ウクライナの歴史 ひまわりの大地は墓標の地でもあった

プーチンが起したウクライナ侵略戦争はいまだに終わりは見えない。そんなウクライナへの関心を高めようとウクライナの歴史を勉強してみた。

現在、ウクライナと呼ばれる地域に、過去、どんな民族が暮らしてきたかを振り返ることによって、ウクライナの歴史を概観したいと思う。改めて知ることになったが、世界の穀倉地帯であるその大地にはあまりにも悲惨な歴史があった。

ウクライナという国の地理的位置は、現在のドニエストル川(ポーランドに発し、モルドバとの国境を形成し、オデーサから黒海に注ぐ川)の東側、さらに中央を流れるドニエプル(ドニプロ)川流域、そしてアゾフ海に流れ込むドン川以西の地域と特定することにする。因みにドニエストル川の東岸から、まさにユーラシア・ステップ(草原の道)が始まると言われ、つまり、東は中国・朝鮮半島まで繋がるユーラシア大陸のステップロードの西の端はウクライナということになる。

ステップ・草原の民は古来、遊牧民だった

このウクライナの地には、紀元前8世紀から3世紀半ばにかけてスキタイ人というイラン系遊牧騎馬民族が遊牧国家を作った。スキタイ人の王国はドン川からドナウ川に至る草原地帯を1000年余りにわたって支配し、繁栄を続けた。つまり、紀元3世紀頃までのウクライナはイラン系の遊牧民族の地だった。

紀元1世紀から3世紀にかけて、古代ゲルマン系の民族であるゴート族と呼ばれる人々が北欧からウクライナへ移動し、スキタイ国を滅ぼした。

西暦370年代になると東方のモンゴル高原からフン人(匈奴の末裔)という新たな遊牧民が、シナ大陸での内乱(五胡十六国の乱)を契機にユーラシア西方に移動を始め、ついにはドン川を越えてゴート人を征服し、黒海の北の草原を制圧した。このためゴート人の一部はドナウ川を渡って、ローマ帝国領に避難し、これが契機となりゲルマン人の大移動が始まり、ヨーロッパの運命を大きくかえることになる。因みにフン人は、現在のハンガリーやフィンランドに関係した人々でもある。

ルーシ人(ロシア人)の国=キエフ大公国が作られる

さらに同じ頃(4世紀)、北方のスカンジナビアからバルト海を渡ってノルマン人が、ウクライナの草原にやってきて、東スラブ語(現在のウクライナ語の祖語)を話す人々との同化が進み、ルーシ人と呼ばれるようになる(ルーシはロシアの語源)。

5世紀末には、ドニエプル川の中流にキーウ(キエフ)という都市が建設されるなど、現在のウクライナやベラルーシ、ロシアなどにまたがって、各地に東スラブ語を話すルーシ人の町や国が作られた。そのうちの一つがキエフ大公国で、「キエフ・ルーシ」とも呼ばれた。

キエフ大公国は9世紀後半から13世紀半ばにかけて、北は現在のフィンランドやバルト3国、南は黒海沿岸までの東ヨーロッパ全域を支配した大国で、ドニエプル川を介してバルト海と黒海をつなぎ、さらに地中海にまで達する貿易ルートを押さえていた。

キエフ大公国では、キリスト教の国教化が行われ、首都キーウに今もある聖ソフィア大聖堂が11世紀初頭に建設されるなど、ウクライナ正教会・ロシア正教会・ウクライナ東方教会の源流となっている。

元寇と同じくモンゴル軍の侵攻で滅びたキエフ大公国

ところで、キエフ大公国は、日本が元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)の被害に苦しむ同時代に、同じくモンゴル軍の侵攻を受けて1240年に滅亡している。

日本は、チンギス・ハーンの孫にあたるクビライ・ハーン(四男トルイの子)の命令で元寇に巻き込まれるが、キエフ大公国は、同じくチンギス・ハーンの孫にあたるバトゥ・ハーン(長男ジョチの次男)が指揮するモンゴル東欧遠征軍によって、文永の役の34年前に滅ぼされた。

このモンゴル軍による東欧大遠征計画は、1235年、チンギス・ハーンの跡を継いだ第2代オゴデイ・ハーンがカラコルムの近くで召集した大会議(クリルタイ)で話し合われ、ボルガ川以西のヨーロッパ征服計画は、バトゥが総司令官に指名され、実行に移されることになった。(因みにこの大会議では華中・華南の南宋や韓半島の高麗にも遠征軍が派遣されることが決まった。)

こうしてウクライナ東部は、その後1502年までモンゴル帝国のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下に置かれることになる。キプチャクとは、カザフスタン、北コーカサス、ウクライナ一帯の草原(「キプチャク草原」と呼ばれる)に住んでいたトルコ語を話す遊牧民族のことで、元が高麗軍を使って日本に攻め込んだように、キエフ大公国を滅ぼしたモンゴル軍もキプチャク人という現地遊牧民を吸収して軍を編成し、その後のポーランドやハンガリー侵攻、それに一時はクロアティアの地中海沿岸まで勢力を伸ばす兵力として活用したと見られる。

