慰安婦問題は徹頭徹尾、韓国国内問題だ

慰安婦問題の本質は、徹頭徹尾、韓国社会あるいは朝鮮民族内部の問題であることは明かだ。朝鮮半島で慰安婦を募集し、中国大陸や東南アジアを集団で連れ回したのも朝鮮人なら、戦地で慰安所を経営して慰安婦を管理し、莫大な利益をあげたのも朝鮮人たちだった。崔吉城氏(広島大学名誉教授・東亜大学教授)の『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実~文化人類学者が読み解く「慰安所日記」~』(ハート出版、平成29年11月)を読めば、それらが否定できない事実であることが分かる。

「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したはずの国際公約である「日韓合意」の不履行、実質無効化を宣言した文在寅政権は、またもやゴールポストを勝手に動かし、自らを底なしのどろ沼に引きずりこみ、解決不能な袋小路に陥ってしまった。慰安婦問題はすべて、韓国内部で処理すべき問題として突き放し、日本は一切関わらないほうがいい。

<朝鮮人同胞でなければできなかった「慰安業」>

『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』のもととなった『慰安所日記』を書いたのは、全羅南道出身で代書屋や売春業を営んでいた朴という名の男で、1942年7月、22人の慰安婦で構成された「慰安団」を率いて釜山の港を船で出発し、ビルマ各地に女性を送り届けたあと、ラングーンやシンガポールなどで「慰安所」の帳場を取り仕切った。日記は、朴某が翌年1943年12月に朝鮮に帰国するまでの間、日々の行動や見聞を書きためたもので、ハングルと漢字を主体に、ときおり日本語を交えて書かれていた。

著者・崔吉城氏による解読・分析によって分かるのは、「慰安所」は朝鮮人が経営した民間の「売春宿」であり、「慰安婦」と呼ばれた人たちも売春を「稼業」、生業(なりわい)とした女性たちだった。また「強制連行」を匂わせる記述はひと言も見られず、「性奴隷」などと呼ばれる実態も微塵もなかったことが分かる。つまり朝鮮半島で女性たちを集めて戦地に引率したのも、現地で慰安所を経営していたのも、みな朝鮮人だったのであり、慰安所の朝鮮人経営者は慰安婦を補充するために何度も朝鮮半島との間を行き来していた。考えてみれば、それは当然のことで、女性を騙して連れていくにしても、慰安婦という仕事を納得させるにしても、言葉が通じなければどうしようもなく、同じ同胞である女衒や経営者が絶対に必要だったのである。一般的にビジネスでも戦場でも、海外では現地の事情に通じ、道先案内をする協力者が必要であり、言葉が話せることが必須だった。中国大陸での戦闘では、のちに「漢奸」と呼ばれた大勢の中国人が日本軍のために働いてくれたのである。

<慰安所は営外施設として民間業者の委託経営だった>

朴氏の日記に登場するビルマやシンガポールの慰安所の経営者たちは、創氏改名で日本名(通名)を名乗ってはいるが、そのすべてが朝鮮人であり、「桜倶楽部の金川栄周氏」、「文楽館の新井清次氏」「ラングーン会館の岩下氏」など慰安所の個別名とともに経営者の日本名(通名)が40人以上も挙げられている。なぜ日本名で表記したのかというと、当時、朝鮮半島出身者も日本国民として庇護されていたという事情もあるが、売春業という賤業を営む身分であり、少しでも本名を秘匿したいという意識があったと思われる。(p189)

当時、日本国民でもあった朝鮮半島出身者たちは、中国やビルマ、インドネシア、マレーシアなど日本軍占領地や前線地域で、慰安所の他、食堂や餅屋、製菓所、豆腐屋、製油工場、写真館などの様々な商売を営み、慰安所と食堂を一緒に経営する例も多かった。(P145)彼らは朝鮮人同士のネットワークを作り、慰安所の経営者たちが集まって各地に「慰安所事業組合」を作り、仲間内で組合長を選ぶ選挙まで行っていた。

旧日本軍の「営外施設規定」の条文によると、「慰安所」とは軍の外の「営外施設」であり、「地方団体等の篤志により開設したる軍人慰安施設」と規定され、「特殊慰安所は部隊に於て直営せず、委託経営せしめたるものとする」とある。日本軍が占領した地域では軍政が施行され、居住や旅行許可など各種の届け出や証明書の発行など一般行政事務は軍が行っていた。慰安所や食堂、食料品店など、軍が得意先として使う店舗は「軍指定施設」として登録された。つまり慰安所とは、あくまで民間業者による経営・管理に任され、軍が関与するのはせいぜい衛生管理だけだった。

<慰安婦問題の真実は朝鮮人経営者こそが明らかにすべき>

慰安所が軍の命令で移動したという明確な証拠はなく、朴氏の日記には逆に軍の命令には従わなかった例として、次のような記述がある。ビルマにいた第55師団から朝鮮人の経営する慰安所をマンダレーの近くのイェウというところに移転せよという命令があったが、慰安婦一同は絶対反対だった。「移転せよ」という師団からの命令に対し、「慰安婦たちが反対」して「行かなかった」というのである。慰安所が軍の所属や施設であったならば、「慰安婦一同が絶対反対だから行かない」などということはあり得なかっただろう。慰安所の建物は、軍の施設ではなく民間のものだったから、朝鮮人経営者の間で自由に売買や譲渡もできたのである。(p155)

