韓国政府による「徴用工」だった西ドイツへの炭鉱労働者派遣

韓国の朴正熙政権下での急速な経済発展は「漢江の奇跡」と言われた。朝鮮戦争で全土が戦火に焼かれた韓国は1960年代初めには、世界でも最貧国の一つに数えられた。1960年当時、世界銀行がまとめた国民一人あたりの所得は、世界120か国中、インドが最低の52ドル、韓国が下から2番目の72ドル、北朝鮮は下から3番目の86ドルだった。つまり韓国は、北朝鮮より貧しい国だった。 

そんな韓国が経済発展を遂げるためには、資金が必要だった。そして、その資金を提供したのは日本であり、日韓請求権協定によって経済協力金名目で支払われた有償無償の5億ドル、民間の借款を含めれば総額8億ドルの資金援助だった。その資金によって「京釜高速道路」が建設され、「浦項(ポハン)製鉄」が操業したというのは、日本人の常識である。 ところが、韓国では歴史教科書の「漢江の奇跡」に日本はいっさい登場しない。

教科書ばかりではなく韓国国営放送局KBS韓国放送公社の日本向け国際放送の「漢江の奇跡」に関する説明でも、日本の貢献に関する言及はひと言もない。国際放送KBSワールドの日本語ホームページに今も掲載されている「光復70周年大韓民国パノラマ」という特集ページを見れば、それは明らかだ。

 

わざわざ日本人向けの日本語サイトで、国営放送KBSがこうした説明をするということは、明らかに今の韓国政府が歴史のねつ造、隠蔽を主導し、そうした欺瞞の歴史を自国民に強要して洗脳し、日本国民をも欺こうとしているということになる。 

それでは「漢江の奇跡」を達成するために必要な資金を、どこから得たと言っているのかというと、韓国の歴史教科書やKBSの説明では、西ドイツへの炭鉱労働者・看護師の派遣による外貨獲得と、ベトナム戦争への韓国軍派兵の見返りに米国から支給された資金援助だったという。 

このうち、西ドイツへの炭鉱労働者や看護師の派遣とは、実際にいかなるものだったのかを見てみよう。日本が戦前、朝鮮半島出身労働者を「募集」あるいは「官斡旋」で受け入れ、炭鉱などでの労働に従事してもらった実態とどういう違いがあるのか?韓国が日本を糾弾するときに使う「強制労働」や「強制徴用」と韓国政府による西ドイツへの労働者派遣は、いったいどこにどういう違いがあるというのか? 

KBS国際放送の「#コリア70年」という歴史回顧シリーズの中の 「西ドイツへ向かった韓国の青年たち」(2015年3月17日放送)と、 在日本大韓民国民団の機関紙「民団新聞」2004年9月15日付の記事をもとに再現してみる。 

朝鮮戦争が終わったあと韓国への無償援助を段階的に減らしていた米国は、朴正煕が1961年の軍事クーデタで政権を握ったあと、当時のケネディ大統領がクーデタによる政権を認めず、韓国への経済援助を中止した。ケネディは、急遽渡米した朴に会うことも拒否し、手ぶらで帰国しなければならなくなった朴は、帰り支度をしながら悔し涙を流したという。 そうした中、朴正熙は1962年の新年の辞で、突如として自立経済達成を目標とする経済開発5か年計画を発表した。しかし、元手となる資金はなく、信用格付けの低い韓国に対し借款を提供する国もなかった。そうしたなか敗戦国家であり、同じく分断国家である西ドイツが1億4000万マルク、3000万米ドルの提供を申し出た。しかし、貧しい韓国に対して元金や利子の支払いを保証してくれる銀行はなく、借款の担保としてドイツから要請されたのが、当時ドイツ国内で労働力不足が深刻だった炭鉱への労働者の派遣であり、韓国人看護師の導入だった。かれら派遣労働者の給料を借款の担保にすることが条件になった。 

1963年の夏、韓国政府は全国の新聞に「3年間、毎月159ドルの賃金をもらえる」という内容で、西ドイツに派遣する炭鉱労働者5千人と看護師2千人を募集するという広告を出した。それに対して、炭鉱労働者に4万7000人、看護師に2万7000人の応募があった。当時の韓国の失業率は8.1パーセント。働きたくても働く場所がなかった韓国の若者たちは高い賃金をもらえる西ドイツの鉱夫募集に高い関心を示した。