「タタールのくびき」は「モンゴルの恩恵」と言うべき

ジョチ・ウルス、またはバトゥ・ウルス(ウルスとは遊牧政権の意)は、ボルガ川の中流域にサライという街を作り、そこを拠点にロシアや現在のウクライナ、ベラルーシあたりまでを勢力圏に置いていた。

そして、この間に、モンゴル人は人頭税の徴収のためにルーシの人口を調査して戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊をルーシの町々に置いた。ルーシ人たちはこうして始めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ルーシの貴族たちは、ハーンの都への参勤交代の機会に、モンゴル宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化に憧れ、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚になるのに熱心だった。(『岡田英弘著作集第Ⅱ巻 世界史とは何か』p87)

また、モンゴル支配の下でルーシの文化は飛躍的に成長した。あらゆる宗教に寛容だったモンゴル人が教会や修道院の税を免除し保護した結果、ロシア正教はその後大いに普及する結果となった。

モンゴルによる500年間に及ぶロシア支配は、「タタールの軛(くびき)」と称される。タタールとはロシア語で韃靼人、つまりモンゴル人を指す言葉だが、「この500年のモンゴル支配によって、(社会経済制度が整備され、文化、宗教が発展し)、ルーシは完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になった」のである。(同書p74)、

モンゴルの血統を維持したクリミア半島

バトゥ・ハーンが支配した北コーカサス、ウクライナ、クリミア半島、それに北方森林地帯のルーシの町々は「白いオルド」あるいは「黄金のオルド」と呼ばれた。オルドとは「移動宮廷」のこと。(これに対し、ジョチの他の息子たちが支配したボルガ川以東のカザフスタンの草原は「青いオルド」と呼ばれた)。

バトゥの死後、「白いオルド」では、14世紀後半に14人のハーンがめまぐるしく交代し、その混乱のなかでバトゥの血統は絶えた。1502年に「白いオルド」のハーンの地位は、クリミアを治めていたジョチ家の子孫のハーンに引き継がれ、「白いオルド」は、ボルガ川から西に移動しクリミアと合流した。

こうして、かつてのジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)は消滅し、その後のウクライナは、15世紀にはポーランドとリトアニア(現在のベラルーシ)によって分割統治され、16世紀末から17世紀前半は「ポーランド・リトアニア共和国」によって支配されることになる。

ただしこの間も、クリミア半島だけは「クリミア汗(ハン)国」として存在し、ロシアによって併合される1783年までクリミア汗国は存続した。

そしてクリミアの帰属がロシアからウクライナに変更されたのは、現代の1954年のことで、それから60年後の2014年、プーチンはクリミア半島を再び武力で奪いとった。しかし、そこに暮らす人々は、過去の複雑な歴史的経緯もあって、けっしてロシア人だけではなく、モンゴル(タタール)の後裔の人たちも含まれていた。

自治共同体としての根拠地を持ったコサックの出現

ところで、ウクライナがポーランド・リトアニア共和国に統治されていた1553年、ドニエプル川の沿岸に要塞(シーチ)を作り、軍事的な自治共同体を運営する一団が出現、コサックあるいは「ザポリージャのシーチ」(コサックの根拠地)と称した。当初のコサックはヨーロッパの没落貴族と遊牧民の盗賊の集団で、黒海やアゾフ海沿岸で略奪行為を働いていたが、キリスト教会の傭兵としてイスラム教勢力と戦うなど、その軍事力として役割が注目され始めた。

ポーランド・リトアニア共和国は、コサックに根拠地での自治権を与えるのと引き換えに、兵役の義務を課し、騎兵としての優れた能力を活用しようとした。

しかし、ポーランド・リトアニア共和国は、コサックを軍事力として利用する一方で、彼らの自治権をはく奪し領地を奪おうとする動きも見せたため、コサックはこれに対抗して、しばしば反乱を起した。

東ヨーロッパの政治地図を塗り替えたコサックの反乱

中でも、東ヨーロッパ史上の最大の軍事衝突と言われるのが、1648年から1657年にかけて、ウクライナ・コサックの将軍(ヘーチマン)、ボフダン・フメリニツキーが起こした武装蜂起「フメリニツキーの乱」である。

この反乱は、ウクライナ対ポーランドの大規模な戦争に発展し、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を引き起こす一方、ウクライナ・コサックによる「ヘーチマン国家」(1649年~1764年)の建国と、戦争に介入した隣国ロシア・ツァーリ国の強大化とウクライナ植民地化という事態をもたらした。

当時、ポーランド・リトアニア共和国は東ヨーロッパ全域を支配する唯一の列強国だったが、このフメリニツキーの乱によって、その後の東ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替えられ、17世紀半ば以降のこの地域に住む多数の民族の運命は、この反乱事件によって決められたとも言われる。

ヘーチマン国家はポーランドと対抗する必要から、ロシア帝国やオスマン帝国の庇護も求めた。こうしたなか、ロシアは1775年、ウクライナにおけるコサックの最後のシーチ(要塞・根拠地)をロシア帝国の拡大と強化を妨げる「共和制と分離主義者の拠点」だとして破壊し、ウクライナの地を完全に植民地化した。

