脱中華の東南アジア史 ④

         ~東南アジア4か国世界遺産の旅から考えたこと~

東南アジアの歴史をたどるとき、時代区分としては①海と川の交易ネットワーク「港市国家」の時代とヒンドゥー教や仏教の受容、②アンコール(クメール)王朝の拡大と周辺王朝の対抗、③モンゴル軍南下と王朝国家の成立と衰亡、④大航海時代と植民地時代、に分けて考えると分かりやすいかもしれない。


<「港市国家」の成立とインド型統治思想の受容>

この地域に国家が成立するのは、紀元1世紀から600年ごろにかけて、いまのカンボジアを中心にメコンデルタ一帯を拠点にした「プノム」が最初だといわれる。中国の「後漢書」に「扶南」としてその名が記録されている。プノムとは「山の王国」という意味で、山を神として信仰していたらしい。プノムの沿岸地域には、やがて海を渡ってきたインド系の移民が定住し、交易のための港を開くと同時に、周囲の住民を服属させ、インド風の文化・習俗を伝えたとされる。東南アジアにヒンドゥー教やバラモン哲学などインド文明圏の影響が及んだのは4~5世紀頃と見られている。

東南アジアに古代国家が誕生する契機となったのは、インドとの交易を通じて、インド文明の影響や刺激があったからだとする説で、いわゆる「インド化」論と呼ばれる。東南アジアの古代・中世史を研究し、仏印時代にフランス極東学院の院長やコレージュ・ド・フランスの教授を務めた東洋学者ジョルジュ・セデスは、インド文明の受容が東南アジアの古代国家の形成につながったとする「インド化」論を唱え、インド文明という外からの刺激がなければ東南アジア地域では国家すら形成できなかったと主張した。

しかし、現在の東南アジア史の専門家は別の見方をとる。インドの影響力を過大に評価する見方は、現在では否定され、各地に残る碑文など新たな記録の解読から、インド文明の受容以前に、東南アジア域内での活発な交易活動をもとに富を蓄えた人々が地域の政治勢力として形成され、インド的な統治思想や文化・宗教の受容は、その地の支配者によって権力強化のために選択的、自発的に受容されたとする考え方で、いわゆる「港市国家」という考え方がその前提になっている。(根本敬ほか著『東南アジアの歴史 人・物・文化の交流史』有斐閣2003年9月p5)

この地域の活発な交易活動、海や川を介した交易ネットワークについては、例えば以下のように説明される。

「東南アジアの島嶼部では、遅くとも西暦紀元前後からモンスーン(季節風)を活用した帆船による航海がさかんとなり、各地に港市という小規模政治権力が成立した。これらの港市は、インド商人を介在とした中国とインド以西とを結ぶ東西交易ルート(海のシルクロード)の中に位置づけられ、交易の中継点としての役割を果たした。(同上『東南アジアの歴史』p7)

「インドと中国を結ぶ海路の開拓と貿易の発展により、そのルート上に位置するインドシナ半島には1~2世紀にかけて扶南や林邑(チャンパ)などの港市国家が生まれ、交易によって繁栄するようになった。現在のカンボジアからメコンデルタにかけて位置した扶南は、インド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄えた。シャム湾に面した外港オケオには交易による商品と後背地からのさまざまな産物が集積され活況を呈した」(同上 p32)。

<インド太平洋に及んだ「港市国家」の交易ネットワーク>

「港市国家」(Port Polity)とは、まず交易の拠点として、海沿いや内陸の川沿いに港が作られ、港の周辺や後背地からは、香辛料などの農産物、ナマコや珊瑚などの海産物、香木や動物の毛皮、象牙、金や宝石など交易の商品が集まり、交易商品の集散地となる。やがて交易を一手に独占する実力者が出現することによって、富の集積が一段と進み、港を中心とした都市国家が建設され、政治、経済、文化の中心となっていく。沿岸に飛び飛びに作られたこれらの「港市国家」は、交易ルートを拡大するために互いに手を結び、西はインド洋からアラビア海、東は中国大陸沿岸や日本まで、広大な海上交易ネットワークを築き上げていった。そして海外貿易を独占しそこから莫大な利潤を得た実力者は、自らインド風の権威者バラモンによる統治方法を学び、ヒンドゥー教や仏教を擁護することで民衆を支配する手段としても使った。

