人身売買された朝鮮人娼妓・酌婦こそ「性奴隷」だった

<慰安婦は性奴隷ではないという証明 その②>

前回のブログでは、韓国の人々やラムザイヤー論文を批判する人たちは、なぜ、「慰安婦は性奴隷である」ということに頑(かたく)なに拘(こだわ)るのか、という疑問を呈した。そして「慰安婦は契約に基づく自発的な売春婦」と主張するラムザイヤー論文を「虚偽、でたらめ」だと否定する人たちが、その根拠に挙げている「契約書」の不在、つまり契約書そのものを証拠として提示できないことについて、当時、募集業者(人身売買ブローカー)が貧しい農家などから女性を誘い出すにあたって、その親から「白紙委任状」という契約書を受け取っていたという事実を、当時、人身売買事件を報じる新聞記事を通して実証した。

            (写真:「朝鮮南部連続少女誘拐事件」の被害者の女性たち)

「白紙委任状」という言葉は、前回も取り上げた「朝鮮南部連続少女誘拐事件」という一連の人身売買事件を扱った多くの新聞記事の見出しの中に何回も出てきた言葉だった。つまり当時、白紙委任状という実物があり、それが実際に機能していたことは間違いのない事実だったのである。白紙委任状というのは、ある意味、法をかいくぐるための卑劣な手段ではあったが、親に前借金を与え、養女などとして女性を誘い出し、人身売買ルートに乗せるための、まさに「契約書」そのものだったのである。

白紙委任状のまさに「白紙」たる所以(ゆえん)は、委任状を提出する先、宛て名の部分が白紙つまり空欄となっていることにある。この委任状の宛て先が空白になっていることで、前借金を受け取る見返りに娘を「養女」として差し出す相手が、募集業者でも、周旋業者、あるいは女衒・「人肉商」と呼ばれる仲介ブローカーでも、または女性の転売先である売春宿や料理屋の主人・抱え主でも、誰でもがその名前を後から書き込むことができた。この白紙委任状と戸籍謄本、印鑑証明をそろえることで、女性の戸籍を変えて養女とすることができた。女性の親権はその人物のもとにわたり、親権者であるブローカーや抱え主は、その後は女性をいかように扱っても自由だった。つまり売春宿に娼妓として売ろうが、料理屋で酌婦として働かせようが好きにできたのだ。

実は、「性奴隷」というなら、朝鮮で当時、こうして人身売買の対象となり、あるいは「連続少女誘拐事件」のように、騙されたり脅かされたりして略取・誘拐・拉致され、娼妓や酌婦として転売された女性こそ、性奴隷というべきだという主張する研究者がいる。前回も登場した『反日種族主義』の著者の一人で李承晩学堂理事の朱益鐘(チュ・イクチョン)博士である。以下は、朱博士によるYoutube動画での解説から引用する。

<Youtube動画「日本軍慰安婦が性奴隷ではない理由 - 慰安婦前借金取引の正体」

たとえば連続少女誘拐事件の代表例である「河允命事件」の場合、わずかの金を受け取る代わりに、娘を売り渡した親たちは、その後、娘がどこで何をしているか知ることさえできなかった。女性たちは娼妓・酌婦として転売されるのだが、女性の両親はすでに娘に対する親権を実質的に喪失し、何も口を挟むことはできなかった。そして親に渡した前借金は、娼妓・酌婦となった女性自身の債務になった。娼妓・酌婦となった女性の処分権は抱え主が持っていて、女性は再びどこにでも転売することができた。これこそ身体自由権の完全な喪失だった。

本来の公娼は規則で「前借金」に利子を付けることは禁止されていたが、警察や行政の監視は緩く、実際には利子が付く場合が多かったという。そして利子つきで高く転売することで、業者は前借金を回収し、女性の側は、転売されるごとに債務は膨れあがった。そして債務が膨れ上がることでますます返済しにくくなり、娼妓・酌婦の就業は事実上、無期限に続くことになった。文字通り苦界に沈み浮かび上がれない、このような娼妓・酌婦こそ性奴隷と呼ぶべきだと、朱博士は主張する。

しかし、韓国の慰安婦活動家たち、慰安婦支援団体の人々は、かつて朝鮮にいた娼妓や酌婦については全く関心を示さない。当時の娼妓や酌婦がどのような背景で、なぜ、そういう身分に転落したのか、知ろうともしない。本当に女性の人権に関心があるなら、人身売買され娼妓や酌婦にされた女性たちの運命がどうだったのか、性奴隷としての側面にもっと関心を払うべきではないのか。

