これを聞いた彼らは口をつぐみ、顔を赤らめ、黙りこくって、忿(いかり)の表情をにじませたあと、「それは嘘、うそだ」と筆にし、否定したという。それに対して、本間は「そもそも隣国の関係というのは、和睦することもあれば、戦うこともある。壬辰のことだけをもってどうして我が国を敵視する必要があるのか。あなたがたの国が我が国を恨むというのであれば、元の軍が来寇したとき、あなたがたの国(高麗)はこれを導いたではないか、あなたがたの国はかつて対馬の住民を鏖屠(おうと=みなごろし)したではないか(1419年、世宗の対馬侵攻と焼き討ちを指す)。とは言っても。これらは過去の事蹟にすぎず、今さらとりたてるべきことではない。今、東亜は危急の時だ。あなたがたの国は小国で、強大な清国とロシアの間に挟まれ、兵は弱く、国は貧しい。過去の事蹟にとらわれて東亜万年の策を誤ってはならない。あなたがたの国の廟策(朝廷の政策)を見ると、今日は清に依って、明日はロシアに依ろうとする。頼むべきでない相手に頼んで、依るべき相手に依っていない。こうした状況が続けば、数年もしないうちにあなたがたの国はかれらの勢力に呑みこまれてしまうのではないか」と、切々と説き聴かしたが、最後まで聞く耳を持たなかったという。(同書「東学党の首魁と遭う」 位置No.2434~2508)
「大国ロシアに呑みまれる」と本間が説くところは、それから2年後には現実のものとなった。本間は、当代一流の朝鮮の知識人より、はるかに慧眼の持ち主だったのである。
実は「壬辰倭乱」、つまり秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、「日本を打ち負かした」と考える朝鮮の人々によって、当時19世紀末期の朝鮮では、日本人に対する実害も発生していた、と本間九介は記録する。
それは当時の海関報告では、日本から2500隻以上の漁船と1万2000人以上の漁民が毎年、朝鮮半島南部の近海に来て沿岸漁業に従事していた。日本の漁民は、その漁獲を持ち込み、必要物資を購入するため沿岸の港に入港するのだが、現地の朝鮮人によって魚を安く買いたたかれるなど、日本人は侮蔑の対象になっていたという。そして全羅道沿岸では、日本の漁民が殺害され、日本の軍艦が出動する事態になったこともあった。その原因のひとつが、文禄慶長の役で、豊臣軍が朝鮮半島を席巻したが、現地の人たちは、むしろ勝ったのは自分たちだと教わっていることが原因だと本間はいう。
「かの文禄征韓の役では、加藤嘉明(実際には脇坂安治のことを指す)などが、脆くも、かの国の李舜臣などに破られたが、全羅・慶尚南道の沿岸地域では、今なお、かの漁民たちが、これらの事跡を伝え、日本人は恐れるにたりないと考えている。これは、ただ漁民だけの話ではなく、わが国の一般の人に対しても、軽侮したような挙動が多いのは、この地方を旅行したものからは、広く知られたところである」(位置No.3098)。
歴史を逆さに見て、都合のいいように解釈する態度、思考法は、それから120年以上たった現代でも、まったく変わっていない。
2014年に公開され、観客1600万人を動員したとされる「鳴梁(ミョンリャン)」という韓国映画がある。邦題はなんと「バトル・オーシャン海上決戦」という、とんでもない題名に変えられているが、李舜臣率いるわずか12隻の水軍が300隻以上の日本の水軍を打ち負かしたという壮大なファンタジーに変えられている。
「鳴梁」というのは、全羅道珍島付近の「鳴梁渡」と呼ばれる海域のことで、潮の早い流れによって大きな渦が起こる場所として知られる。彼らが「鳴梁海戦」と呼ぶのは、慶長の役のさなかの1597年、日本水軍と朝鮮水軍の間で行なわれた戦闘で、日本側の記録文書によれば「朝鮮水軍12隻が、日本水軍330隻の先遣隊の一部に攻撃を行った後、戦場を離脱。当該海域の制海権を放棄し、その日の内に日本水軍による追撃を避け遠方まで撤退した」という経過に過ぎない。これがなぜ「バトル・オーシャン海上決戦」なのだろうか?