そして高い倍率のなかで選ばれたなかには大学卒業者も多くいた。最初の若者247人が西ドイツに旅立ったのは1963年12月、その後、1977年までのべ7936人(8395人という説も)の若者が西ドイツに派遣された。1965年からは韓国人看護師の西ドイツでの就職が認められ、1976年までのべ1万371人(1万2000人とも)の若い女性が西ドイツに渡った。

炭鉱労働者として派遣された若者たちは、ドイツ・ルール地方の炭鉱で働き、地下1000mから3000mという最深部で、30度を超える気温と石炭粉塵のなか、ドイツ人が8時間働くところを韓国人は10時間も働かされたという。落盤事故による死者が出たほか、粉塵を吸い込んでじん肺を発症する者も出た。 「3年の雇用期間を終え、西ドイツ派遣労働者の第1陣142人が帰国したのは66年12月。ほとんど全員が骨折傷の病歴を抱え、死亡者、失明者もいた」という。 <民団新聞2010/6/23「焦土化から60年韓国経済の軌跡」> 

 同時期に西ドイツに派遣された看護師たちの労苦も、彼らと変わることはなかった。 看護師たちは田舎の病院に送られて、仕事は看護ではなく、死体を洗浄することだった。韓国から来た炭鉱労働者や看護師は泣き言も言わず、一生懸命働き。西ドイツの人々はその姿を見て、看護婦にはコリアン・エンジェルという賛辞を送ったという。 

1964年12月、朴正煕大統領が国賓として西ドイツに招かれ、炭鉱労働者や看護師らと会って激励する機会があった。「異国で働く人々は祖国の大統領の激励に泣き、朴大統領も泣いた。そのとき同席していた西ドイツのリュプケ大統領ももらい泣きした。朴大統領はホテルに帰る車の中でも泣き続けていた」(民団新聞2004.9.15)という。よく泣く大統領である。しかし、なぜ泣く必要があったのか?派遣労働者たちの苦労に同情するとしても、そんな状況に追い込んだ負い目がなければ、泣く必要はないのではないか。 

西ドイツへの韓国人労働者派遣の実態は、戦前に朝鮮半島の労働者が日本に渡った際の「募集工」や「官斡旋」と呼ばれる募集方式とどこにも違いはない。いずれも高額の報酬に憧れて、自らの意思で異国に渡ったことに変わりはない。

ドイツに渡った若者たちは、給与のほとんどを家族のもとに送金したという。、 ドイツに派遣された労働者が韓国に送ったお金は、最初のうちは数百万ドル、半ばを過ぎると、延べ数千万ドルに達した。派遣労働者がドイツで得た収入はすべて外貨獲得となり、当時の輸出総額のおよそ3%を占める金額だったという。 ところで、西ドイツの炭鉱に最初の韓国人労働者が派遣される前、1957年から1962年までの5年間にわたって、日本の炭鉱労働者が毎年派遣され、合わせて436人が働いていたが、韓国人労働者の派遣にともなって日本人は引き上げている。韓国人は炭鉱で働いた経験のないズブの素人だったのに比べ、日本人労働者は日本の大手炭鉱会社でエリート社員として働き、西ドイツの炭鉱での技術研究の名目で炭鉱会社から派遣された技術留学生たちだった。 (三浦洋子「西ドイツの韓国人炭鉱労働者」千葉経済論叢63号)  

そうした日本人に変わって入ってきた大量の韓国人労働者は、西ドイツにとっては、明らかにコストカットのための低賃金補充労働者の位置づけであり、韓国への借款が回収できない場合に備えての体(てい)のいい人質だったに違いない。 

それにしても金額だけ見れば、労働者派遣で西ドイツからの借款は3000万ドル、1965年の日韓請求権協定で日本が支払った経済協力金は民間の借款を含めて8億ドルである。「漢江の奇跡」に寄与した資金として、どちらが大きいかは幼稚園児でも分かる。それを韓国の歴史教科書やKBSをはじめとするメディアはいっさい隠蔽し、歴史をねつ造・偽造するのである。 実は、韓国はその後もベトナム戦争への派兵や、中東やアフリカの灼熱砂漠への建設労働者の派遣など、労働力輸出による外貨獲得を政策的に推し進めてきた。まさに国家権力による「徴兵」や「徴用」とどこに違いがあるのか? 