こうした「港市国家」の代表的なものにイラワジ川沿いのバガンやチャオプラヤ川に面したアユタヤ、それに扶南国の主要都市のオケオ、シュリーヴィジャヤのパレンバン、それにマラッカなどがあった。

たとえば扶南が海上交易によって栄えていたことは、扶南の中心都市でインドシナ半島突端に近い貿易港オケオから、中国の後漢や六朝文化の文物やクシャーナ朝ガンダーラの青銅の仏頭、シヴァ神やヴィシュヌ神の像のほか、マルクス・アウレリウス金貨など遠くローマ帝国の金貨・宝石・ガラス玉などが数多く出土していることでも裏付けられる。また漢籍の記録(『呉時外国伝』)によれば、扶南では、長さ約23メートル、幅1.4メートルの木造船が建造され、40人ないし50人の漕ぎ手が配置されて、航行する際には長い櫂、停止する際には短い櫂を号令に合わせて一斉に動かしたとされている。(Wikipedia 「港市国家」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B8%82%E5%9B%BD%E5%AE%B6 

発掘された出土品からも、当時の「港市国家」による交易ネットワークが及んだ広大な範囲がわかる。実は、3~4世紀のローマ帝国のものと見られる銅貨は、沖縄うるま市の勝連遺跡からも見つかっている。「港市国家」のモノやヒト、文化のネットワークは、インド洋を越えて中東やアフリカ沿岸に及んでいたほか、南シナ海、東シナ海の波濤を越えて東アジアの島嶼部にも及んでいた。(The Huffington Post「古代ローマ帝国のコイン、沖縄の勝連城跡から出土」2016/9/27)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/27/okinawa-rome-coin_n_12224262.html

<「港市国家」の連合体ともいわれるチャンパ王国>

漢籍の記述によると、ベトナム中南部にあった「林邑国」は西暦192年に建国され7世紀の唐代まで続いた。4世紀には、林邑国はインドの文化を取り入れヒンドゥー文化が盛んになり、バラモン(聖職者階級)にあこがれ、遠くインドにまで修行に出かけた国王もいたほどだという。7世紀から8世紀にかけて漢籍では「林邑」の呼び方が「占婆」に変わり「チャンパ」の音を漢字に当てたものとみられる。ベトナム北部を支配した越国のキン族は中国語と同じオーストロアジア系の言語なのに対し、チャンパはオーストロネシア系の言葉を話し、人種的にはまったく異なる人々だった。9世紀には当時のチャンパ国王が大乗仏教の寺院を建設したと碑文に記され、林邑の時代には上座部仏教も伝わっていたとみられている。チャンパ時代の碑文にはサンスクリット語や古代チャム文字などが使用されていた。インド文化の影響といってもヒンドゥーばかりではなかったことが伺われて、面白い。(ブログ「チャンパ王国の歴史」)

http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/histr03.htm

古代チャム人も優れた航海技術を持っていた。また中国に来航するイスラム商船にとっては、チャンパは重要な寄港地でもあった。チャンパ王国は、日本では「占城国」の名前で知られ、14・15世紀のころの琉球王国は、王女をチャンパ王国に嫁がせるなど通好関係にあった。またチャンパ産の香木は16・17世紀の朱印船貿易の重要品目の一つだったことでも知られる。「チャンパ王国」は、11世紀にはクメール王朝と勢力を争い、アンコール・トムを築いたクメール王朝のジャヤーバルマン7世に攻めこまれ、一時その領土となったこともあった。その合戦の様子は、アンコール・トムの王宮の壁を飾るレリーフにも刻まれている。(動画参照)。その後、チャンパ王国は13世紀ころに元に朝貢した記録があるほか、阮朝に併合される1832年まで存続した。

BBC記者のビル・ヘイトンはその著『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』のなかで、「扶南はほとんど痕跡を残していないが、チャンパは大量に遺跡を残している。いまのベトナム中央部全体に、赤レンガの巨大な塔が点在しているのがそれだ。外見からして明らかにインドふうである」(同書P35)と述べている。チャンパの人々は今もベトナムやラオスに少数民族として暮らしているが、彼らが築いたチャンパ王国は、この地域にしっかりと足跡を残していることがわかる。

