~「植民地近代化」論を否定するため日本統治下の防疫対策も否定 その②~
前回のブログでは、3・1独立運動記念日の演説で、文大統領が「日本は植民地の民衆を伝染病から守らなかった」といい、「朝鮮の民衆と医療人は自力で医療システムを整備した」と話したことについて、1919年と1920年に蔓延した法定伝染病コレラに対する防疫処置の実際を例に、反論を試みた。
<1918年スペイン風邪の防疫対策>
ところで、1918~19年に流行したインフルエンザ「スペイン風邪」については、法定伝染病ではなかったため、1919~20年のコレラに関する「防疫誌」ような詳しい報告書は存在しない。
秋月望(明治学院大学名誉教授)のブログ『一松書院』によると、朝鮮総督府発行の『朝鮮彙報』1919年3月号に、朝鮮半島で広がったスペイン風邪に関する概要が書かれている。また、感染拡大の初期に、朝鮮総督府警務総監部が各警察署を通して周知した予防方法が以下のように記されている。
<1)成るべく患者に接近せざること。
2)患者に接近する場合に於ては患者の唾痰泡沫を吸入せざる様注意すること。
3)冠婚葬祭及市場開催等多數集合する事項は成るべく之を避くること。
4)工業、製造場其の他多衆集合の場所に於ては使役人夫等の健康状態に注意し且衛生施設を勵行せしむること。
5)學校衛生に注意し若し學校内に患者發生の場合は適當の期間休校する等豫防上適當の措置を執ること。
6)各個の自衛を重んじ若し身軆に異和を生じたるときは速に醫師の診斷を受くること。
7)迷信的治療を行はざること。>
こうした予防策は、100年後の今日の新型コロナ対策と重なるところも多い。『朝鮮彙報』1919年3月号に載った流行性感冒の「一般概況」には以下の記述がある。
<流行性感冒は從来各地に流行したる事例少なしとせざるも大正七年(1918年)に於けるが如き一大惨狀は未だ之あるを聞かず、卽ち同年晩夏の頃より世界各地に流行猖獗を極めたる一種流行性感冒は中秋に至りて竟に朝鮮にも襲來し各地に蔓延するに至れり、流行當初に於ては病勢概して軽易にして其の流行も亦遲緩の狀況にありしが冬季に近づくに從い漸く病勢猛烈となり十月下旬以降は更に各地に瀰蔓し其の病性も亦漸次惡化し來りて之が爲死亡する者增加するに至り終に別表の如く患者總数七百五十八萬八千餘死者亦十四萬餘人を算するに至れり、右に依りて観れば朝鮮全土の人口の過半は該病に侵されたるものにして其の死亡率一・八五%なり斯の如きは恐らく朝鮮に於ける未曾有の慘事にして之が爲經濟、産業其の他に被りたる有形無形の惡影響も亦大なるものあるを疑はず。>
この中の「患者總数七百五十八萬八千餘死者亦十四萬餘人」とは、文氏が演説で引用した数字でもある。朝鮮総督府の統計を引用しながら、「日帝は植民地の民衆を伝染病から守れなかった」として、その総督府の防疫対策については、あって無きがごとく無視するのである。
(ただし、この数字は1918年9月から12月までの感染期の数字で、1919年1~3月や秋の再流行については反映されていない。速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ~人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店2006)によれば、全期間を通じて死者は総計23万4164人(死亡率1.35%)と試算している。因みに日本内地は45万3452人(同0.81%)、台湾は4万8866人(同1.34%)
<警察の高圧的な衛生取締りが独立運動につながった!?>
ところで、日本統治時代の防疫対策について、文氏と同じような見方は、韓国の別の研究者の論説にも見られる。
たとえば、鄭雅英(チョン・アヨン)立命館大学経営学部教授の「感染症と近代――植民地朝鮮におけるスペイン風邪流行の歴史から」(立命館大学国際平和ミュージアム・オンライン講演会「感染症と私たち」20/8/29)によると、「日本の植民地支配は憲兵警察制度を軸にした武力的統治にはじまり、衛生警察として独占した衛生業務は治安管理遂行上の重要施策だった」とし、スペイン風邪流行時の憲兵警察による戸口調査や治安管理の一環としての伝染病り患地区の地域封鎖や病院への強制隔離など、その高圧的な態度に対する反感に加え、スペイン風邪による大量死は朝鮮総督府政策の失政と受け止められ、「植民地権力の無策、失政」への朝鮮民衆の怒り、不安、不満が、3・1独立運動につながったと主張する。
鄭雅英氏は「戸口調査では伝染病のほか、家族・職業・生活状況、思想・党派・経歴も調査され、朝鮮大衆は高圧的な戸口調査を嫌い居留守を装うなどしたものが多かった」と主張する。何を根拠に「思想・党派・経歴」まで調べたと主張するか分らないが、当時、戸口調査では警察官1人か、警察官と検疫医がペアを組んで、1日に1回から2回巡回しなければならず、とにかく人員不足が深刻だった。前述のように1919年の憲兵警察制度から普通警察制度の変更は、警察人員の拡充も大きな課題だった。1920年の防疫自衛団の組織も、そうした警察の人員不足を補うのが目的だった。戸口調査はとにかく、患者の発生を確認するほうが先で、思想警察のような役割を負う余裕はなかったと思われる。
<朝鮮人の感染者数を把握せず放置したって!?>
