日本は朝鮮民衆を伝染病から守らなかった、は本当か?①

~「植民地近代化」論を否定するために日本統治下の防疫対策も否定 その①~

韓国の文在寅大統領は、コロナ禍の中で迎えた今年の3・1独立運動記念日の演説で、実は独立運動があった100年前の当時も、感染症の脅威に見舞われた時代であったことに触れた。

3・1独立運動が起きる前年1918年から2年間は「スペイン風邪」というインフルエンザが世界的に猛威を振るい、朝鮮半島でも人口の4割を超える750万人が感染し14万人あまりの死者を出した。そして1919年と1920年は、今度はコレラが蔓延し、2年間で合わせて4万人が感染し2万4700人余りが死亡していた。日本の植民統治のなかで伝染病によるパンデミックが猛威を奮ったのは、1919年を挟んだこの3年間だけだったが、3・1独立運動は、実は、そうした衛生上で緊迫した状況の最中で起きた事件だった。

                 (3・1独立運動102周年記念式典・タプコル公園)

そして、文氏は演説の中で「日帝は植民地の民衆を伝染病から守れなかった」と述べ、「防疫と衛生を口実に、強制的な国勢調査や例外なき隔離措置を頻発した」と日本統治を非難した。その上で、そうしたなかでも「自力で患者の治療に力を尽くし、自力で医療システム整備に取り組んだ先達の努力には、大きく心を動かされる。コロナ禍に打ち勝っている今日のわれわれの力が、100年前のわが国の医療人による献身と犠牲から生まれたことを思うと、誇らしさで胸がいっぱいになる」と、まるで当時の病疫は、朝鮮の民衆や医療人の独自の活躍で克服できたとし、そうした経験が現在のコロナ克服にもつながっているかのような発言をした。本当だろうか?

文氏のこの日の演説といえば、日本のニュースでは、「いつでも日本政府と向き合い、対話する準備ができている。『易地思之』(역찌사지 ヨクチサジ)つまり相手の立場に立って考えるという精神で膝を交えれば、過去の問題もいくらでも賢明に解決できると確信している」と述べたとし、日本に融和的な演説だったと伝えられているが、とんでもない。実際は、新型コロナウイルスという感染症対策に引っかけて、日本の植民地統治という歴史問題を引っ張りだし、日本批判に終始したのである。彼の演説で、日本との対話に言及したのは2割足らずで、その他7,8割は、コロナ禍に引っかけた前述のような日本植民地統治批判と、「K防疫」と称し世界のモデルになったと自画自賛する韓国型コロナ対策に関する言及だった。

<朝鮮統治で日本は防疫に無策だったのか>

そこで文氏が言う「日本は植民地の民衆を伝染病から守らなかった」あるいは「朝鮮の民衆と医療人は自力で医療システムを整備した」という話は、本当かどうか、以下に検証する。

ここで援用するのは、金頴穂(キムヨンス)延世大学医学部研究員の「植民地朝鮮におけるコレラの大流行と防疫対策の変化 ―1919年と1920年の流行を中心にーー」(東大総合文化研究科『アジア地域文化研究』No.8 2012.3)という論文である。

金頴穂は朝鮮総督府がまとめた「大正8年(1919)虎列刺(コレラ)病防疫誌」と「大正9年(1920)コレラ病防疫誌」という報告書を丹念に読み込むことで、朝鮮総督府が講じたコレラ防疫処理の全体を描き出している。

1919年のコレラは中国満州経由とロシア・ウラジオストク経由で朝鮮半島に侵入し、朝鮮北部を中心に蔓延した。8月12日に最初の患者が発生し、10月16日に終息した。患者数は16617人、死者数は11339人だった。一方、1920年のコレラは、日本の九州地方を経由して伝播し、6月26日に始まり12月8日に終息するまで、朝鮮南部を中心に広がった。患者数は24045人、死者数は13453人だった。こうした患者・死者数の統計や初発から終息までの日付が分るのは総督府が残した前述の「コレラ病防疫誌」という詳細な記録があるからだ。

