中国主導の世界秩序を許していいのか?

習近平がその威信と面子をかけて開催した国際会議「一帯一路」サミット(5月14・15日)は、北朝鮮による新型弾道ミサイル発射という、めでたくもない「祝砲」で迎えられた。中国など意にも介さない「ならず者国家」がすぐ隣に控える現実のなかで、習近平は、「一帯一路」という枠組みへの参加各国の協力があれば国際社会の「平和と繁栄」の達成は可能だとし、会議の成功を宣言した。米国にかわる覇権奪取を試み、周辺民族の強権支配のみならず遠くアフリカ諸国まで植民地支配を進める中国に、このまま世界秩序、国際的な枠組みづくりを任せ、認めてもいいのだろうか。


ところで今回、北京に集まった各国の首脳は29人、国連など国際組織のトップ3人を含め、130カ国余りの代表約1500人が出席。これを取材するマスコミも世界中から4000人余りが取材登録したという。ところがこの各国からの参加者は、中国が出した招待状によって予め選別、格付けされていた。招待状を首脳レベルに出した国と閣僚級に出した国、それに招待状さえなかった国に峻別されていた。こうしたランク分けは、取材に当たる外国メディアにも行われ、「首脳会合が開かれたメイン施設や記者会見場に立ち入ることができたのは、中国から選ばれた一部メディアだけだった」と産経新聞・藤本北京支局長は報告する。

<首脳を招いてほしければ、記者会見に出たければ、「歩み寄って来なさい」ということなのだろう。「ウィンウィン(相互利益)」「開放」を掲げた一帯一路の実像が透けてみえる。>(産経コラム北京春秋5月16日)

これこそ中国モデルであり、歴代シナ王朝の伝統的思考方式でもあった。中華思想、華夷秩序を基本にする歴代王朝には、「天子」である皇帝の威徳が及ぶ範囲はすべて「天下」であるという世界観がある一方で、「天下一家」、「華夷一家」あるいは「中外一家」とする対外政策、あるいは世界秩序の考え方があった。つまり周辺異民族の蛮王との関係を家族関係にたとえ、父と子の関係、あるいは祖父と孫の関係にたとえ、それによって異民族国家の格付けをした。例えば、明の時代、日本や朝鮮とは父と子の関係、琉球や安南(ベトナム)とはそれより一段下の祖父と孫の関係と位置づけられた。朝貢の際しては、そうした格付けに応じて処遇された。いずれにしてもシナ王朝の皇帝が一段上の高みに立ち、周囲を睥睨する構図に変わりはなく、それは現代の「一帯一路」にも一貫している。

「一帯一路」という「天下」構想や、今回、北京詣でに集まった各国の首脳や代表を見て連想させられたのは、600年前、明の永楽帝による「鄭和の大航海」とその朝貢外交である。

宦官の鄭和は永楽帝の命を受け、1405年から1433年までの28年間に、2万7000名の兵と60隻の戦艦を率いて東南アジアからインド洋、さらに中東、アフリカ東海岸までの大航海を前後7回にわたって行った。いまの中国政府は、鄭和を「平和の使者」だと主張し、大航海を「平和外交」だと喧伝するが、とんでもない。鄭和は行く先々の国で明皇帝への朝貢を促すため、莫大な額にのぼる下賜品をばら撒いたほか、鄭和の要請を拒絶し敵対的な態度に出た国には、武力を用いて侵攻し、都市を破壊して国王を拉致したり、内政に干渉して国王を取り替えることも辞さなかった。「天下を以って一家となす」とは、君臣としての主従関係を結ぶことであり、決して対等な関係ではなく、明王朝を頂点にした「天下」支配、国際秩序の確立を目指したものだった。軍事的威嚇や侵攻、力にものを言わせた砲艦外交そのものだった鄭和の大航海によって、結果的にはアジア・アフリカの60カ国余りがシナに使節を派遣し、明との間に朝貢関係を結ぶことになった。一帯一路会議に集まった各国に、それぞれどんな意図があったかは別にして、現代の中国皇帝・習近平の下賜品に群がり、利益に与ろうとする姿は、かつての朝貢国とどこに違いがあるのだろうか?

歴代シナ王朝から現代中国まで、彼らの対外関係や行動様式を「天下」というキーワードで解きほぐしたのが、京都女子大学名誉教授の檀上寛氏の名著『天下と天朝の中国史』(岩波新書2016・8)だ。その檀上氏によると、シナ伝統のこうした天下観は、現代中国でも「天下体系」(天下システム)という言葉に置き換わり、「一帯一路」構想や「新型の大国関係」など、新たな世界秩序をつくる重要な考え方として引き続き命脈を保っているという。


ところで、習近平は、今回の会議冒頭の基調演説で「一帯一路」構想は「人類の運命共同体」づくりだと強調した。その基になる考え方として繰り返されたのは「シルクロード精神」と「五通思想」だった。シルクロード精神とは「平和協力、開放的包摂、相互学習・相互参考、互恵・ウィンウィン」を推し進めることだといい、「五通」思想とは「政策の意思疎通、インフラ施設の連結、貿易の円滑化、資金の調達、民心の通じ合い」を共通の努力目標にすることだという。相変わらず美辞麗句を連ね、具体的な筋道を明かさずに、理念だけが先走った構想だといえる。

北朝鮮の新型ミサイル発射に象徴されるように、いまや世界最大のリスクとなった隣国北朝鮮の問題さえ解決できずに、「平和と繁栄」を語るのは、「一帯一路」構想の根拠や実現可能性にも疑問符がつきかねない。「一帯一路」の重要プロジェクトと位置づけられるパキスタンのグアダル港から新彊ウィグル自治区のカシュガルまでの「中国~パキスタン経済回廊」(China-Pakistan Economic Corridor)をめぐっては、グアダル港を抱えるパキスタン南部のバルチスタン地方を中心に、ルートの建設に反対する住民らによる反中国テロが頻発している。そもそも「天下一家」を旨とし、漢族も少数民族もみな等しく「中華民族の大家庭」に属すると標榜しながら、チベット人やウイグル人、モンゴル人など中央政府に叛旗を翻す民族問題さえ解決できずに、「一帯一路」関係国の共存共栄など、どうして語ることができるというのか?

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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