もう一人、黄尚翼(ファンサンイク)ソウル大医学部教授の「植民地朝鮮人の死亡類型と変遷」(RiCKSコリア研究 第3号)という論文を見てみよう。
日本の植民地統治の不法性を強調するために、日本の植民地支配によって朝鮮半島の近代化は達成されたという「植民地近代化論」を全面否定するのが文在寅左派政権の基本的立場だが、黄氏の論文もそれを敷衍するためのものだ。
「植民地近代化論」の議論のなかで、植民地時代の人口増加と死亡率の減少について、その背景として伝染病死亡率の減少が挙げられるとして、全般的な生活水準の向上よりも衛生施設、医療サービスの拡大が起因しているのではないかとする議論がある。しかし、黄論文は、当時の住民の死亡類型を調べることで、それを検証・反論している。
黄氏は、『朝鮮総督府統計年表』が唯一の資料だとして援用し、1919~20年のコレラ患者の調査統計は「正確さと信頼度は高く、朝鮮人が経験した法定伝染病の実態を示す唯一の資料」とする一方、1916年のコレラ流行時の朝鮮人患者数・死亡者数は、日本人と比べ10万人あたりの患者数・死亡者は12分の1に過ぎないとし、「要するに日帝時代の朝鮮人の法定伝染病被害は、直接的は把握できない。総督府が把握した朝鮮人 患者数、死亡者数は、1919-20 年のコレラの場合を除いては、何らの意味を持たない」と主張する。その上で「法定伝染病患者の把握は、日本人の場合徹底されたが、朝鮮人の場合は十分把握されていなかったと見られる」とし、「患者の規模も把握できていない状態で、適切な対策を期待するのはナンセンスで、総督府の宣伝とは異なり、朝鮮人は伝染病の予防と管理から阻害されていた」と主張する。
また穀物と芋類のカロリー摂取量と年間食料消費額の推移から「日帝時代を通じて朝鮮人の栄養状態は、少し悪化した可能性はあっても、改善したという余地はない」という。
また、上水道の給水戸数は30万世帯まで10倍近く増加したが、給水は大都市に住む日本人を中心に行われたとし、1939年の時点で、朝鮮人世帯のうち上水の供給を受けた比率は7%にも満たなかったという。「要するに、絶対多数の朝鮮人は衛生的な上水の恩恵を受けられなかった」と主張する。
さらに、「日帝は、植民地統治期間中、医学校を設立し、朝鮮人医師を輩出し、道立医院を増設して朝鮮人に医療サービスを拡大したと宣伝した。そのような宣伝の如く植民地期を通じて朝鮮人の医療的受益が増 えたのだろうか? 近代西洋医学の教育を受けた朝鮮人医師数は、強占前の100人未満から1943年の 2618人へと、30 倍ほども増加した。しかし医師1人当りの朝鮮人人口は、1943 年において9800余名にも上った。一方、事実上、日帝時代にほとんどの朝鮮人の健康を診た伝統的医療従事者、すなわち医生の数は徐々に減っていった。したがって時間が経つにつれ、ほとんどの朝鮮人は医療の恩恵をより多く受けるどころか、むしろ医療から疎外されていった」という。
因みにここでいう「医師1人当りの朝鮮人人口は1943年当時9800余名」について、文氏は演説で「1920年当時は、医師1人当たり1万7000人」という数字を挙げた。これだけ見ても1920年から1943年まで医師の数は2倍に拡大したことが分る。
黄氏は結論として、「多くの先行研究が明らかにしているように、日帝の植民地期に朝鮮人の死亡率が減少したことは事実と思われる。しかし、既往の研究とは異なり、朝鮮人の伝染病死亡率が減少したという直接的な根拠は見当たらない。本稿を通じて確認した事実は、朝鮮総督府が朝鮮人の伝染病発生被害についてほとんど把握していなかったという点である。言い換えると、日帝当局は、当時植民地朝鮮における最大の保健 医療問題であった朝鮮人の伝染病を放置したのである。」
「栄養状態、上水普及、医療サービス等、死亡率の減少と健康増進に関する要因が、日帝時代の朝鮮人において改善したという明らかな根拠も見つけることが出来ない。むしろ、そのような要因が悪化したという証拠はいくつもある。それにもかかわらず死亡率が減少したとすれば、その現象をどのように説明できるだろうか?この問題に関する研究は始まったばかりである」
研究が始まったばかりだとしたら、黄氏の主張も途中経過の暫定的なもののはずなのに、あまりに牽強付会の論理だ。
朝鮮人に関する正確なデータがないと主張することを以て、「朝鮮人に対する伝染病を放置した」と結論づける。文氏と同様なことを言っているが、それは総督府の努力をすべて無視した上で、責任をすべて総督府に押し付けることであり、植民地になる以前の自分たちの国にはまったく咎(とが)はなかったといえるのだろうか。
そもそも1919年のほんの10年前まで「奴婢」という身分制度が存在し、名前も人権もない人たちが家畜のように売買される時代が続き、とりわけ女性たちは庶民から王妃に至るまで「何々氏の妻」「何番目の妾」「何番目の娘」などという言い方はあっても固有の名前はなかったのである。道路も鉄道も未整備の中で、全国津々浦々の実情を正確に把握するのは、今の時代よりはるかに困難であったことは容易に想像できる。しかも隔離や火葬を嫌って、患者や死者の発生を隠ぺいすることが多かった。かりに朝鮮王朝が続いたとしたら感染者の実態を正確に把握することができたとでも言うのか?
