秀吉の朝鮮出兵にも「勝った」と嘘に染まる国②

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)について、「負けたのは日本側で、自分たちは勝った」と古くから韓国・朝鮮の人たちは考えている。

19世紀末、朝鮮を見聞した日本人、本間九介がその著『朝鮮雑記~日本人が見た1894年の李氏朝鮮~』(祥伝社2016年)と言う本のなかでそう書いている、という話を前回のブログで取り上げた。今回も、その続きを書いていきたい。

さて、いま韓国では「壬辰倭乱」、すなわち「文禄・慶長の役」における李舜臣の役割・活躍をまるで神がかり的な業績として描いている。その代表的な例が、前回も紹介した映画「鳴梁(ミョンリャン)」だった。

そして、韓国の小学校(初等学校)に行くと、必ずと言っていいほど、李舜臣の像か世宗大王の像が校庭の一角に立っている。

日本だったら、かつて校庭に立つ像と言えば、「勤労勤勉」の象徴として二宮尊徳像が必ず置かれ、その石像の形、デザインといえば、全国どこでも同じ統一されたイメージがあった。しかし、韓国の李舜臣像の場合、学校ごとにバラバラで共通するイメージはない。なかには、ケバケバしい色で塗られたペンキが剥がれ、あちこち欠けた像もあって、それほど大切にされているとは思えない。

さらに最近、映画以外で李舜臣が話題になり、人々の記憶に残った事蹟としては、ソウル市長の朴元淳氏が女性秘書からセクハラ行為を訴えられ、去年7月に自殺したときに、李舜臣が壬辰倭乱の間に書いていた「乱中日記」のなかで、「官娼と寝た」と記していたことが話題になり、「英雄は娼婦と寝てもいいし、立派な政治家ならセクハラも許される」といった朴市長擁護の変な論理に利用されたことだった。

本ブログ20/7/14「日韓関係悪化の黒幕、慰安婦史観の元凶の羞恥死」参照>

要するに民族の歴史を語る上で、今も何かと引き合いに出される人物で、われわれ外国人にはどうでもいいことだが、李舜臣以外にもっと熱く語れる民族の英雄はいないのかと、ついつい思ってしまう。

ところで、前回も紹介したが、その李舜臣の業績を顕彰する韓国の公式ウェブサイト「忠武公・李舜臣」では、「韓国人が李舜臣の名前を胸の中に刻むのは、彼が戦争当時、ただの一度も敗北せず韓民族が排出した世界人類歴史上、最も偉大な海戦将帥であるからだけでなく、彼が持っていた死を超越した精神が、彼が属した共同体に向かう愛、彼とともに歴史をつくっていった国民に対する仕える心などが今日を生きていく韓国人たちに人生の羅針盤になるからだ」そうだ。

さらに「1592年、日本の侵略で危機に陥った状況で20回余りの海戦を全て勝利に導いて国と国民を守った。世界最初の装甲船といえる亀甲船を創案し、閑山島海戦では鶴翼陣戦術を利用した艦砲海戦で大勝利を収めた。特に13隻の船で130余隻の日本戦船を撃退した鳴梁海戦は世界海戦史の奇跡と呼ばれている」。「李舜臣は壬辰倭乱の7年間、数多くの海戦で日本戦船700余隻を撃破する戦果をあげたが、このような戦果は世界海戦史でもその類例を探すのが難しいほどだ」と記述している。

そのうえで、このうちの「閑山島海戦」を、何と「世界4大海戦」の一つとして挙げている。はじめて聞く海戦の名前で、「閑山島」(かんざんとう)がそもそもどこにあるのかも知らない身としては、「なにそれ?冗談でしょ?」と言いたい。

