大統領より「慰安婦」のほうが、位が高い国

「慰安婦活動における象徴的存在」といわれてきたキム・ボクトン(金福童)さんが1月28日亡くなった。享年92。これで生存する元慰安婦は23人となった。

<慰安婦は文氏の政治活動の原点?>

翌日、文在寅大統領は、遺体が安置されているソウル市内の病院を弔問に訪れた。遺影の前で膝をつき額を床につけて、深々とひれ伏してお辞儀するその姿をみて、この大統領は慰安婦を心底敬い、そうした行為を国民に見せることを自分の政治活動の原点としていることが良く判った。

そもそも大統領選への立候補を前にした2017年1月、文在寅氏は釜山の日本総領事館前の慰安婦少女像を訪れ、「少女像を守ろう」と訴えるパフォーマンスを見せ、慰安婦をめぐる2015年日韓合意に反対する姿勢を鮮明にした。

大統領に就任直後の2017年8月14日には光復節を翌日に控え、元慰安婦や徴用工など240人余りを青瓦台に招き昼食会を開いた。このとき慰安婦代表として出席したのがキム・ボクトンさんだった。文大統領は、キムさんや元徴用工について「最高の尊敬と感謝の礼を受けるべき方たちだ」と紹介している。

また17年11月、トランプ大統領が韓国訪問の際には、元慰安婦の女性を国賓晩餐会に招待し、何も知らないトランプに対して無理やりハグさせるというハプニングまで演出した。この晩餐会には単なる日本海産のエビを「独島エビ」と称してメニューに掲げ、米国の顰蹙を買った。晩餐会でで見せた元慰安婦の役割でも分かるとおり、慰安婦を完全に政治利用、外交利用しているとしか見えなかった。

2018年1月4日には、大統領府に元慰安婦8人を招いて昼食会を催し、「(元慰安婦の)おばあさんたち全員を青瓦台に招待することが夢だったが、やっと招待できてうれしい」と明かした。この昼食会にキム・ボクトンさんは、癌の治療で入院したため出席できなかったが、文大統領は翌日、わざわざ病院まで足を運びキムさんを見舞っている。実はこの昼食会に招かれた8人は「挺対協」(挺身隊問題対策協議会)が運営する「ナヌムの家」に暮らしていた元慰安婦たちで、日韓合意に基づき日本から拠出された10億円の中から見舞金を受け取った37人は含まれていなかった。政治的な偏りがあるの明らかだ。

キム・ボクトンさんは、1992年に慰安婦であったことを公にし、その年の8月にソウルで開かれた「日本軍慰安婦問題解決のためのアジア連帯会議」で慰安婦としての体験を証言した。また翌1993年にはオーストリアのウィーンで開かれた世界人権大会でも体験を証言した。その後も、日本を含む世界各地で体験を語り、戦時性暴力の根絶を訴えるなど、人権運動家としても名前が知られるようなった。2015年にはこうした活動への貢献が認められ、国家人権委員会から「大韓民国人権賞」が贈られたほか、慰安婦像を設置したカリフォルニア州グレンデール市議会からは「勇敢な女性賞」を授与された。また同じ2015年、「国境なき記者団」とAFP通信からは、何とあのネルソン・マンデラ氏(南アフリカ大統領)やマーティン・ルーサー・キング牧師(黒人人権運動家)などとともに「自由のために戦う英雄100人」に選ばれている。

こうなると、もはや世界史レベルの偉人である。これほどの絶賛を受ける華々しい経歴を見れば、韓国大統領より位が高いのも頷ける。

<死して生きる文大統領を走らす?>

文大統領はキム・ボクトンさんの弔問に先立ち、フェースブックに「キムさんは、被害者にとどまらず、日帝の蛮行に対する謝罪と法的賠償を求めるなど、先頭に立って歴史を正す活動を行った。キムさん、安らかにお眠りください」と書き込んだ上で、「歴史をしっかり正すことを忘れない。生存者23人のためになすべきことをなす」と改めてその決意を示したという。キム・ボクトンさんの存在は、文氏にとってはやはり「積弊清算」(歴史の見直し)の対象として歴史問題で日本を攻める材料でしかなかったのである。

また中央日報によると文大統領は慰安婦支援団体の代表に対し「もう少し長生きしていれば、三・一節100周年も見ることができたし、米朝首脳会談が開催されれば平壌にも行けたはずだったのに」として故人の死を悼み、「(元慰安婦が)一人ずつこの世を去っている。問題が解決しない状態で送り出すのは心が痛い」とも述べたという。キム・ボクトンさんと「三・一独立運動」、それに米朝協議や南北交流とどういう関係があるというのだろうか?文在寅氏の頭のなかの構造を疑う。

大統領に続いて、康京和(カン・ギョンファ)長官をはじめ、法務部の朴相基(パク・サンギ)長官などの閣僚、 文喜相(ムン・ヒサン)国会議長をはじめとする与野党の議員、それにが 潘基文(パン・ギムン)前国連事務総長など1000人以上が弔問に訪れたという。