ところで、日本統治の間に朝鮮人の死亡率が低下しただけでなく、生活水準や健康状態が向上したことを示すデータはほかにも多く見られる。『反日種族主義との闘争』(李栄薫編著・文藝春秋2020)のなかの車明洙(チャ・ミョンス)論文「日帝時代における生活水準の変動」によると、1910~40年の間の人口増加率は年1.3%、総生産増加率は年3.6%、その結果、一人あたりの生産が年2.3%で、それは2018年の大韓民国の一人あたりの生産増加率とほぼ同じ高度成長だった。2000年代に行なわれた国民健康栄養調査の結果から各年代の20歳当時の身長と体重を推計したところ、20代男子の身長は1910年の152cmから1945年には167cmまで15cmも伸びていることがそのグラフからわかる。また20代男子の体重は1912年の57kgから1944年には67kgまで10kg程度も増えている。身長と体重からBMI体格指数を計算すると1910年に21程度だったBMIは、1940年には24まで増加している。BMIは死亡確率と密接な関係があり、BMIが21より小さいか24より大きいと死亡確率は高くなるという(同書p330)。
最初の人口センサス(国勢調査)が実施された1925~30年の朝鮮人の平均寿命は37歳だった。1940~45年の間には41歳に伸びている。因みに車明洙氏によると、朝鮮後期の平均寿命は23歳程度だったという。日本統治時代を通じて、非熟練労働者の賃金の伸びはほとんどなかったと言われるが、初等教育の拡充ととともに熟練労働者の割合は増え、実質賃金が増加しただけでなく、平均寿命の伸びで、非熟練労働者を含めて生涯所得も増えたと見られる。
教育の普及に関しては、1910年、5~14歳の人口中、普通学校(のちの小学校)に通っていた人は3%にも満たなかったが、1933年にはそれが33%に増加した。1910年、15歳以上の人口中、ハングルの読み書きができる人は19%に過ぎなかったが、この比率は1944年には45%に増加した。近代教育の普及に伴う熟練労働者の増加、技術の発展、精神的・文化的成熟、そうした社会すべての変化を指して西洋近代では「産業革命」と呼んだ、と車明洙氏は論じる。(同書p333)
前述のとおり、ソウル大医学部の黄尚翼教授は、穀物と芋類のカロリー摂取量と年間食料消費額というデータをどこからか引っ張りだしてきて、「日帝時代を通じて朝鮮人の栄養状態が改善した」という証拠はないと主張した。「植民地近代化論」を否定するためだったら、車明洙氏が示すような身長や体重などのデータは、はじめから見て見ないふりをするしかないのだろう。しかし、そんなことまでして、学者として恥ずかしくないのか。自身を省みて惨めにならないのだろうか?
文氏も3・1節記念演説で、「日帝は植民地の民衆を伝染病から守れなかった」と言ったあと、「防疫と衛生を口実に、強制的な国勢調査や例外なき隔離措置が頻発した」とも語った。コロナ禍のなかで強制的な「隔離措置」をどこよりも実践してきたのは韓国政府自身だったが、日本統治時代とどこがどう違うのか。また彼が言う「強制的な国勢調査」が何を意味するか分らないが、国勢調査への正確な回答を義務づけ、ある程度、強制的に回収しなければ、意味のある統計など手に入れられるはずがない。政治を行なうに当たって、正確な人口統計と現況把握は、すべての政策立案の基礎でもある。素人政治家の集団である文政権の人々には、それが分らないのであろう。(続く)
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