日本は朝鮮民衆を伝染病から守らなかった、は本当か?③

~「植民地近代化」論を否定するため日本統治下の防疫対策も否定 その③~

前回までのブログで、1919年の「3・1独立運動」前後の朝鮮ではスペイン風邪やコレラなど伝染病が猖獗を極めたことに触れ、文在寅大統領は記念式典の演説で「日本は植民地の民衆を伝染病から守らなかった」と言ったことを取り上げた。また1919年以前のスペイン風邪蔓延当時の防疫措置を担当したのが、当時の朝鮮総督府の下での憲兵警察であったことに触れ、その高圧的な態度に対する反感に加え、スペイン風邪による大量死は朝鮮総督府の失政だと受け止められ、「植民地政権の無策、失政」への朝鮮民衆の怒りが、3・1独立運動につながったとする韓国人研究者の主張について触れた。

当時の憲兵警察制度は、韓国併合前に日本の支配に抵抗して各地で頻発した「義兵」闘争に軍事的に対処するため、警察の中堅幹部に日本軍の中佐・大佐クラスを採用したことに由来する。しかし、警察機構のなかで警務・衛生・保安の3課は文官がトップを務め、なかでも衛生警察、保健検察、防疫警察と呼ばれた「第三部」(1921年から「警務部」と改称)は、現在の保健所とおなじ機能を担い、感染症の防疫対策で最前線に立った。

警察が保健衛生に絡むことには合理性がある。2003年、香港でSARS新型肺炎ウイルスが蔓延したとき、誰が誰に感染を広げたのかという疫学調査は香港警察が担当した。刑事捜査と同じ手法で、犯人がいつ、どこに立ち回り、誰と接触したかという「足取り捜査」は、SARSの感染ルートを探る上で大きな効果を発揮し、香港にウイルスをもたらした最初の感染者が、中国広州から結婚式のために香港に来た医師だったことを突き止めただけでなく、香港から世界各国にウイルスを伝播したスーパースプレッダー(強力なウイルス拡散者)の存在まで特定することができた。

<台湾・朝鮮の植民地経営の最初は伝染病対策だった>

日本が台湾や朝鮮半島を統治するに当たって、最初に取り組まなければならなかった課題は、マラリアやペスト、コレラなど感染症、風土病に対する対策だった。

台湾の場合、即戦力として役立つ人材を調達するため、「公医」制度が設けられた。特別教育を受けた医師を日本から呼んで、公医として指定した地域に配置し、診療所を作って医療活動に従事させる制度で、受け持ち地域での衛生思想の向上、原住民居住地の衛生改善と治療、防疫、検査、宣撫工作などを担当した。公医として応募した邦人医師115名は任地に出向いて、伝染病や劣悪な環境と闘い、自ら悪疫に感染して倒れたり、原住民に襲われて殉職するものも少なくなかった。(黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社2003,p78)。

実は、この公医制度は台湾総督府民政長官に就任した後藤新平が、キリスト教宣教師の役割を参考にして考案したものだった。

「各国植民地政略を見るに,古来何れの国も概ね宗教を利用して,其統治を助けざるものなきが如し,蓋し是れ人情の弱点に乗じて布教し,其迷妄を解き以て人心の統一を期するに至り,然るに我邦に於ては未だ完全なる宗教なきが故に,同じく人間の弱点たる疾病を救ふの道も,亦統治の一策」と考え、公医という方法を採用した、と後藤は言っている。すなわち、西洋列強は植民地統治にあたって「宗教」を利用したが、それを有しない日本は、「医療」に頼るべきであるという信念のもとに、統治機構のなかでの医療の役割に期待したのである。

鈴木哲造「日本統治下台湾における医療施設の形成と展開 ―台湾総督府医院を中心として―」中京法学51巻2,3号2017年>

しかし、公医の数は1940年の時点でも291人と限られていたので、実際には各地の駐在所の警察官が公医の役割を代行することも多かった。同時期、官庁奉職医官は451人、開業医は1659人で、医師1人に対する人口は2398人だった。

