秀吉の朝鮮出兵にも「勝った」と嘘に染まる国③

韓国は、李舜臣を「世界人類史上、最も偉大な海戦将帥」だとし、その戦績を「世界海戦史上の奇跡」だといって褒めちぎり、やたらと世界史的な意義を強調する。しかし、李舜臣の活躍には、民族を救うという以外に、何か大義があったのだろうか。あるいは、世界史に何事かを付け加え、その後の時代と世界に何か変化をもたらしたのか、と聞いてみたい。

「世界史」を云々するのなら、秀吉の朝鮮出兵がもつ世界史的意義のほうがはるかに大きい。それは、秀吉が当時、真っ正面から向き合った当時の世界情勢をみれば分る。そうした当時の世界情勢を押さえた上で、秀吉の朝鮮出兵が、何を目的にし、世界をどう変えたかったのか、その世界史的な意義を、改めて整理しておきたい。

本ブログでは過去に、平川新著『戦国日本と大航海時代』(中公新書)をもとに、秀吉の世界戦略について詳しく論じているので、そちらもぜひ参考にしてほしい。

<本ブログ「脱中華の東南アジア史⑪大航海時代と日本」「脱中華の東南アジア史⑫大航海時代と日本」>


<秀吉の朝鮮出兵は西洋に対抗する世界戦略だった>

秀吉は、来日した宣教師との接触や海外に出た日本人からの情報などから、ポルトガルとスペインが世界を二分して分割支配しようといういわゆる「デマルカシオン(demarcación=世界領土分割)体制」を知っていた。香辛料(スパイス)がとれるインドネシアのマラッカ諸島やフィリピンなどは、スペインとポルトガルによる領土獲得競争のまさに草刈場だったのである。そして、その延長線として狙っていたのが日本であり、その先兵として送り込まれたのがイエズス会などの宣教師たちだった。

戦国時代の日本の戦(いくさ)の状況をつぶさに観察した宣教師たちは、日本の国民は非常に勇敢で、絶えず軍事訓練を積んでいるため、征服は困難だとする一方、日本の大名や武士をキリスト教徒に改宗させれば、将来、明を武力征服する際の兵隊として日本の武士を使えると考え、そういう趣旨の報告を本国に送っていた。秀吉は、スペインがフィリピンを拠点に明を征服しようと狙い、ポルトガルがインドなどを拠点にアジアに勢力を伸ばそうとしている世界情勢も知っていた。

そもそも、当時の東アジアの国で、まともに西洋の国と向き合っていたのは、日本だけだった。明は、「海禁政策」をとって貿易や朝貢を制限し、沿岸の住民を海に出させないために、内陸部に移住させたりしていた。「小中華」を自認する朝鮮は、儒教原理主義に凝り固まり、内部にしか目を向けなかったほか、倭寇の被害に悩み、中に閉じこもるだけだった。韓国といえば、今はキリスト教徒の多い国となっているが、朝鮮半島に初めて宣教師が足を踏み入れたのは、秀吉の朝鮮出兵で九州のキリシタン大名に従って入ったのが最初だという。

西洋の国々と真剣に向き合い、それと対峙するために秀吉が採った選択が朝鮮出兵だった。しかし秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮半島が目的ではなく、その先の明国を押え、さらにはスペインが植民地支配していたフィリピン、ポルトガルが占領していたインドをも射程に入れ、スペイン・ポルトガルのアジア支配を覆そうと狙った秀吉の世界戦略だった。秀吉の朝鮮出兵は、まさに大航海時代、西洋からの挑戦に日本がいかに応戦したか、秀吉なりの回答であり、その具体的な行動だったのである。

その秀吉の朝鮮出兵という世界戦略は、天正19年(1591年)1月、明遠征軍と予備軍の集結地・宿営地として肥前・名護屋城を築城することから始まった。そして四国、九州、日本海の海沿いの諸国大名に、10万石に付き大船2艘を準備し、船を操る水主(かこ)を確保するように命じた。

ところで明を征服するのが目的なら、朝鮮半島を経由せず、直接、東シナ海を渡ったほうが早いと思われるが、これは当時、「地乗り航法(沿岸航法)」と呼ばれた日本の航法と関係があるといわれる。「山あて」といって陸地の景色を目標に航行するため、沿岸を目視できない外洋を航海することはなかった。とりわけ、朝鮮出兵では、陸上部隊と海上部隊が互いに連絡を取り合って並進し、兵站を確保する戦術を取っていた。李舜臣が沿岸一帯の海域で制海権を行使していたとしたら、そんな作戦がとれるはずがなかった。実際の秀吉軍のその後の展開を見ても、李舜臣が制海権を握っていなかったのは明らかだ。