シナ世界の漢字や儒教文化の影響を受けたのは現在のベトナム北部にあった大越国だけで、ベトナム南部のチャンパ王国を含めて、カンボジア、ミャンマーにかけて多くの国は、古くからインド文化圏の影響を色濃く受けてきたことは、今回見た世界遺産の建造物に描かれたレリーフや彫刻を見ても分かる。それらには、中華的な要素、シナ世界を思い起こさせる痕跡は一つも見ることができなかった。

いま私たちが東南アジアと呼んでいるこの地域には、シナ世界とはまったく別の文明が独自の発展を遂げ、宗教的、文化的に互いに影響しあい、経済や技術で互いに繋がり、地域を結ぶ強固なネットワークが存在し、固有の文明圏を形作ったという歴史的事実が読み取れる。

チャンパ王国とおなじころ、マラッカ海峡を挟んで両岸のマレーシア半島とスマトラ島を支配する「シュリーヴィジャヤ」と呼ばれる国があった。漢籍では「室利仏逝」として記される。フランスの東洋学者ジョルジュ・セデスは「インド化」された国の典型としてシュリーヴィジャヤを取り上げ、インド洋から南シナ海一帯まで、広く海上交易を担った一大帝国として描いている。

ところが、その後の研究では、チャンパ王国も、シュリーヴィジャヤ王国やマジャバヒト王国も、実は南シナ海沿岸やマラッカ海峡沿岸などに飛び飛びに点在する小規模都市国家の総称、あるいは「港市国家」の連合体だったのではないかという見方が有力になっている。チャンパ王国やシュリーヴィジャヤ王国が、一時期、漢籍の記録からその名前が消えることがあったが、その後も何世紀にも渡って存続したのは、ひとつ一つの港市国家に消長があり、どこかの港市国家が滅びても、都市連合全体の枠組みは継続したからではないかと見られている。

ところで、7世紀から14世紀にかけて存在したシュリーヴィジャワ王国は大乗仏教を信奉していたことで知られる。その後は、ヒンドゥー教を国教としたマジャバヒト王国、イスラム教を信仰したマラッカ王国などが16世紀はじめまで存在した。

ミャンマーのバガン王朝が11世紀にスリランカ伝来の上座仏教を受け入れ、その経典であるパーリ語を中心にしたいわゆる「パーリ化」(シンハリ化)が進んだこと、チャンパ王国やシュリーヴィジャヤでの大乗仏教の受容、さらにマラッカや島嶼部で13世紀ころからゆっくりとしたペースで進んだ「イスラム化」の動きなどは、ジョルジュ・セデスが唱えた「インド化」論だけでは説明できない部分が多いことを示している。「港市国家」は、交易活動を核にして富を蓄えた支配者が、その権威や権力を確かなものにするため、バラモン哲学に基づくインド的な王権の概念や統治思想を取り入れ、インド起源の神話やヒンドゥー教の神々、それに上座部仏教や大乗仏教などを「自発的」「選択的」に受容したというのが、今の学会の一般的な見方になっている。

古代より東南アジアの人々は、南シナ海やインド洋を縦横に移動しながら、ヒトやモノ、文化や技術・情報の交流を行ってきた。そうした交流によって互いに影響を及ぼしあうことはあっても、一方的に、相手の文化をただ受容するだけという姿は考えられない。当然のことながら、東南アジアにも、周囲の文明の影響を受けながらも、この地域独自の文明や文化を自ら発展させてきた歴史があり、中国史やインド史とは別の系統の歴史を刻んできたことも間違いない。

要するに、古来この地域の人々は、太平洋からインド洋に至る、広く自由な海を舞台に豊かさと繁栄を享受してきたのである。まさに安倍首相の言う『自由で開かれたインド太平洋戦略』は、東南アジアのこの地域では、古代から連綿と続いてきた真の姿であり、伝統と文化だったのではないか。海は「全ての人に分け隔てなく平和と繁栄をもたらす公共財としなければならない。航行の自由と法の支配はその礎」(安倍首相・所信表明演説)なのだ。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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