「愛国」を隠れ蓑に「反日」で騒ぐ中国人 何のために日本に来るのか

“落語“とまでは言わないが、ついつい笑ってしまう。しかし、日本人としては笑って済ますわけにもいかない中国で最近、話題になった日本がらみの、“小咄(こばなし)”をふたつ、お耳にいれたい。いずれも10月1日、国慶節の連休中に中国で実際に目撃され、SNS上で大騒ぎになったネタでもある。

「国慶節に“日章旗”を窓に掲げた住民がいた!?」

まず一つ目、中国のどこかの高層アパートが立ち並ぶ街区を散歩していた人が、ふと見上げると上層階の部屋の窓に、「日章旗」(日の丸)が掲げられているのが見えた。よりによって建国を祝う国慶節のハレの日に、忌まわしい日章旗を掲げるとは不届き千万(せんばん)、どこの「日本鬼子rìběn guǐzǐ(リーベンクイツ)」(日本人に対する憎悪を込めた呼び方)か、あるいは中国人の「漢奸、走狗(日本のイヌ)、売国賊(奴)」が住んでいるのかもしれない、と大騒ぎになり、その写真がSNS上であっというまに拡散した。

ところが写真をよくよく拡大してみてみたら、赤い丸は日章旗ではなく、「福」という字を描いた丸い円の意匠の飾り物だった。中国では「福」の字を上下逆にし、「福倒fúdào(福が逆さま)」と「福到fúdào(福来たる)」の発音が同じため、幸福を招く縁起物として玄関のドアなどに飾る風習がある。また風水の考え方に従い、運気が流れこんでくる方向に向けて縁起物を飾り、良い気を迎え入れようと、その方向に向いた窓ガラスに福の字の縁起物を貼ったのかもしれない。そして、その窓のカーテンがたまたま白だったため、遠目(とおめ)には白地に赤い丸の日章旗に見えたと思われる。

「白地に赤い丸」を見たら、直ちに日本の国旗、日章旗だと反応する感覚や発想は、「放射状に広がる赤い線」の図柄をみたら、すべて「旭日旗」を連想させると言いだし、「旭日旗はナチスの国旗と同じ戦犯旗だからすべて撤去しろ」と勝手に決めつけて、喚き散らすエキセントリックな韓国人と同じ感覚、発想、同じ頭の構造かもしれない。

ちなみに「日本鬼子」だとか、「日本の走狗、売国奴、国賊」とまで罵倒された当該の住民は、指摘を受けて、不要な誤解を避けるため、直ちに飾り物を外したという。しかし、SNS上では、「なぜ白いカーテンだった」のかなど、依然として疑問の声が上がり、何か意図的なものを感じるとして、いまだに疑いの目を投げかける人もいるようだ。そして、これがもし本物の「日章旗」だったとしたら、怒った群集がこの家に押しかけ、家の中がすべて破壊され、住民は徹底的に打ちのめされただろうとし、「中国が恐れるべきは外敵ではなく、内部にいる鬼だ。国民は皆、そうした鬼を捕まえる責任がある」という主張や、あるいは「釈明の機会は与えずに、直ちに射殺だ」と主張する、過激な投稿もある。

「日本の下駄を履いた男がいる、中国人を侮辱した!?」

日本がらみの二つ目の“小咄”は、同じく国慶節の連休に、観光地として有名な杭州の西湖で実際にあった騒ぎだ。西湖の公園の一角で、日本の下駄を履いている男性の姿があり、これに気付いた人が、その男性に向かって「日本の服装をするのは禁じられている。尚のこと国慶節の日に日本の服装をするのは中華民族を侮辱し、「抹黑mǒhēi」=顔に泥を塗って恥をかかせる行為だ」と抗議した。その声を聞きつけた人が周囲に集まり、男性は大勢の群集に囲まれ、公園の管理人が間に入って制止しなければ、どんな衝突が起きるか分からない一触即発の険悪な雰囲気になったという。

男性は、単に暑いから素足に引っかける下駄を軽い気持ちで履いたに過ぎないのかもしれないが、たとえば日本の浴衣のような格好をして街を歩いていた女性が当局に拘束されるなど、中国では今、なぜか日本の服装だけが、目の敵されている。それでは大量生産で安価なビーチサンダルなら誰も文句をいわないだろうが、しかしビーチサンダルの起源を主張し、その特許を主張する国など聞いたことがない。あるいはTシャツやポロシャツ、ジーンズも中国伝統の衣服ではなく、あの憎っくき帝国主義の英国や米国由来のものだが、それには文句を言わず、「小日本」(シャオリーベン、日本を小馬鹿にした言い方)だけが問題なのである。

ところで、この日本の下駄に関して、下駄あるいは木履(ぼくり)(中国語では「木屐mùjī」)はもともと中国の発明品であり、漢代から隋唐の時代にかけて一般に広く使われ、あるいは堯、舜、禹の神話の時代からすでにあった履き物だという説が、中国のSNS空間にすぐさま流れた。それによると「木履」、つまり木の板を削って二つの歯をつける構造の履き物は中国の発明品であり、とりわけ南方の雨の多い地域では、ぬかるみの中でも歩ける履き物として重宝された。六朝時代(3~6世紀)の遺跡からはその現物が発掘されている。日本はその「木履」の製造法を中国から盗みとり、今も「下駄」として日常的に使用しているにすぎない、というわけである。

           (六朝時代の遺跡から発掘された「木履」)

確かにそうかもしれないが、和服には欠かせない日本の下駄やぽっくり(「木履・ぼくり」がその名の由来)は、木の材質や履き心地をよくするための形にこだわり、漆塗りの加工を施すなど、伝統工芸品として独自の発展を遂げ、今に引き継がれ、現に市場に流通している。一方、中国では、技術が伝承されず、姿かたちさえ消滅し、「木履」の必要性そのものが失われて久しい。そんな中国に、今もその役割を果たしている日本の下駄について、とやかく言われる筋合いはない。

日本がらみだとすぐ頭に血が上る人たち?