「文禄・慶長の役」、朝鮮側がいう「壬辰倭乱」について、その全体を俯瞰するため、その戦役に動員された互いの兵員規模や軍事力を振り返っておきたい。

秀吉の命令によって、諸国の大名に割り当てられた動員兵力は、石高に応じて動員数が決められ、例えば九州地方の大名には1万石につき600人、遠く離れた越後や出羽は1万石につき200人などと割り当てられた。

その結果、多くの記録のなかで、たとえば「毛利家文書」によると、「文禄の役」(1592年5月~1593年8月)では出征軍として158,800人、予備軍(在陣衆)73,620人、日本水軍(船手衆)は8,750人だった。

さらに「慶長の役」(1597年3月~1598年12月)では、日本の遠征軍は総勢141,500人だった。

文禄の役で、釜山上陸からわずか20日で漢城府(今のソウル)を占領し、38日目で開城を陥落させたあと、日本の諸将は漢城で軍議を開き、「八道国割」と称して、平安道は一番隊の小西行長、咸鏡道は二番隊の加藤清正、黄海道へ三番隊黒田長政など、8つの道それぞれに大名を割り当て、それぞれの制圧目標を定めた。

これに対して、朝鮮軍は文禄の役の全期間の合計で、172,400人の正規軍を展開し、義兵や僧兵など22,400人の非正規軍がこれを支援した。数的には、秀吉軍を上回っていた。慶長の役に関しては朝鮮側の兵力の記録はない。

さらに明軍については文禄の役には40万人が参加したという説や少なくとも20万人が集結していたというルイス・フロイスの見方がある。慶長の役に関しては明軍の動員は92,100人だとする記録がある。

ところで、15世紀中頃から日本は長い戦国時代にあり、秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の兵がいた。これは洋の東西を通じて当時最大規模の軍隊であり、それに匹敵するのは明の軍隊しかいなかった。1543年、種子島への鉄砲伝来で日本に持ち込まれた火縄銃(マスケット銃)は、その後直ぐに国産化され独自に瞬発式火縄銃に改良され瞬く間に日本国内に普及した。戦国時代末期には、日本には50万丁以上の火縄銃があり、当時世界最大の銃保有国となっていたといわれる。

ルイス・フロイスが著した「日本史』には秀吉の朝鮮出兵について「日本軍はきわめて計画的に進出し、鉄砲に加え,日本刀の威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した」という記述があるという。

一方、当時の朝鮮にとっての軍事的脅威は、主として女真など北方騎馬民族と倭寇だった。倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、倭寇の拠点の一つとなっていた対馬を攻撃した(応永の外寇)。高麗王朝のころ火薬の製法が伝わり、火砲が主力武器となったため、これが海戦で威力を発揮し、日本軍を悩ませることになった。

ところで、日本は室町時代から戦国時代にかけて内戦に明け暮れていたため、朝鮮側は倭寇を別とすれば、日本を大きな軍事的脅威とは見なしていなかったようだ。秀吉が日本を統一したあと、1588年の刀狩りと海賊禁止令によって倭寇は終息に向かったが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えていなかったとされる。

<秀吉の朝鮮出兵とその後の明・朝鮮>

さて、こうした秀吉の朝鮮出兵の結果は、どう評価されるべきなのだろうか。秀吉の死によって、朝鮮出兵は途中で撤退を余儀なくされ、目標とした明まで到達することはできなかったが、結果的には、明を大きく苦しめることになり、明の王朝を弱体化させ、早期に瓦解させることに繋がった。

女真(満州)族出身のヌルハチは1607年、満州の地に後金を建国し、明を圧迫するようになる。この過程で、ヌルハチは朝鮮に対し、明との冊封関係を絶ち、後金国に朝貢するよう圧力をかけ続けた。ヌルハチは1618年に明に宣戦布告するが、小中華を自認する朝鮮にとって、中華の正統たる明が北方の異民族によって滅ぼされることは屈辱でしかなく、そのために、陰に陽に明を助け、後方から後金を襲撃したりした。後金の怒りを買った朝鮮は、二度にわたっての後金の軍によって蹂躙されることになる。1627年の丁卯胡乱(ていぼうこらん)と1636年の丙子胡乱(へいしこらん)である。日本に対しては「倭乱」といい、後金に対しては「胡乱」という。こうした蔑称は、あくまでも朝鮮側の呼び方である。

1636年、後金のホンタイジが皇帝に即位し、国号を清と改めると、ただちに朝鮮に対して臣従するように要求してきた。これを拒絶あるいは黙殺したのが、朝鮮王朝第16代国王の仁祖だった。小中華として自らを文明化した国だと誇った朝鮮にとって、北方の異民族、夷狄の支配に与することはできなかった。

