日本ではテレビのワイドショーを中心に、タマネギ男こと曺国(チョ・グク)法務部長官とその家族のさまざまな不正疑惑は、韓国以上に詳しく報道されている。文在寅大統領がそうした多くの疑惑にかかわらず、曺国氏の法務部長官に任命にこだわったのも、盧武鉉政権時代に民情首席秘書官を務めて以来の自身の最大の政策課題であり、彼が大統領に立候補するにあたり主要な公約に掲げたのが「検察改革」だったからで、曺国氏はその改革推進にとって欠かせない同志と考えているからだ。
しかし、その「検察改革」とは、結局は「権力闘争」であり、文在寅政権が完全無欠な独裁的な権力を握ることができるか、それとも大統領の権力にも対抗できる勢力として検察の存在をそのまま許し、残しておくかの戦いなのである。
要するに「検察改革」とは、ひとえに権力層の自己保身のための制度・政策の変更に過ぎず、一般国民の暮らしに直接影響したり、一般庶民が抱える問題の解決に繋がったりする問題ではまったくない。
それにも関わらず、週末や祝日に文在寅支持派の与党勢力と反文在寅の野党勢力が、それぞれ200万人とか300万人あるいは500万人とも自称する大規模な人員を結集し、それぞれの支持勢力の規模を競い合う、そのインセンティブとは何で、そのエネルギーとはいったいどこから来るのだろうか。
9月28日には、文大統領と曺国(チョ・グク)法務部長官を支持する革新派の市民団体が、大法院や大検察庁など司法機関が集中するソウル端草(ソチョ)区端草洞の道路を占拠し、自称で200万人規模のろうそく集会を開催した。
一方10月3日の建国記念日にあたる開天説には、今度は、最大野党・自由韓国党や朴槿恵前政権を指示する保守派の人々が、ソウル中心部の光化門広場を中心に自称300万人規模の集会を開いた。当日は私も光化門広場を覗いてみたが、驚いたのは地下鉄を下りた光化門駅のプラットフォームが集会参加者で埋まり身動きも出来ない混雑になっていたことだ。地下鉄の駅から地上に出るだけで30分も掛かったという人もいた。外に出ると光化門から伸びる12車線の道路とその間の世宗大王や李舜臣像がある公園広場、さらに両側の歩道も人の波で埋まり移動も困難なほどだった。翌日の新聞に載った空撮写真を見ると、人の波は光化門からソウル市庁前広場までを埋め尽くし、さらにはソウル駅まで延々と繋がっていたという。
2016年12月から翌年はじめにかけて、朴槿恵退陣を求めるろうそく集会を経験した人たちは、その時の集会よりも参加者の規模は大きかったという。ただ、参加者の年齢は、比較的高く、文在寅支持派の集会のような幼い子供をつれた家族連れの姿はほとんどなかった。また周辺の道路には大邱や釜山など地方からの参加者を乗せたバスが列をつくって停車していた。明らかに組織的に動員された人々だった。
この集会で主催者が用意し、参加者が手に手に掲げたプラカードに書かれたスローガン、例えば「文政権審判、曺国拘束」や「守れ!自由大韓民国」、「反逆者を弾劾する、処罰せよ」さらには「北進!滅共統一」などを見ても、集会の目的は「検察改革」というより、曺国氏を法務部長官に任命した文在寅政権を糾弾し、政権を倒そうという意図があることは明らかだ。要するに与野党間の権力闘争であり、そのために自ら支持する陣営の集会に参加し、あるいは支持団体から動員された人々なのである。
今月5日にも、端草洞の道路では、曺国支持派の市民団体によるろうそく集会が開かれ、1キロにわたって道路を埋め尽くした人々は、人の波(ウェーブ)を起こして気勢を上げた。それにしても曺国氏をめぐる疑惑のうち、息子と娘の大学入学や大学院進学にあたっての書類改竄や偽造は、朴槿恵前大統領の親友・崔順実(チェ・スンシル)被告の娘の大学優先入学とまったく類似の事件である。
朴槿恵打倒を叫んだ当時のろうそく集会で大学不正入学を厳しく追及した市民たちが、今度、曺国氏のケースでは、検察の過剰な捜査を批判し不正入学を問題視しない態度を見せるのはダブルスタンダードも甚だしく、まったく理解できない。
一方、同じ日、端草洞の近くの道路では曺国氏の辞任を求める保守派の集会も開かれ、警察は両派の集会参加者の衝突を防ぐため、フェンスを設置して警官5000人を配備したという。それでも双方の参加者が相手側に罵声を浴びせ、小規模な衝突も起こったという。南北の民族分断だけでなく、左右の国論の分断で、韓国には互いに相容れない二つの国があるようだ。
ところで韓国で進められている検察改革の中身だが、強すぎる検察の力を削ぐことと検察の捜査手法や慣例を改めさせることの大きく二つがある。検察の力を削ぐことに関連しては、逮捕から起訴まですべてを独占的に行使してきた検察の権限の一部を警察に移行させることや検察が独自捜査する特捜部が全国の地検にも配置されてきたものを、ソウルなど3か所を除いて廃止すること、出先機関に配置してきた検事を引き上げること、検察の幹部を含めて高位公職者の不正を専門に捜査する機関の新設などがある。
一方、捜査手法や慣例の改革としては、主として検察による捜査の被疑事実や捜査状況の公表を厳しく制限することである。たとえば、捜査開始の段階から起訴したあとも刑事事件の内容の公開を禁じていて、記者は検事や捜査官との接触が一切できなくなる。さらに取り調べのために被疑者や参考人が検察に召喚されたとき、これまではメディアにその日時が公開され、フォトラインと呼ばれる場所でマイクを突き付けられ、記者の質問に答えるのが慣例になっていた。しかし、これからは召喚の日時は事前に知らされないことになる。
さらにメディアに公開する捜査内容については審議委員会で決定されるとし、捜査内容を流出させたとみられる検事に対しては、法務部長官が監察を指示することができるとしている。「監察」とは、捜査情報の確認を前提とし、検察の捜査計画や方向も把握できるようなるため、法務部長官が検察の捜査に圧力を加えることも可能だと見られている。
<KBSワールドラジオ9月16日「政府・与党 検察の被疑事実の公表禁じる法務部訓令改正を議論へ」>
http://world.kbs.co.kr/service/news_view.htm?lang=j&id=Po&Seq_Code=73336
検察が何を捜査しているか、ベールに包まれ、一切公開されなくなくなったら、国民の「知る権利」は奪われ、検察捜査の透明性が失われることになる。昔は「南山」の名前で恐れられ、拷問が平気で行われた「対共スパイ捜査」や戦前の日本の特高のような組織に変わる心配はないのか?日本であったら、検察が不起訴にした事件であっても、不起訴不当だとして
再捜査を求める検察審査会のようなお目付け機関がある。要するに検察の捜査が不当だとして制限することより、むしろもっと積極的に捜査をやれと求める声のほうが大きいのである。それだけ、検察捜査の公正さや中立を信じ、司法の独立に絶対の信頼を置いていることになる。そうした司法制度や法の精神は日本統治時代に日本から学んだはずなのに、今の韓国では、冒頭でも述べたように、検察改革も自分の権力掌握の手段、権力闘争の一環としてしか見ていない。
結局、必要なのは、検察という単なる一部門の改革ではなく、時の権力者の意向や気まぐれな国民情緒に動かされる政治をやめ、法の支配を貫徹し、選挙という公正な手段を通じて得られた結果には従い、合意のもとに決まった約束は破らないという民主主義のルールを確立するしかない、のではないか。
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