また慰安婦らが移動で使う船や鉄道などを利用するときは「便乗」と称し、軍用列車に乗るときは、軍の司令部に便乗申し込みを行い「便乗券」を購入して乗車した。慰安所や慰安婦が軍に所属していたとしたら「便乗」とは言わないだろう。(p165)戦時中のことであるから、軍と官と民が一体になっているのは当然である。ただ、この日記を見る限り、慰安所に関与する人たちを、軍の組織の中の、軍人や軍属として位置づけることはできない。軍の命令、管理のようものはあっても、慰安所は基本的に軍の外側で営業したとしか言えないからだ。(p179)

慰安所の経営者は、客である軍人を呼び込むために駐屯する日本軍司令部に営業をし、軍との良好な関係を維持しなければならかった。戦地を日本軍と一緒に行動することで、日本軍の信頼を得て、慰安所の経営の傍ら、さまざまな商売にも従事し、ときには軍用車両の修理など秘密の軍需工場を任されることもあった。日記では「横浜正金銀行に3万2000円を貯金した」、「3万9000円を朝鮮に送金した」など、慰安所の経営者たちが巨額な金を動かしていたことを明らかにしている。当時、公務員の初任給が75円で、これを現在の20万円相当として計算すると、当時の3万9000円は現在の貨幣価値にすると一億円に近い大金となる。

慰安婦問題の真実を明らかにするには、慰安所を経営し、直接、慰安婦を管理し、彼女らの実態をもっとも身近で知っていた朝鮮人経営者が、表に出てきて証言するのがいちばん手っ取り早いはずだ。慰安婦を搾取し巨額の利益を上げた彼らが、戦後はみな沈黙し真実を明らかにしないことこそを糾弾すべきであり、それこそ韓国国民がもっとも嫌う「親日派」「民族の裏切り者」として怒りをぶつけるべきではないのか。

<「性奴隷」というにはあまりにも裕福な慰安婦の生活>

実は、朴氏一行が釜山から乗った船には「文玉珠」という名の慰安婦が同乗していた。彼女のインタビュー証言は、金文淑著『朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店1992年)や森川万智子著『文玉珠 ビルマ戦線盾師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎1996年)にまとめられている。釜山を出発した日づけや移動した場所・行程が、朴氏の日記の内容と一致することから、崔吉城氏は、朴氏の日記と文玉珠の証言をつき合わせて検証している。

文玉珠の証言によると、18歳のとき朝鮮人経営者の宋(日本名は松本)という男から「金が儲かる食堂がある」と聞かされて、船でビルマまで連れてこられ、「ラングーンに着いて、はじめて自分たちが慰安婦として“軍隊に配属された”ことがわかった」という。また釜山を出港した船には、ほかの男たちに連れられて娘たち150人から200人も乗っていたというが、朴氏の日記では、彼女たちがどこでどのように募集に応じたのかについての言及はなく、「強制連行」を匂わす言葉はどこにもなかった。(p141)。

慰安所では、兵隊は料金と引き換えに慰安所切符を受け取り、部屋に入ってから慰安婦に渡していた。慰安婦は毎晩、集まった切符を経営者に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された。しかし、こうした金はご飯のおかずや服代、それに煙草や酒代などで生活費としてすべて消えてしまい、貯金できたのは兵隊からもらったチップだったという。文玉珠はそのチップを集めて1万5000円を「野戦郵便局」に貯金していた。「こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邸に小さな家が一軒買える。・・貯金通帳はわたしの宝物となった。」(p143)

「ラングーンでは、週一度か月に二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。・・ビルマは宝石がたくさんでるところで、ルビーや翡翠が安かった。・・わたしも一つくらい持っていた方がいいと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。」(p127)

さらに文氏の証言によると、日本の兵隊と恋に落ちたり、結婚をしたりした例もあったという。(p136)。これは朴裕河教授の『帝国の慰安婦』にも出てくるエピソードであり、「慰安婦は日本軍兵士と同志的連帯関係にあった」という問題の記述と重なり、これが原因で裁判では有罪とされたのだった。さらに驚いたことに文玉珠には「酔っ払って斬りかかってきた兵長を逆に殺した」というエピソードもあった。その後の軍法会議では正当防衛が認められて無罪になり「わたしの無罪に多くの日本の軍人たちも喜んでくれた」(p137)という。過酷な戦場での経験には違いないが、人力車に乗って買い物に行き、ダイヤモンドが買えるほど裕福な人を「奴隷」とは決して呼ばないと思うのだが、韓国で流布されている「慰安婦=性奴隷」のイメージとは掛け離れている。

