南シナ海仲裁裁判「反論」文書に反論する②

次に「南シナ海諸島および関係海域を最も早く発見し、命名し、また開発・利用してきた」という中国の主張について。

「中国」によって古い時代に「発見され、命名された島」が、現在の島や岩礁、海域のどれに当たるのか、具体的にその場所を特定する必要がある。しかし、中国が過去に発見し命名したとする島や海域が、具体的に現在のどの地点を指すのか、文書からは何も読み取れない。精密な海図を作成し、緯度経度を特定する形で南シナ海の島々や環礁に名前をつけたのは、はじめはポルトガルやオランダの商船であり、さらにはイギリスやフランスの海軍の調査船であった。いつ誰が発見し、命名したかの具体的な経緯がはっきりし、海図にしっかりと記録したという点からいったら、おそらく発見者も命名者も、英・仏など西洋諸国であったことは動かしがたい事実だ。

中国の主張は、大雑把過ぎて精度に欠けるだけでなく、自ら実際に足を運んで調べたかどうかも疑わしい。南シナ海の島や岩礁を最初に発見し、名前をつけたというが、台湾政府が終戦直後に領有を主張する島名のリストを作ったとき、その島名の中には、英語名から音訳したものが多かった。しかも、島などひとつもない海域に中沙諸島と名前を付け、実際は海面下20メートルに没している曾母暗沙を海面上に姿を見せた「灘」だと表現していた。要するに1980年代まで中国には遠洋航海できる艦船や航行能力を備えていなかったから、南シナ海の状況についてはほとんど把握していなかった。

中国海軍がいわゆる「第一列島線」を提起し、遠洋に進出するようになったのは、劉華清が海軍司令員に就任した1982年以降のことだ。劉の前任の海軍司令員は、台湾の金門島攻撃に失敗した葉飛だった。葉は、中国大陸から目と鼻の先の金門島さえ攻略できず、1万人近くの共産軍兵士の犠牲者を出した作戦責任者だった。朝鮮戦争からベトナム戦争にかけて台湾海峡をはじめとする中国周辺の海は、米軍やロシア軍の船や航空機が行き来する海で、残念ながらこれに中国が対抗できる能力も余裕もなかった。

<南中国海諸島に対する中国の主権と南中国海における関係権益は長い歴史の過程で形成し確立されたものであり、十分な歴史的、法理的根拠を有している。

9.早くも紀元前2世紀の前漢の時代において、中国人民はすでに南中国海を航行し、また長期にわたる実践の中で南中国海諸島を発見した。

紀元前2世紀の前漢の時代にシナの人々は南シナ海を航海し、南シナ海の島々を発見したということだが、それは本当だろうか。実は、春秋戦国時代から秦・漢にかけて、現在の広東省や福建省、浙江省にかけての沿岸部は「百越」と総称される「越人」が暮らす地域だった。つまり今の南シナ海や東シナ海の沿岸で暮らし、海と接し海を利用して暮らしていたのは「越人」たちであり、けっして秦や漢などいわゆるチャイナ(シナ)の人々ではなかったはずだ。

越人とシナ人は、言語学的にも人種的にもまったく異なり、シナ人は越人のことを「蛮族」と称していた。いわゆる「化外の民」と蔑(さげす)み、文明から見放され遅れた民族と貶(けな)した人々だった。越人は言語学的には、今のタイ語やベトナム語などの系統に属し、遺伝子レベルではマレーポリネシア系や倭人に近く、文化的にも類似の要素を多くもつといわれる。つまりシナ人とはまったく異なる民族ということになる。

2000年前から南シナ海を利用してきた人々がいたとしたら、それはシナ文明の民ではなく、シナ人が野蛮人と蔑んだ越人であったはずだ。56の少数民族を全部ひっくるめて、今は「中国人」と称しているので、越人も「中国人」に含まれると主張するのかもしれないが、2000年前は、まったく別の民族であったことは、以下の「維基百科=ウィキペディア中文版「百越」https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A の記述でも分かる。

百越は漢の武帝によって、越人が政治の中心としていた地方の多く征服され、漢王朝の郡県にされた(「越族所建立的政治中心大多都被漢武帝征服,改為漢朝的郡縣」)という一時期もあったが、その後の三国時代には、百越人は人口や文化ではなおも独自の主体性を発揮し、史書『三国志』では「漢の地」と「越の地」は別のものだと説明されていた(「三国时期是百越人在人口和文化上仍是絕對主體。《三国志·蜀志·许靖传》记载,“南至交州,经历东瓯、闽越之国,行经万里,不见汉地。”說明了「漢地」與「越地」的分別」)。また唐代に書かれた史書「隋書」では、越人のことを「南蛮」と称し、華人とは異なる民族だと見ていた(「唐帝國時期,当时华人史书所称的南蛮與华人被視為不同的民族」)と書かれている。

つまり、今のシナ大陸沿岸に住んでいた住民は、古くから「越人」とか「百越人」といわれ、古くからシナ人たちは彼らを自分たちとは違う民族だと見ていたのである。そしてその越人たちが古くから行ってきた南シナ海の利用、航海や漁業の実績を、自分たちシナ人が行ったものだと横取り、南シナ海は古くから自分たちのものだと偽証する材料として盗み取ったのである。

13 数多くの歴史的文献と文物資料が証明しているように、中国人民は南中国海諸島および関係海域に対して絶え間ない開発と利用を行ってきた。明・清時代以来、中国の漁民は毎年北東の季節風を利用して南下し、南沙諸島海域で漁業生産活動に従事し、翌年には南西の季節風を利用して大陸に引き返す。また一部の中国漁民は一年中、島に留まり、漁獲を行い・・・・

古代から現代まで、南シナ海を行き来し、漁業や貿易などの経済活動を行ってきたのは、けっしてシナ世界の人々だけではなかったことは、仲裁裁判所の判決も指摘している。かつてインドシナ半島一帯で長期にわたる繁栄を謳歌したチャンパ王国、インドネシアに多くの古代遺跡を残したシュリーヴィジャヤ王国など、この海域周辺に暮らす人々のほうがはるかに、この海を自由に行き来し、活発に交流してきた。それは、彼らが残した仏教遺跡や建造物には共通して、インドの影響を色濃く残しているが、その一方で、いわゆる「中華文明」の痕跡はひとかけらもないことで証明できる。つまり、シナ世界の影響がこの地域に及んでいなかったということは、人の往来もなかった証拠なのである。

むしろ時代によっては、彼らは海に出ることを禁じられた人々だった。

彼らが南シナ海問題を論じるとき、明・清時代に海禁政策が行われたことにいっさい言及しないが、要するに、この海を行き来し、暮らしてきた「中国の漁民」とは、海禁政策に反し、違法に海に出たか、棄民、あるいは流民として大陸を逃れた住民であり、「中国」当局の管理は及んでいなかった人々だと判断すべきだ。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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