南シナ海「九段線」に法的根拠はない②

海上や陸上に国境線を引くなどという発想は、本来、シナ世界の人々にはなかった。せいぜい「辺疆」という漠然とした周縁地域があり、それが「天下」つまり中華文明が及ぶ範囲かどうかの境目だった。西洋で「国家、国民、国境」という考え方が確立するのは1648年のウェストファリア条約だが、シナ世界に「国家」や「国境」という概念が伝わるのは、さらに遅く19世紀末、日清戦争ののち、清の留学生が大量に日本に押し寄せたあとのことだ。

海を恐れたシナ世界の人々には、海にまつわる恐ろしい神話伝承も語りつがれている。なかでも有名なのが「万里石塘」の伝説だ。

<1178年の中国の記述(周去非の『嶺外代答』)によると、これは大海に横たわる長い堤で、近くの海底には水が流れ込む穴があいているという。危険な岩礁や小島の連なりが、いまでいうベトナムの沿岸までずっと続いていると考えていた。・・・その後300年にわたり、この地域の地図には例外なく、帆の形をした万里石塘が再録されていた。しかし、1700年代後半から1800年代前半にかけて調査が行われ、北端あたりにパラセル諸島(西沙諸島)があるのを別にすれば、そのようなものは実在しないことが明らかになった。300年間、ありもしない海の難所を恐れて、ほとんどの船乗りは南シナ海の中心に船を進めようとはしなかったのである>(P59~60)

かつての「万里石塘」は、現代の「砂の長城」にも繋がるものがある。カーター国防長官やハリー・ハリス太平洋軍司令官は、南シナ海で中国が建設している人工島の数々は、中国を孤立させる「砂の長城」だと言って非難した。中国によって埋め立てられ軍事拠点化された島々は、中国と大海を隔てるために築かれた蜃気楼のような壁、つまり、見えないまぼろしの影におびえる現代版の「万里石塘」といえなくもない。

<18世紀、19世紀に作られたシナの地図では、清の領土の最南端はすべて海南島となっていた。1760年、1784年、1866年、1897年に発行されたどの地図でもこれは同じだった。1909年に広東省が発行した新たな地図では、パラセル諸島が広東省の一部として記載されているが、これは中国製の地図としては初の例である。中華民国政府が最初に作った地図――1912年の『年鑑』に収録されている――には国境はまったく描かれていない>(p83)

中国で、地図作りや領海の線引きが活発になるのは、フランスが南シナ海の島の領有を宣言し、日本の民間人や企業が珊瑚礁の島に進出して経済活動を活発化させた1930年代になってからだ。

インドシナ半島に駐留していたフランス海軍は軍艦をスプラトリー諸島周辺に派遣し、1933年7月にはスプラトリー島のほかイツアバ島、シツ島など5島の植民地コーチシナへの併合を宣言した。ビル・ヘイトンは、この時の中国の無知と狼狽ぶりを、以下のようなエピソードで紹介している。

<併合が発表された日、中華民国の駐マニラ領事は米領フィリピンの植民地政府に対し、問題の島々の地図の提供を求めている。中華民国政府はどの島が併合されたのか、それがどこにあるのかさえ調べがつかなかったのである。そうしたどたばたの経緯は、上海の有力新聞「申報」が細かく報道し、その後数週間にわたって、問題の島々はどこにあるのかという議論が紙上で戦わされている。・・・マニラのアメリカ当局から地図を提供された中国のマニラ領事は、パラセル諸島とスプラトリー諸島がほんとうに別々の場所にあると知って驚いていたそうだ。・・・中国政府は怒り狂って大騒ぎしていたが、実際には一度もフランスに対して正式な抗議は行っていない。というのも、自国領土の最南端はスプラトリー諸島ではなくパラセル諸島である、というのがこの段階の中国政府の認識だったかららしい>(p85~86)

フランスに最初に抗議したのは中国ではなく日本だった。<ラサ島燐鉱株式会社>という日本の会社が、つい最近までその島々で燐鉱の採掘を行っていたと主張したのだ。しかし、日本もパラセル諸島の島をスプラトリー諸島の島だととりちがえていた。

フランスや日本の南シナ海進出に危機感を抱いた中華民国政府は自らの領有を主張する実効性ある手段として、1933年6月「水陸地図審査委員会」を設立し、地図製作に熱を入れ始めた。<委員会は、一年半の審議のすえ、1935年1月、南シナ海にある132の島嶼の名前をあげて、これらは正統な中国の領土だとぶちあげた。しかし、このリストに取り上げられた島々の名前は、航海用の海図に記載されている英語名の音訳または翻訳で、・・・しかも英国などが作った海図の数多くの誤りを引き継いでいるばかりか、新たな誤りまで増やしていた>(p87)。そのよい例が、先に白眉初のU字型ラインで触れたジェームズ礁(「曾母灘」)だった。

<委員会は、この海域に通じていなかったため、ジェームズ礁を海面上に出ているものと宣言してしまったわけだ。とすれば、南シナ海における中国の領有権の主張は、ある程度まで誤訳に基づいていると言えるのではないか。現在「最南端の中国領」とされている土地は存在しないのだ。8世紀前の万里石塘と大して変わらないのである>(p88)

<しかし、このようなリスト作りも地図製作も1937年にとつぜん沙汰止みとなった。日本軍が中国に侵略してきたのだ。・・・また第2次世界大戦によって、南シナ海における領土争いはリセットされることになる>

日本は1939年、南沙諸島、西沙諸島、東沙諸島を占領し、台湾総督府高雄州の管轄下に置いた。1942年5月フィリピンの米軍が投降したあとは、南シナ海の沿岸国はすべて、有史以来はじめて、一つの国家の管轄下に入り、南シナ海は「日本の湖」になった。日本軍はパラセル諸島のウッディ島(永興島)やスプラトリー諸島のイツアバ島(太平島)を占拠し、南シナ海全域を「新南群島」と名づけた。

日本の敗戦後、蒋介石はカイロ声明やポツダム宣言に従って、日本の「新南群島」の権益をすべて中華民国で接収するつもりだった。1946年末、米国から譲与された退役艦4隻を南沙諸島と西沙諸島の4つの島に派遣し、それぞれ太平島、中業島、永興島、中建島と命名して接収した。

<蒋介石の狙いは、共産主義勢力の伸長を前に、この島々を利用してみずからの指導力を高めることだった。かつて中国を荒らしまわった西側諸国に立ち向かうことで、自分こそ中国の指導者にふさわしいと証明できると考えた。1946年最後の数か月間に、入手したばかりのアメリカの退役艦を派遣して、蒋介石政権は中国の領有権を主張した>(p94)。

1951年のサンフランシスコ講和条約では、日本は台湾・澎湖諸島などと同様に、南沙諸島、西沙諸島に関する権利、権限も放棄すると宣言していたが、その後の帰属先については明示しなかった。つまり、台湾の地位未定論の主張と同様に、「新南群島」の帰属もいまだに定まっていないのである。(続く)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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