そして2月1日午前には、遺体を乗せた霊柩車を日本大使館前まで移動させ、そこで永訣式(告別式)を行った。中高生を含め1000人ほどの市民が集まり、謝罪と賠償を求めて改めて日本政府への抗議を行った。日本大使館前といっても、大使館の建物は取り壊され、工事中のフェンスしかない。向かいの歩道にはあの少女像が置かれたままで、誰もいない大使館跡地に向けて視線を送っている。その脇には支援団体が設置した無人のテントや毎週水曜日の行われている、いわゆる「水曜集会」の参加者を写した写真を展示するパネル、販売用の記念グッズを並べ、賛同者をあつめる署名簿が置かれた祭壇のようなテーブルが置かれている。私が最近、現場を通ったときも欧米人らしい若い男性2人が署名簿をのぞき込みサインする姿があった。もはや観光客にも知られた観光名所であり、韓国国民にとっては神聖にして犯すべからずの「聖地」になっているようだ。

<キム・ボクトンさんを引き回したのは誰か?>

ところで、吉見義明氏(中央大学教授)の聞き取り調査(「ある元日本軍「慰安婦」の回想」中央大学論集2016年3月)によると、キム・ボクトンさんは日本軍の第15師団司令部付きの「慰安婦」だったとし、師団司令部の移動にともなってマレーシアやインドネシアなどを転々としたと証言している。しかし第15師団は,日中戦争期には華中に駐留しており,広東には行っていない。また1943年にはビルマに転進するが, 蘭印(インドネシア)には行っていない。

http://ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/8425/s/6560/

挺対協が見つけた資料、南方第10陸軍病院の「留守名簿」(南方課南方班スマトラ係作成,1947年9 月)にはその傭人(補助看護婦)として「金福童」という名前があり、韓国側はこの病院は第16軍司令部麾下にあったとする一方、吉見氏は第25軍所属だったとする。

これについて吉見氏は「このようにみてくると,彼女が最初から最後ま でひとつの師団に付いていたと考えるとおかしく なる。そうではなくて,途中で彼女の配属部隊が 変わったのではないだろうか。つまり,南支那方 面軍麾下のどれかの部隊に所属していて,広東省から香港を経てシンガポールへと移動し,次いで,第25軍司令部所属となって蘭印で暮し,ついでシンガポールに移動し,敗戦直後に南方第10陸軍病院の傭人となった,ということでは ないだろうか」と推測する。

一方で、キム・ボクトンさんらを軍服工場で働くといって欺して故郷から連れだし、最後はシンガポールまで一貫して引率し、食事や衣服の面倒をみたのは、朝鮮語を話す朝鮮人だった。これについて吉見は「彼女を連行したふたりだが,彼女の自宅から釜山・下関・台湾・広東・シンガポールと, ずっと彼女たちを引率しているので,軍人ではなく、軍に選定された業者だということになろう」としている。

さらに興味深いのはキム・ボクトンさんは日本軍と一緒に行動した当時、「慰安婦」や「慰安所」などという言葉は聞いたことがないといい「ミブンジャン」と呼ばれていたと証言していることだ。朝鮮語で「美粉場」(美しく粉飾した家)のことではないかという。日本軍兵士のための施設なら日本人にも分かる言葉を使えばいいのに、なぜ朝鮮語の名前をつける必要があったのだろうか。

<慰安婦と挺対協の活動は韓国社会に何を残したのか?>

1992年65歳で公開するまで、45年間、慰安婦であったことは誰にも知られないように過ごしてきた。キム・ボクトンさんを釜山からソウルに引っ張りだし、慰安婦活動に誘ったのは、挺対協の尹美香(ユン・ミヒャン)代表だった。要するに「慰安婦」や「慰安所」などの言葉を聞いたのは、60代後半になってからで、日本軍と「慰安婦」に関する全体的な知識も後に教えられたものだということが分かる。

日本軍の蛮行を告発し、人権活動家を名乗るのであれば、もっと若いときに自らの意思でたち上がるべきだったのではないか。

それにしても、キム・ボクトンさんをはじめ「挺対協」(いまは「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶財団」)の人たちは、韓国社会や世界を変える何かきっかけを造ったのだろうか?「戦時性暴力」や「性奴隷」とはいいながら、北朝鮮や中国、アフリカ諸国などではまさに「性奴隷」の境遇に置かれた女性たちが大勢いる。韓国ではスポーツ界や芸能界で横行する性暴力が社会問題になっているほか、2月1日には、忠清南道元知事で次期大統領選で与党の有力候補と言われた人物が、女性秘書に対する性暴力事件で控訴審でも有罪判決を受けている。挺対協の活動に何か意味があったことを証明するためにも、韓国社会の女性に対する暴力をまず根絶することが大切ではないか。

韓国政府が慰安婦として公式に認定した240人の慰安婦のうち、生存者は23人となった。生存者がいなくなれば、慰安婦問題が解消するわけではなく、むしろ逆かもしれない。亡くなった慰安婦の人たちは、いまや神聖にして犯すべからずの聖なる存在として崇めたてまつられ、彼女らの体験ストーリーは生前よりもさらに神話化が進むだろう。やがては安重根のようにソウル中心部の南山の中腹に立派な記念館が造られ、小学生らの集団が教師に引率されて訪れ、キム・ボクトンさんの「慰安婦」生活の体験を生々しく聞かされることだろう。だからといって、それによって韓国の何がどのように変わるのか、だれも分からない。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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