しかし、朝鮮側の拒絶に激怒したホンタイジは12万人の兵を率いて朝鮮に侵入し、瞬く間に漢陽いまのソウルを陥れた(丙子胡乱)。国王の仁祖はソウル中心部から南東へ25キロ程のところにある南漢城山(ナマンソンサン)という山の中に1万3000の将兵とともに逃げ込み、ここで47日間にわたって籠城したが、糧食を絶たれて降伏し、清への服従を誓って結んだのが「三田渡(サムジョンド)の盟約」だった。このとき仁祖はホンタイジに対し、三跪九叩頭、つまり三回跪き、9回額を地面に付けるという皇帝に対して臣下がとる最高の礼を尽し、許しを乞うたと言われる。このとき結んだ「三田渡の盟約」では、明との関係を断ち切って清に服従するだけでなく、人質として国王の長男と次男を差し出すこと、清国に対し金100両、白銀1000両など20あまりの品物を毎年上納することなどが定められ、まさに屈辱的な条約だった。

そうした経緯を書き、清の皇帝を顕彰するために建立され「大清皇帝功徳碑」と刻まれた石碑は、いま「屈辱碑」と呼ばれ、かつての三田渡の地、今のソウル市江南区蚕室(チャムシル)のロッテワールドタワーを真上に望む地に立っている。のちに第26代国王高宗は、日清戦争で朝鮮の独立が認められたあと、この恥辱碑をまさに「国の恥」だと考え、重さ32トン、高さ5.7メートルもある石碑を土に埋めさせたが、日本の手によって1913年に復元されている。

いずれにしても、秀吉の朝鮮出兵以来、わずか45年足らずの間に、朝鮮は四度に渡り、外国の軍隊に席巻され、国土が蹂躙される運命をたどったことになる。そして秀吉に対しては「恨500年」の恨みを忘れないという一方で、中国から受けた屈辱に対してはいまだにひと言も言えないのである。

<秀吉の朝鮮出兵が残した日本への評価>

秀吉が、スペイン・ポルトガルの侵略に対抗し、文禄・慶長の役を通じて延べ30万人にも及ぶ兵力の渡海作戦を実行し、当時、世界最大規模の軍事力の動員を見せつけたことは、その後、スペイン・ポルトガルが、秀吉やその後の江戸幕府の将軍を「エンペラー」(皇帝)と呼んだことに象徴されるように、日本の実力を認め、世界の強国として不可侵の存在として認めることにも繋がった。

一方、江戸幕府もその初期に、太平洋に船を渡しメキシコとの貿易を模索したほか、長崎出島のオランダ商館を通じての西洋最先端の情報入手にも怠ることはなかった。

さらに日本の船大工の造船技術と日本海沿いを北海道まで航海し、大量の物資を運んだ「北前船」や、上方大阪と江戸の間を年間1万隻も往復したといわれる「千石船」などの航海技術は、江戸時代を通じて引き継がれ、その後も海洋国家日本の物流を担った。ちなみに荒海で遭難した千石船は沈没しにくい頑丈な構造を持っていて、太平洋を長期間にわたって漂流したにも拘わらず、無事、日本に戻ってくるという「漂流譚」が数多く生まれた。そうした漂流船は、日本の造船技術の高さを示す一方、漂流先での貴重な海外情報をもたらした。

それにしても「亀甲船」という天下無敵の軍艦、世界初の装甲船がありながら、その造船技術や操船技術が、その後の子孫に引き継がれなかったのは何故なのか、不思議である。明の提督・鄭和も大艦隊を率いてインドやアフリカまでも大遠征をしたが、「宝船」と呼ばれた巨大戦艦は最後の航海のあと、皇帝の命令で焼却処分されたと言われる。何か秘匿しなければならない理由でもあったのだろうか?

映画「鳴梁」の評判が影響したのか、2年ほど前に、今度は「亀船(クィソン)」というタイトルで「亀甲船」をテーマにした映画が製作されていると伝えられた。

livedoor news 2019/2/1「KBSドラマ「壬辰倭乱1592」が「亀船」として映画化決定」>

この映画の製作がその後、どうなったかについては分らないが、想像力をたくましくして、再び度肝を抜くような「亀甲船」を再現し、その活躍を描いてくれることを期待している。できれば実物を海に浮かべて実際に当時の動力、つまり人力による櫓で動かして見せてほしいものだが、8年前(2013年1月)には、製作費7億ウォンをかけて建造した「亀甲船」の再現船が、巨済島まで運ばれる途中、麗水沖で浸水し沈没するというニュースがあった。次はぜひ成功することを祈る。

ニュース慶南2013/1/15「거제 오던 ‘거북선’ 여수 앞바다서 침수」> 

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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