その「世界4大海戦」の他の3つとは、「サラミスの海戦」(紀元前480年、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊がペルシア艦隊に勝利し、ペルシア戦争に新たな局面をもたらした海戦)、「カレー沖海戦」(1588年、英仏海峡でスペイン無敵艦隊を打ち破り、イギリスがスペインに替わって海洋強国となる契機となったアルマダ海戦)、そして「トラファルガー海戦」(1805年、ネルソン提督のイギリス艦隊がナポレオンの艦隊を破り、ナポレオン1世のイギリス本土上陸の野望を粉砕した海戦)だという。まさに世界史に名を残す海戦ばかりだが、恥ずかしげもなくそれらと肩を並べるとは常識外れの勇気がなければ無理だ。

日本人の立場からは「日露戦争」でバルチック艦隊を破った日本海海戦はどうしたと思うが、日露戦争をあえて「露日戦争」と呼んで勝利した日本を蔑む韓国人にとっては論外だろう。百歩譲って「閑山島海戦」とは、世界史に何を残し、時代をどう変えたというのか?と聞いてみたい。

閑山島海戦とは、1592年7月、秀吉の日本軍が釜山への上陸を開始してから2か月後、閑山島と巨済島の間の海峡で脇坂安治率いる艦隊に、朝鮮水軍が誘引迎撃戦術により撃破した海戦とされるが、朝鮮側は脇坂の艦隊73隻中59隻を破壊し3000人の日本兵が戦闘で死んだとする一方、朝鮮側の被害は皆無だったとしている。しかし、脇坂の船隊はそもそも兵員輸送が主で、十分な火器を装備していたわけではなく、しかも脇坂が指揮したのは1500人といわれ、そのうち戦闘要員は6割ほど、海戦後には200人以上が近くの島に上陸して逃れているそうだから、59隻の船が破壊され3000人が戦死したというのは明らかに誇大だ。

そもそもこうした海戦の記録について、日本側には毛利家文書や鍋島家、松浦家など出兵した全国諸大名の記録や詳しい兵力を示した「陣立て表」などが一次資料と多数残っているほか、ルイス・フロイスやジャン・クラッセら宣教師が第三者の目で記録した文書もある。一方で朝鮮側には、李舜臣が書いた「乱中日記」ぐらいしかなく、勝敗の記録は李舜臣が記した検証不能の一方的な数字しかない。どちらに信憑性があるかは明らかだ。

ところで、さきの「忠武公・李舜臣」は、朝鮮水軍は壬辰倭乱を通じて連戦連勝して無敗を守り、世界海戦史にも類例を見ない戦果を残したとし、「閑山島海戦以後にも李舜臣将軍は壬辰倭乱が終わる頃まで南海を守りぬき、朝鮮を危機から救い出した」といっている。

しかし、そうまでいうなら、そもそも「文禄の役」(1592年5月~1593年8月)では158,800人もの日本の遠征軍が海を渡って半島に上陸し、その3年半後に始まる「慶長の役」(1597年3月~1598年12月)では141,500人に上る秀吉の大軍が再び海を渡って侵攻したのを許したのは何故なのか?朝鮮水軍が制海権を握っていたというなら、兵站、つまり海上の物資輸送路も絶たれなければならないはずだが、文禄の役では、秀吉の軍は釜山上陸からわずか3か月で平壌まで陥落させ、その後も、「八道」すなわち朝鮮全土に各藩の部隊が展開し占領する事態を許したのは何故なのか?さらに明軍との休戦講和交渉が成立し、日本軍が撤退するときも、それほど大きな損害もなく撤退できたのは何故なのか?

李舜臣が世界の海戦史に残る偉業を残したというのなら、戦争全体における朝鮮水軍の役割も明らかにする必要があるだろう。しつこいが、「世界4大海戦」と自称するなら、その「閑山島海戦」とやらが、世界史に何を残し、その後の時代と世界をどう変えたのか、はっきりさせるべきだ。残念ながら、東アジアの片隅の半島に生きる人々の思い込みや願望だけでこの世界が回っているわけではないのである。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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