それにしても、日章旗といい、下駄といい、日本的なモノ、少しでも日本の雰囲気が感じられるモノに対して中国人の厳しい目が注がれ、それらを拒絶する態度が、より先鋭化しているように感じられる。たとえば、広西チワン族自治区南寧市の広場で9月30日、「日章旗踏みつけたら中国の国旗・五星紅旗をプレゼントする」というイベントが開かれたという。地面に敷かれた日章旗を足で踏みつけて、喜んでいる大勢の人々の姿を撮した動画が拡散し、さっそく香港や韓国の新聞が飛びつき報道している。

朝鮮日報10/5「日の丸を踏んだら五星紅旗をあげる」…中国での反日イベントが物議>

ところで、福島第一原発から出る処理水の海洋放出に対しては、一般の中国人が日本の大使館や日本人学校に対して抗議の電話をかけるだけではなく、日本国内の電話番号が分かる先なら、どこへでも、のべつ幕なしに電話をかけ続けるという執念を見せつけた。これだけを見ても、中国人の反日感情、反日の気分がいかに強いかを感じることができる。そうした反日感情、反日気分のなかで、遠目にみえる白地に赤い丸を日章旗だと早合点し、下駄を履いている人を見ただけで中国人を侮辱しているといって、すぐに頭に血がのぼるような人々が増えているのかもしれない。

「反日」を「愛国」と勘違いする人々、それを利用する当局

しかし、そうした民衆の間の反日感情の高まりに対して、何も言わず黙って見過ごすふりをして、かえって政治的に利用しようとしてきたのは中国政府である。党や政府には自由にモノが言えない今の状況のなかで、反日的な言動なら何も言っても構わない、いかに騒いでも許される、という雰囲気が造成されている。そのようにして人々を反日に向かわせ、人々のエネルギーを反日に振り向けることで、中国の現実から人々の目を逸らせ、共産党批判に繋がらないように時々はガス抜きする必要があり、そのために反日が利用されているのだ。

ところで、以上の二つの“小咄”を提供してくれた中国のブログ記事「国慶節期間の二つの小さな事件、慎重に考えてみれば実に恐ろしい」(国庆期间,两件小事令人细思极恐)によると、中国では些細なことで野次馬的に群集が集まり、たとえば日章旗を掲げたと見られた住民の家に押しかけたり、下駄を履いた一人の男性を大勢の群衆が取り囲み、有無を言わせず押さえつけたりするような行為が横行し、さらには意見が異なる群集が別の群集を相手に敵対し、衝突するというような現象もますます増え、事態は悪化している(「群众斗群众,越来越自觉,越来越厉害了」)という。

さらに、こうした事態が写真や動画でSNS上で拡散すれば、それに対する過激なコメントも手伝って、瞬く間に問題は全国に広がり、ますます事態はエスカレートすることになる。そして、こうして群集がたむろして弱い者イジメをしたり、群集どうしが互いに言い争うような事態になったとき、口実として使われるのが「愛国」というキーワードなのだという。

このブログの筆者は「愛国という行為は高尚なものだが、しかしそれが、恥ずべき行為を隠す隠れ蓑、いわば下半身を隠す腰巻き(遮羞布)となっている」とし、「こうした連中は自分のことも愛せないのに、いったいどこの国を愛しているというのか?(「这帮人连自己都不爱,还爱什么国啊?」)」と皮肉っている。

中国を飛び出してもっと自由に思考を広げるべき

ところで「出入国在留管理庁の統計によれば在留資格を持つ中国人は2023年12月末時点で前年末から6万人増え82万人に達した」(『週刊文春』10月10日号)という。人口規模ではすでに80万人の山梨県や佐賀県より多い。また国慶節の大型連休中、中国人の海外旅行でもっとも人気だったのは日本だと報道されている。中国国内では、あれほど簡単に「反日」で盛り上がり、熱くなるのに、実際、どういう気持ちで日本を訪れているのか。また日本で実際に暮らしてみて、日本のことをどう見て、どう感じているのか、気になるところだ。

共産党に支配され、すべてが管理されている中国では、自分の暮らしを変えるために、あるいは世の中の制度を変えるために、声を上げるというのは不可能だ。つまり「国を愛する」という行為は、いわば共産党の言うことに唯々諾々と従うだけという意味しかない。そんな薄っぺらい「愛国」を振り回し、些細なことで大騒ぎし、「愛国」では何も得られない鬱憤を「反日」に向けているだけではないのか。

日本を旅行し、せっかく日本での生活を少しでも経験したのなら、軍や警察が介在しない社会、人々が群れて騒ぐことがない社会、穏やかで笑顔を絶やさない人々の表情、党のプロパガンダやスローガンではなく、新聞やテレビ、ネット空間、それに街角や公共交通機関の広告に到るまで、あらゆる情報が溢れていることなどを直接、感じ取ってもらい、改めて、国家とは何か、市民社会の秩序とは何か、国際社会における国と国との関係などに思いをめぐらし、下駄の話もそうだが、人類が歩んだ文明の歴史のなかで文化や技術がどう伝わり、それぞれの国でどう発展を遂げたのか、等々、ぜひご自分の頭で考え、答えを探ってみてはいかがか?せっかく高い旅行代金を払い、中国を飛び出したのだから、共産党の言い分など忘れて、もっと見聞を広げ、もっと自由に思考を羽ばたかせるべきだとは思わないか?

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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