ところで、「河允命事件」など「朝鮮南部連続少女誘拐事件」の被害者の女性は、ウィキペディアで紹介されている事件を数えただけでも、その総数は700人を上回る。これらの誘拐被害者が、その後、慰安婦になったという形跡はなく、韓国政府に名乗り出て「元慰安婦被害者」だと認定された246人の女性のなかにも、これら誘拐事件の被害者だと証言した人はいないようである。つまり、韓国政府認定の「元慰安婦被害者」といわれる人たちは、連続少女誘拐事件のような犯罪事件の被害者として人身売買された人たちではなかったということだ。

一般的に「慰安婦=性奴隷」説を主張する人たちは、「慰安婦徴募」という言葉を使って、慰安婦たちは強制的に連行された、あるいは拉致監禁されたというニュアンスを伝えようとしている。しかし、この「徴募」の「徴」という漢字は、本来は「呼ぶ」という意味で、兵士を集める「徴兵」、税金を集める「徴収」などという言葉に使われるように、「徴」という行為は国家が行なうものだった。しかし、個々の慰安婦募集に国家や官憲が関与したことはなく、あくまでも民間の募集業者が行なったもので、慰安婦の募集に「徴募」という言葉を使うのは不適切であることが分る。

一方で、慰安婦の場合は、人身売買されたわけではない。したがって債務によって縛り付けられた奴隷ではなかった。彼女らは「賃金前払い契約」と言う「契約」を結んだ労働者だった。慰安婦の中には、虚偽誇張宣伝に乗ってしまったという人はいたかも知れないが、いずれにしても「契約」に同意した人たちだった。そして彼女たちが海外の慰安所に行くためには、同意書や身分証明書、戸籍謄本や印鑑証明など必要書類を揃えなければならず、犯罪的な拉致や誘拐などによる募集は不可能だったことは、前回までのブログでも紹介した。

その点、朝鮮における娼妓・酌婦は、国家権力の管理や監督から遠く、募集・周旋業者の規制が緩く、そのせいで無法な人身売買事例が横行したが、慰安婦については、日本軍が管理した慰安所の慰安婦の場合は厳しい管理・監督下に置かれた。こうした日本軍の管理監督があったからこそ、慰安婦女性は性奴隷ではなかったということもできる。

実際に慰安婦の実態はどうだったのか?ビルマの日本軍が1984年8月に連合軍に降伏したあと、その捕虜になった朝鮮人慰安婦20人を米軍が尋問した尋問記録がある。それによると、朝鮮の女性たちが慰安婦となった経緯については次のように説明している。

募集業者が多額の収入を得られることを提示し、家族の負債を返済できる機会だと思ったこと、たいして辛くはなさそうな労働と新天地シンガポールでの生活ができるという虚偽の説明を信じたことだそうだ。つまり簡単に金儲けができるという甘言に騙されて応募したことになる。その慰安所には22人の慰安婦がいたが、前借金の額は300~1000円、年齢は19歳~31歳だった。年季明けまでの期間は通常は2年で、1942年7月に朝鮮を離れ、8月にビルマに到着した慰安婦たちは、その1年後の1943年秋から債務が完済されれば帰還できるという指示を受けていたという。報酬は、事業主と慰安婦が半々に分け、そのなかから前借金を返し、残りの金を貯金したり送金したりした。事業主は慰安婦に食事を提供する代わりに、衣服や身の回り品などを高く売りつけて利ざやを稼いでいたようだ。

週休はなく、1日5~6人を相手にする高強度の労働をしていたとはいえ、慰安婦は売上げの50%を自分の収入とし、それを前借金の返済に当てたほか、残りは自由に使うことができた。債務を返済すると1年後から帰還が可能で、ビルマの場合、2年後にはほとんど慰安所を離れることができた。慰安所の経営や料金、慰安婦の健康、慰安婦の移動手段などは軍が管理していたとはいえ、これだけをもって、慰安婦を「性奴隷」にしていたと、はたして言えるのだろうか?

ビルマで慰安婦として働いたといい、その体験を証言録に残した文玉珠(ムン・オクジュ)という女性がいた。

彼女の証言によれば、大勢の女性たちと釜山を船で出発し、ビルマのラングーンに到着したあと、慰安婦にさせられる事を朝鮮人の日本軍兵士から聞いて、はじめて騙された事を知ったという。しかし、同時にやはりそうだったかと妙に納得したともいう。ビルマでは、客からチップとして貰った金を貯めて故郷に送金した。当時、「千円あれば小さな家が一軒買える」といわれたほどだが、女性は母親に小さな家が何軒も買えるほどの大金を送金していた。「貯金通帳はわたしの宝物となった」という彼女は、5千円を実家に送金したといい、「母を少しでも楽にさせてあげられると思い、晴れがましくて、本当にうれしかった」と語っている。また「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった」。「ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。」「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った」と語っている。

これほどの生活を送った人のどこが「性奴隷」なのだろうか?

<文玉珠『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』(構成:森川万智子、梨の木舎1996>。(<Wikipedia文玉珠>より引用)


富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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