映画では「亀甲船」という大型木造船が登場し、まるで現代の駆逐艦(destroyer)のように海上を縦横無尽に高速航行するのだが、手漕ぎの櫓だけで、白い航跡を残して12隻の船が縦一列に航行したり、横一列に並んで戦闘態勢をとったり、そんなに自由に操船できる訳がない。
「忠武公・李舜臣」という韓国のウェブサイトをみると、亀甲船について「16世紀、東アジア最大の戦争だった壬辰倭乱のときに、累卵の危機に瀕した朝鮮を救った民族の聖雄李舜臣が発明した船、韓民族の知恵の精髄がこめられた世界初の装甲船、口には煙幕をふいて、背には鉄甲とキリをかぶせ、わき腹には大砲を勢い良く撃つ天下無敵の軍艦」だと説明している。
ウェブサイト「忠武公・李舜臣」にある亀甲船の再現図を見ると、巨大な盥(たらい)のような平底船で、喫水が浅く重心が高い不安定な形状で、これがほんとに海に浮かび、外洋の荒波に耐えて航行できるのかと思うような構造で、こんな船を想像すること自体、船の構造や流体力学について知識がないことを示している。
そもそも亀甲船については、李舜臣の「乱中日記」にその言葉と簡単な外観、戦闘力に関する若干の記述があるだけで、細部の寸法や構造については記録したものはない。壬辰倭乱から200年後の1795年に国王(正祖)の命で、李舜臣と亀甲船に関する資料を収集・整理した『李忠武公全書』に「全羅左水営亀甲船」と「統制営亀甲船」という絵図が初めて登場するが、それを見るとほんとに盥(たらい)そのものだ。
実は、亀甲船の詳細な姿やその戦闘方法について、具体的なイメージを与えたのは、1940年当時、日本人画家、太田天洋(1884~1946)が描いた「朝鮮戦役海戦図」という絵画だという。太田は、日本海軍の歴史を扱った本の表紙などを手がけた歴史画家として知られ、歴史に対する深い造詣と日本側に残る朝鮮水軍と朝鮮船舶に関する研究資料を土台に描いているため、海戦の戦闘状況に関する描写内容は非常に精密で、韓国側もこれを土台にすれば「李舜臣が建造した亀甲船の姿を多少ながら推定することもできる」としている。
(ウェブサイト「忠武公・李舜臣」亀甲船 構造と性能)。
何のことはない。「韓民族の知恵の精髄がこめられた世界初の装甲船」=亀甲船といえども、日本の助けを借りなければ、その姿を再現し自慢することもできないのである。
ところで、映画「鳴梁」では、その亀甲船が敵艦に横付けして、至近距離で大砲をぶっ放したり、兵士が敵艦に乗り移り激しい肉弾戦を展開するシーンがあるのだが、その際、李舜臣は「白兵戦だ」と叫び号令をかけていた。この「白兵戦」という言葉は、明治時代に日本が作ったフランス語からの翻訳語だということを、たぶん韓国人は知らずに使っているのだろう。
「白兵」とは、刀や剣などいわゆる「白刃」を手にした兵種を意味し、飛び道具の銃や大砲など火器を用いた戦闘の対義語となることばだが、実は明治初年に日本陸軍がフランスの歩兵操典を採用したときに、フランス語のarme blanche(白い武器)の訳語として作ったものだった。<Wikipedia「白兵戦」>
そういう知識が少しでもあれば、李舜臣に「白兵戦(ベクビョンチョン)」などと叫ばせるはずがない。こうした一例をとってみただけでも、この映画の時代考証はでたらめであり、映画全体が自分たちの夢見る壮大なスペクタル・ファンタジーであることを示している。
そして、自分たちがこうありたいと望み、夢見ることは自分たちの過去の歴史にも及び、歴史さえも自分たちの都合のいいように改変の対象としてしまっても、いっこうに恥じないのである。
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