またロシアは、ウクライナ・コサックに見習って、各地にコサック軍団を編成した。ロシア南部のドン・コサックやカフカース地方のクバーク・コサックなどである。またコサック軍団をシベリアや極東の入植地に送り込み、普段は開拓農民として農業に従事させる傍ら、有事には国境警備や治安維持に当たらせた。

レーニン・スターリンによるコサックの粛正

こうしてロシアのシベリア・東アジア進出とその周辺の植民地政策に多くの貢献をしたコサックの人々は、1917年ロシア革命が勃発すると、「反革命」側、いわゆる白軍の強大な軍事勢力となり、赤軍と大規模な戦闘を繰り広げた。ロシア革命からロシア内戦へと事態が進むと、ウクライナ、ドン、クバーニにおいてコサック三国が独立を宣言し、反ボルシェヴィキの立場でロシア共産党に抵抗したが、ロシア革命で政権を掌握したレーニンとその後継者のスターリンは、コサックを「反革命分子」「階級の敵」と見なして徹底的に弾圧。「赤軍とチェーカー(秘密警察)の手によりコサックの一掃が行われ、人口440万人の70%に当たる308万人が、戦闘、処刑、流刑などで死亡した」とウィキペディアにはある。しかし、この「人口440万人」という数字は、ウクライナだけではなく、ドン・コサックやクバーニ・コサック、さらにはシベリア・極東などを含めたコサック全体の人口を指す。

因みにロシア各地には11のコサックの集団があり、そのうちドン・コサックが160万人で最も多く、クバーニ・コサックは2番目の130万人。彼らは合わせて6500万エーカーの土地を占領し、19世紀終わりごろのロシアの人口構成で、コサックの440万人は人口全体の2.3%にあたり、民族別ではコサックの78%はロシア人、17%がウクライナ人、2%がブリヤート人だった。(「コサックとは何ですか? コサックの歴史」参照)


スターリンが仕組んだ「飢餓によるジェノサイド」

コサックに対する弾圧とは別に、ソビエト時代のウクライナでは、「富農(クラーク)」と呼ばれる農民への弾圧も激しく300万人から1000万人に及ぶ犠牲者を出した。

「ウクライナ飢饉」「スターリン飢饉」とも呼ばれるが、「ホロドモール(飢餓による殺害)」とも名づけられている。ホロドモール( Holodomor)とはウクライナ語で飢え・飢饉を意味するホロド(holodo)と、殺害、絶滅、抹殺を意味するモル (mor) との合成語でdeath by hunger を意味する造語だ。

具体的には、1932年から1933年にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉を指す。この飢饉は、当時のスターリン政権による計画的な飢餓、または不作為による人災、人為的な大飢饉であったことが明らかになっている。ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化を急速に進めた。そうした農業政策に反対する農民は反ソ連分子のクラーク(富農)に分類し、富農撲滅運動で彼ら農民を強制収容所に収容した。

さらに「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や穀物の種子にいたるまで強制的に収奪し、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを行った結果、大規模な飢饉が発生した。1986年にイギリスの歴史学者ロバート・コンクエストは、1932~33年のウクライナにおける飢饉の死者数は500万人と推計。これはウクライナ人口の18.8%、農村人口の約四分の一にあたる。

さらに1930年から37年にかけてのソビエト全体での農民の死者数は計1100万人で、同時期に逮捕され強制収容所に送られた農民の死者数は350万人という数字もあり、犠牲者は合計1450万人であった。強制収容所に送られた多くはウクライナ人かクバーニ地方に暮らすウクライナ出身者たちだった。

この「ホロドモール(飢餓による殺害)」については、ジェノサイド(民族虐殺)だったという論議が国際社会を巻き込んで行われている。

遊牧民が往来した草原は軍隊が行き交う戦場でもあった

ロシア革命の際、反革命側に回ったコサックに対するロシア人の怨恨もあったかもしれない。このとき激しい弾圧を受けたコサックの多くは海外に逃れたが、その後、第2次大戦の独ソ戦においてはドイツ国防軍に協力した。第2次大戦では、ウクライナは独ソ戦の激戦地となり、800万人から1400万人、当時の人口のおよそ2割におよぶ被害者を出したと言われる。第二次世界大戦が終わると一部が欧米諸国へ逃亡するものの、ソ連軍に強制連行されるなどして、再び過酷な運命を辿った者も少なくない。

ウクライナは古代から遊牧民が行き交った草原で、平坦な台地は、穀倉地帯であると同時に、戦争ともなれば、外国の軍隊が移動し、対峙する戦場にもなりやすかった。今のウクライナでの一進一退の攻防戦を見れば、それがよく分かる。

ところで、これだけの弾圧を受けたコサックの人たちだが、現代のロシアに残るコサックの子孫たちは、プーチンを支持する人たちが多いというから不思議である。

<参考>

ウィキペディア「ウクライナの歴史」

コサック - Wikipedia

ヘーチマン国家 - Wikipedia

ホロドモール - Wikipedia


富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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