朝鮮半島での防疫処理は、1915年6月制定の「伝染病予防令」に基き、「その伝播経路を抑え、地域ごとの初発患者の発見で確実に抑えることができる」という方針のもと、早期の患者の発見と隔離が緊要の課題になっていたことが、「コレラ病防疫誌」から分る。

「伝染病予防令」はコレラをはじめ9種の法定伝染病を指定し、それらが流行する恐れがある場合、交通遮断、人民の隔離、大衆集会の禁止、水の使用禁止及び制限、ネズミの駆除、死体の検案、清潔の維持などを命令及び施行することを骨子とした。初発患者の発生と共に病毒の侵入を防ぐために速やかに行なわれたのが、港湾での船舶検疫や汽車の乗客に対する検疫、検便だった。

そしてこれを実施する責任主体は各道の警務部長で、当時、警察機構の中に「衛生局」が置かれ、保健所と同じ機能を合わせ持っていた。この警察制度については、3・1独立運動を契機に、それまでの「武断統治」による憲兵警察制度から「文化統治」による一般警察制度に変更された。しかし、この変更に伴っても、保健所機能の衛生局の役割に大きな変更はなかった。警察制度の変更については後述する。

1919年のコレラ流行時には、9月9日に総督府に臨時防疫委員会が組織され、委員長は政務総監、副委員長は総督府警務局長がなり、この委員会によって一般衛生、検疫体制、予防注射、伝染病院・隔離病舎の新設など防疫対策の大綱が決められた。

さらに医師、警察官、検疫医、看護婦による臨時防疫班が作られ、全国の主要都市を中心に派遣された。全国12道のうち11道に設置された臨時防疫班は37班で、その構成人員数(医師、薬剤師、看護師)は、1人(平沢)から26人(京城)だった。

防疫において最も力を入れたのは患者の発見だった。実際に患者の発見に有効だったのは、警察官単独、あるいは警察官と検疫医が同行して各戸を毎日1回から2回巡回する戸口調査だった。この戸口調査によって全患者の60%前後を発見している。

1920年のコレラ流行時には「防疫自衛団」という地域で防疫を担当する団体が組織された。地方によって防疫団、自衛団、青年団などと呼ばれたが、名称は異なっても行なう事業はほぼ同じで、各戸を回り、患者の発見に努めた。1920年の流行時には、全体の24%、4分の1を自衛団が発見している。

<「防疫自衛団」は総督府の指示・督励で組織された>

文氏はこの「防疫自衛団」を指して、「朝鮮の民衆と医療人は自力で医療システムを整備した」と言いたいのかもしれないが、この「防疫自衛団」は、朝鮮総督府の指示・督励のもとに組織されたものだった。

1920年の流行に際して総督府は、前年のような検疫委員会を総督府のもとに設置せず、「各道において防疫計画を樹立し、その期間の自発的な活動に俟ってその措置の万全を期したり」とし、各道において「任意に活動せしめたり」とし(「大正9年コレラ病防疫誌」)、各道において地方の有志たちから検疫委員が選ばれ、住民による防疫自衛団が組織された。

防疫自衛団はもともとは、1919年の時点で疫病予防のため各地方の官民の発起によって作られた組織で、防疫事業や予防注射の普及など官憲の措置を補助した。この組織について、1920年6月20日、政務総監によって出された官通牒では「地方民衆の衛生思想の向上と自衛心の発露に頼る所、頗(すこぶ)る大なるものがある」として道知事に自衛団の組織を促している。政務総監の指示もあり、防疫自衛団は各道の警察衛生事務を掌理していた第三部に置かれ、官憲の防疫機関である防疫本部を補助する形で作られた。新聞には「地方の有志たちの発起により防疫自衛団を組織した」(東亜日報1920/8/28)という記事もあるが、政務総監の官通牒により促された結果、地域の官憲がその組織の立ち上げに関わっていたことは間違いない。

