慰安婦問題を考える②


<日本人が創った「慰安婦」問題>

私たちが肝に銘ずべきは、日本軍が相手にしたとされる「慰安婦」は、そのほとんどが12歳など年端もいかない少女たちだったというイメージが、世界中ですでに固定化されているという事実である。なぜそうなったのか。人権活動というより政治運動そのものというべき「挺対協」による宣伝工作、米グレンデール市に慰安婦像を設置した在米外韓国人組織などによるロビー活動、それに今回の映画『鬼郷』のような反日プロパガンダによって、韓国人の妄言・妄想をそのまま受け入れた結果でもあるが、慰安婦問題を最初に焚き付け、誤った観念を植え付けたのは、日本人だったという事実も直視しなければならない。

そもそも「慰安婦20万人」という数字を最初に提示し、韓国人の妄想に「根拠」を与えるきっかけとなったのは、他でもない日本人だったことを思い起こすべきだ。吉田清治の作り話とそれを拡散した朝日新聞も許せないが、元毎日新聞記者で、慰安婦を材料に売文目当てのトンデモ本を出した“ノンフィクション”作家・千田夏光(せんだかこう)も絶対に許すことはできない。フィクションかノンフィクションか見分けのつかないその作品「従軍慰安婦“声なき女”八万人の告発」(双葉社1973年、講談社文庫1984年)には、以下のような記述がある。

「朝鮮において組織的に大量の女性が集められたのは昭和十八年からだった。…”挺身隊“という名のもとに彼女らは集められた」(講談社文庫P132)

「このとき連れて行かれた挺身隊員で慰安婦にされた娘は、一人として帰ってこなかったという。こんな話は韓国の田舎を歩くといくらでもある。」(同P139)、

20万人という数字は、実はソウル新聞1970年(千田は間違って1969年と記述)8月14日付けの「解放記念日」特集号の記事にはじめて出てくる。千田はこの記事をそのまま引用して、「一九四三年から四五年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約二十万人が動員され、うち“五万人ないし七万人”が慰安婦にされた」(同P118)と書いている。

『帝国の慰安婦』の著者朴裕河(パク・ユハ)教授によると、千田が引用したソウル新聞の記述は、日本の挺身隊(工場への勤労動員)と慰安婦を完全に混同した韓国人記者が「日本で施行された制度がそのまま韓国でも施行されたかのように理解し、さらに挺身隊に行くとそのまま慰安婦なるものだと考えていた」(『帝国の慰安婦』P53)ために、まったく誤解にもとづく記事だったという。

朴裕河教授が『帝国の慰安婦』のなかで証明するように、慰安婦のほとんどは二十歳以上であり、十代の少女が含まれるという主張は、12歳以上を対象にした学徒動員の女学生、いわゆる「挺身隊」と「慰安婦」を完全に混同した結果なのである。実際にも、勤労挺身隊の募集が始まったのは戦争末期の1944年からで、対象年齢が12歳にまで下がったのも1944年8月だった。しかしそれさえも、あくまで日本国内で実施されたことであり、「朝鮮では公式には発動されなかった」(同P52)。

史実を歪曲しても恥じない韓国人の虚偽を、無批判に素直に信じて、そのまま“ノンフィクション”と称する本の材料にする日本人作家も、無責任で、罪は深い。いったん固定化されたイメージを解消するのは非常な困難を伴う。「南京大虐殺」の重要な「例証」とされたあのまぼろしの「百人斬り」でさえ、野田少佐、向井少佐の反論は実らなかった。それでも私たちは、父祖たちの名誉と日本の尊厳のために、欺瞞の歴史を押し付けようとする試みとは断固戦い、粉砕しなければならない。

<“天皇の下賜品”という大噓>

千田が引用した問題のソウル新聞記事には次のような記述があり、映画「鬼郷」にも通じる韓国人一般の慰安婦イメージとも重なる。

「十二歳以上四十歳未満の未婚女性を対象にした挺身隊は事実上、少女隊員という名の慰安隊として残忍な状態に落ちて行った。・・・大部分は南方や北満州などの最前線に送られた。獣のような生活を強要させられた。

「第一線部隊に女子たちがひっぱられていった。一個小隊に二、三名ずつ配属され、“天皇の下賜品”として飢えた兵士たちのオモチャとなり、朝になれば違う部隊に追われていって、同じ屈辱を経験させられねばならなかった。

「そうした少女たちの中には恥辱的な生活に我慢しきれずに自ら命を断つ女性が続出した。フィリピンやサイパンなど南方に送られた女子たちの大部分は悲しい死をとげた。」(千田P133-4)

ここに出てくる“天皇の下賜品”という言葉は、米マグロウヒル社の教科書に「慰安婦は天皇からの贈り物として捧げられた」という記述にも使われている。千田の小説まがいのフィクション本は、クマラスワミ報告などにも「事実」として、そのまま引用されているが、ソウル新聞記事と千田の本から借用した表現であることは間違いない。かりに慰安婦は“天皇の下賜品”という認識が日本軍にあるなら、恐れおおくもその「下賜品」を最後に殺して処分することなど、なおさらあるわけがない。

千田は1970年代の始めに、韓国でようやく元慰安婦一人を見つけだし取材したが、肝心なことはいっさい話してくれなかった体験を書く。さらに「ソウル新聞のバックナンバーをめくっていっても、慰安婦、いや挺身隊に関する記事はこれだけであった。彼らはあえて書いていないのである。今日(1970年当時)の韓国人は過去の日本と日本人のして来たことを口に出しては言わない。とくに新聞人や知識人はそうである。相手が日本人となれば尚更である」(P134)とある。

そんな馬鹿な!!である。韓国人が「過去の日本と日本人」について何も言わないなどと誰が信じるか。今と全く違うではないか。20万人もの少女が連行され慰安婦にされたことが、当時、「事実」と知られていたら、彼らは狂ったように騒ぐはずである。しかし、そうはならなかったのは、当時は、誰もが挺身隊と慰安婦が違うことは自明のこととして分かっていて、こんな与太記事は誰も信じなかったからではないのか。

そもそも12歳の自分の娘がどこかに連れ去られ、行方が分からなくなったとしたら、必死になってその跡を追い、取り戻そうとするのが、親としての普通の姿であろう。当時、そうした親たちの抵抗や訴えがあったという記録があるのなら、それをぜひ提示してほしい。終戦後、彼らの言う「光復後」に、帰らぬ自分の娘がいたなら、その安否を確認するための調査を政府に要求し、もし「強制連行」という事実があるならその責任を追及する裁判をなぜすぐに起こさなかったのか。この問題が韓国側から提起されるのは、終戦から半世紀ちかくも経った1990年代であり、しかも「慰安婦」が恥を忍んで自ら名乗りでることはあっても、その家族・親族からの訴えは今にいたるも一件もないのである。韓国人とは、そこまで情が薄いのか。そんなことはあるまい。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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