かれら韓国の王朝国家は、朝鮮時代から民衆を奴隷として搾取し働かせることは、お手のものだった。そして、皆が両班(ヤンバン)として働かずに暮らす生活を理想とし、汗を流して力仕事をするのは下等な人間だと見下していた。そうした考え方はいまでも続いていて、大学を卒業した者は公務員とか財閥系企業を目指し、肉体労働するぐらいならニートとして親のすねをかじって暮らすほうがましだと思っている。それが若者世代の失業率が20%にも達する原因でもある。韓国の生産現場を担っているのは、東南アジアや中央アジアからの外国人労働者で、そういう人たちが大勢集まる街が各地にできている。 

今も両班に憧れる韓国の人たちは、炭鉱や鉱山で働くという意味や労働の実態を知ろうともせず、戦前に日本で働いたといえば、誰もが「強制労働」や「奴隷労働」で無理やり働かされたと考え、日本に対して「徴用」だ「強制労働」だと、ただ騒げば、濡れ手に粟で賠償金が手に入ると思っている。

 炭鉱や鉱山は、採炭・採鉱に関する知識や専門的な技術もない無知・無能な人間を無理やり働かせても、務まるような場所ではなく、事故から自分の身を守るための安全対策や作業の手順をしっかり押さえていなければ、危険すぎてとうてい働かせることはできない場所だった。朝鮮半島出身の労働者が炭鉱や鉱山で働く場合は、当然、そうした知識や技術を習得し、職場での命令を聞き取ることができる日本語能力を持った人々だったから、日本人と同じ待遇で給料が支払われたのである。 

『反日種族主義』の著者の一人李宇衍(イ・ウヨン)博士は、1939年から終戦の1945年まで、労務動員とは関係なく、お金を稼ぐために自らの意思で合法的に日本に渡った朝鮮人が165万人、密航を試みて発覚した人が2万人、 募集と官斡旋により労務動員された人が50万人いたという数字を紹介した上で、「あの時代の大きな流れは『ロマン』といっても過言ではない、新文明と高賃金の機会を求め日本に押し寄せた朝鮮人の大きなうねりでした。日本の労務動員も、このような時代の流れを前提にして、朝鮮人の労働力を軍需関連産業に誘導しようとしたものでした」(『反日種族主義との闘争』文藝春秋2020年p89)と書いている。 

そして『反日種族主義』での李博士らの主張に対して、「朝鮮人の賃金は日本人より低く、民族差別があった」という批判があったことについては、「当時、炭鉱やその他の鉱山の賃金は、基本的に成果給でした。大体日本人の熟練度は、朝鮮人より高いレベルにありました。・・さらに日本人の超過勤務が朝鮮人よりずっと多かった。(それは)朝鮮人と違い日本人には扶養しなければならない家族がいたためでした」(同書p99)とし、給与に違いが出たのは経験年数と熟練度、それに扶養家族に違いがあったからで、民族差別はなかったと結論づけている。 

そして、日本に渡った朝鮮人労働者の40%が、途中で職場を放棄して逃亡し、しかも朝鮮半島に戻るのではなくそのまま日本に留まって、別の職場に移っていたという事実こそ、彼らが自由な労働環境の中にいて、強制労働や奴隷労働ではなかったことを物語る証拠だ、としている。

 さあ、韓国政府が西ドイツに派遣した炭鉱労働者と、戦前に日本で働いた朝鮮人労働者にどういう違いがあったのか、具体的に提示して欲しい。「佐渡の金山」で働いた朝鮮人労働者たちが「強制労働」や「奴隷労働」だったということを具体的な証拠を挙げて論証していただこう。「両班」の腐った泥棒精神しか持ち合わせない人々に、産業近代化を支えた崇高な労働者たちの真の価値など評価できるはずもないだろうが・・・。 

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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