ところで最近、この「文玉珠」の名前がネット記事で大きく取り上げられる出来事があった。「文玉珠」の名前をグーグルで検索したところ、その肩書きが「売春婦」と表示されたとして、韓国では大騒ぎとなり、反日親北団体「挺対協」がグーグルに抗議して検索結果を削除させる事態にまで発展したという。(ハンギョレ新聞「グーグルで慰安婦被害者の名前検索したら職業が「売春婦」」18/01/09)

これまで見てきたように、稼業の対価として金やチップを受けとっていたのだから、「売春婦」であることに間違いはないと思うのだが、韓国では「少女像」に象徴されるように「慰安婦=性奴隷=聖女様」として、もはや信仰の対象のようにもなっていて、売春婦などとは口が裂けてもいえない状況になっている。

<自分たちの過去の行ないに目を向けたらどうか>

ところで、この『慰安所日記』は、韓国でも「日本軍慰安所管理人の日記」として2013年8月に出版されている。ところが驚くことに、韓国ではこの日記を根拠に「日本軍の経営による慰安所」、「軍や警察による強制連行があった」ことの揺るぎない証拠だとされているという(p33)。どこをどう読めば、そういう結論になるのか、まったく不思議でならない。崔吉城氏の本を読めば分かるとおり、そんなことはどこにも書いてない、むしろ韓国の主張を否定することしか読み取れないのである。歴史の事実、証拠に真正面から向き合わず、自分たちが作り上げた虚構の歴史に骨の髄から囚われて身動きがとれない韓国の人たちには、哀れみを通り越して、もはや「こりゃはだめだ」というむなしさしか感じない。

文在寅大統領は年頭の記者会見で、「80年前、花のように美しい少女を一人も守れなかった国家が、被害者のおばあさんにまた深い傷を負わせた。日本がその真実を認め、被害者に誠意を見せて謝罪すれば、元慰安婦も日本を許せるはずで、それが慰安婦問題の解決になるだろう」とし、「慰安婦問題は真実と正義の原則に基づいて解決されなければいけない」と、自らが道義的な高みに立っているかのような発言をした。彼らが口にする「真実と正義」こそがもっとも怪しい代物なのだ。何が「真実」なのか、客観的・具体的な歴史的証拠を何も示すことができないからだ。

彼らの主張どおり、年端もいかない少女(彼らが好む表現では「月経もまだこない12・13歳の少女」)が無理やり連れ去られ、戦場で「性奴隷」にさせられ、戦後は「集団虐殺」させられたというなら、それら少女の具体的な名前リスト、父母の名前を提示し、虐殺の場所を特定し遺骨の収集をしてみたらどうだ。そもそも、いたいけな少女が親から引き離され、拉致されたというのなら、そのとき親兄弟、近所の住民は何をしていたのか、ただ呆然と見送ったのか。戦後になって、その少女らの消息を必死に尋ね、行方を懸命に捜そうとしたという話は聞いたこともない。「20万人もの少女がいた」というのに、なんと薄情な人たちか。「慰安婦」の存在が取りざたされるようになったのは、朝日新聞などが騒ぎ、日本で裁判が始まった1990年代以降のことである。「道義的責任」をいうなら、70~80歳の高齢を迎えるまで、彼女らの存在を把握せず、無視してきた韓国政府にこそ責任がある。元「慰安婦」の口述証言に頼るだけではなく、その証言の裏打ちをとるための現地調査など、客観的な証拠を集める努力をなぜしなかったのか。

今になって、トランプ大統領と元慰安婦の老女を無理やりハグさせたり、青瓦台に老女らを招いて食事をもてなしたりと、元「慰安婦」たちを無理やり担ぎ出して利用するだけ利用し、その結果、彼女たちの声には逆らえず、甘やかすだけ甘やかし、「いったい何様なのか」という反発を呼び、老醜を惨めに晒させるだけとなっている。

文政権を支持するハンギョレ新聞はその社説で「日韓合意の『最終的かつ不可逆的な解決』という表現は実に傲慢だった。被害者に口を開くなと圧力をかけたことは暴力的でさえあった」。さらに「2015年の無茶な合意がなされたときに47人いた元慰安婦は現在31人に減っている。日本が世界基準に合うように慰安婦問題を解決できる時間も、もうそう多く残っていない。歴史は慰安婦の強制動員だけでなく、日本が彼女たちにどのような対応をしたかも明確に記録するはずだ」と書いた。自分たちの不作為は棚に上げておいて、日本側の対応だけを問題にするという態度であり、つまりは、慰安婦問題は今後も未来に続く問題として、永遠に終わりにはしないという執念深さを見せ付けているのである。(ハンギョレ新聞社説「世界基準に合う慰安婦問題解決を日本に求める」18/1/10

日本は、こんな無意味なことにいつまで付き合わなければいけないのだろうか。日本はしなくてもいい謝罪を何度も繰り返し、十分な誠意を見せてきた。日本にはもうこれ以上、やるべきことはない。韓国との関係は必要最小限に止め、極力、付き合いを絶ち、一切を無視することに徹すべきだ。たとえそうしたとしても、われわれには何の痛みもないのだから。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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