防疫自衛団は医学的な専門知識が必要な防疫事務を除き、衛生知識の普及のための「予防心得書」の配布、「大清潔法」の実施、交通遮断などを担当した。

「予防心得書」は、日本語7万部、朝鮮語33万部が印刷され、その目次を見ると、「コレラ菌とはどんなもの、コレラ患者の容体、保菌者、応急の手当て、コレラ流行と水の注意、コレラはどうして防ぐか、予防注射」という内容だった。

「大清潔法」というのは、地域をいくつかの区域に分け、日程を決めて、地域住民が大掃除をすることだった。

「朝鮮時代の漢陽(ソウル)の通りは糞(クソ)だらけ」「世界で最も不潔な国」は、1894年に朝鮮を旅行した英国の女性旅行作家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』に書かれただけでなく有名な話だった。韓国ウォッチャー・室谷克実氏によると、中央日報(2010/9/2)に「日帝警察『1カ月間に便所1500個設置』強圧的命令」という記事があるという。

日本統治時代の鍾路警察署は1932年、鍾路大路の1535戸の商店に便所がないことが確認され、警察は1カ月以内に便所を設置しなければ厳罰に処すと厳命、1か月の間にその全戸に強制的に便所を設置させる「実績」を残したのだという。中央日報の記事を書いた記者は、「日帝の強圧」姿勢を強調したかったのかもしれないが、「日帝の強圧」があったからこそ、朝鮮の衛生環境は大きく改善に向けて動き出した。「これこそ大統領が無視する史実だ」と室谷氏はいう。

zakzakニュース21/3/11「韓国・文大統領が走る“被害者コスプレ” 「K防疫」に舞い上がり無視する“日帝強圧”の史実> 

朝鮮総督府は、朝鮮人の衛生観念が幼稚だとして、啓発が必要だと常に唱えていた。警務総長児島惣次郎は1919年8月1日付で「警務総監部告諭第1号」を発布し、飲食や暴飲暴食に対する注意、炊事場、下水、便所、塵捨場などの衛生管理、および石灰散布、ハエの駆除、手指の清潔、嘔吐や下痢の症状のある者の医師による診察など8項目で構成されたコレラ予防法を告知した。

そうした注意事項だけでなく、防疫事業では、朝鮮語による印刷物の配布のほか、宣伝画、衛生講話、活動写真会、幻燈会、衛生劇、衛生展覧会など多様な方法が用いられたほか、朝鮮人の耳にもなじんでいた流行歌に宣伝用の歌詞をつけて広める努力も行なった。活動写真の上映会は、咸鏡南道の場合、数十回開かれ、その入場人数は3万7000人、衛生講話の開催は咸鏡北道の場合、491回、述べ9万人以上が参加した地域もあった。印刷物による宣伝より、活動写真の利用が衛生思想の向上、伝染病の予防には効果があったと「大正9年コレラ病防疫誌」には書かれている。

流行地域への交通遮断では、汽車、船舶、徒歩による旅行者への検便を実施し、人々の移動を厳しく制限した。予防注射は義務ではなかったが、無償化することによって接種を督励し、また移動するときは予防注射済証や検疫済証の提出が求められ、証明できないときは検便を行なって保菌者でないことを証明する必要があった。そのため予防注射をする人が増え、予防注射はこの時期を特徴づける防疫事業の一つとなった。それは数値からも読み取れる。予防注射をした人は1919年には1,444,318人、1920年には6,876,336人を記録し、一年で4倍以上に増えた。

今の新型コレラ・ワクチンの接種より、はるかに効率よく実施されたことがわかる。以上のさまざまな防疫対策の実績を見ても、文氏は「日本は植民地の民衆を伝染病から守らなかった」というのだろうか。文氏が、以上の事実を知りながらも、そんな発言をしていたとしたら、「嘘つき」と呼ばれても致し方ないだろう。(続く)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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