以下は、台湾台南出身のコラムニスト、米果CHEN sumiさんの文章からの引用である。

<台湾総督府は1896年から、感染症の伝播を抑止するために、「船舶検疫臨時手続」「台湾伝染病予防規則」「公医規則」「海港検疫規則」「下水規則」「家屋建築規則」「汚物掃除規則」「大清潔法」などの「検疫法令」を次々に公布した。また、伝染病病院を建設し、隔離病棟の計画を定め、ワクチンを開発して予防接種を実施した。日本が台湾を統治した50年間に天然痘の大流行はなくなり、散発的に発生するだけになった。コレラとペストも1920年を過ぎると発生しなくなった。

1929年には日本による種痘法が台湾で施行された。また、保健警察、防疫警察、医薬警察が設置され、感染症防止の各種任務を執行した。1925年の台北州警察衛生展覧会で、「南無警察大菩薩」のポスターが出現したのはそのためだ。警察官は千手観音を模した姿で座っており、警察官の六大任務の一つが「悪疫予防」であることを示している。>(引用終わり)

Nippon.com「台湾の伝染病との戦いの道:1895年から2020年までの経験」> 

要するに、警察が悪疫退治の効験あらたかな菩薩様として崇められていたことが分る。

台湾の場合、警察は行政のなかに組み込まれ、単に治安維持だけではなく、行政の執行も任務の一つになった。前述のような衛生、防疫にかかわる業務だけでなく、道路の補修や防風林の植林、農作物の耕作計画指導、納税の催促、経済政策の執行、浮浪者の収容、職業訓練など、人々の生活に関わるあらゆる面を管轄、指導するようになった。(黄文雄・前掲書p137)

1905年には「大清潔法施行規則」を公布し、春3月と秋9月に全台湾で定期的に大掃除をすることとし、同時に巡査が、つねに各家庭が清潔に保たれているかを抜き打ち検査したという。こうした衛生・医療の改善に伴い、台湾人の平均寿命は30歳前後から、終戦時には60歳へと伸び、当時の世界では希に見る成功例となった。<Japan On the Globe(493)国際派日本人養成講座>

<台湾と朝鮮で正反対の警察に対する評価>

明治の日本や台湾で実践され、成果を上げた伝染病予防令や大清潔法などの制度や規則、そして衛生・防疫面での経験がそのまま朝鮮に持ち込まれたのは間違いない。しかし、台湾で見られた警察に対する評価や尊敬は、朝鮮では見られなかった。衛生や防疫に関して言えば、台湾と朝鮮で、それほど対応が違ったはずはなく、同じ事をやったにも関わらず、これだけ評価が分かれるのどうしてか?まして、同志社大の鄭雅英教授がいうように、憲兵警察の高圧的な対応が3・1独立運動の引き金にもなったという。

確かに、3・1独立運動が各地に広がる中で、各道の警察署や駐在所・派出所が抗議デモの民衆の攻撃対象となったことはよく知られる。官公署の被害合計278件のうち警察官署87件(31%)憲兵隊72件(26%)という数字もある。

3・1独立運動を挟む形で、1919年8月、憲兵警察制度から普通警察制度への移行が行なわれたが、この変更は3・1独立運動の以前から検討されていたもので、この変更の主な狙いは、スペイン風邪など伝染病対策の際に露呈した警察の人員不足を解消し、警察力の拡充をはかることだった。

警察の人員数は、変更前までは日本人巡査1700人、巡査補(朝鮮人)3325人、憲兵2525人、憲兵補助員(朝鮮人)4719人、合計1万2269人という体制だった。これが1919年8月の第1次拡張では、日本人巡査は日本からの転任1454人、日本での募集3141人を追加し、合計16061人。うち朝鮮人は巡査3330人、前憲兵補助員4181人の計7511人だった。さらに1920年1月の第2次拡張では日本人巡査2983人、朝鮮人巡査72人を追加し、総計18588人となった。これによって、警察署や駐在所の配置が「一府郡一警察署」、「一面一駐在所」の原則が実現した。

<松田利彦「日本統治下の朝鮮における警察機構の改変:憲兵警察制度から普通警察制度への転換を巡って」(京都大学「史林」1991)>

注目すべきは、1918年から1919年前半にかけてスペイン風邪が蔓延し、「憲兵警察の横暴、高圧的な態度」が3・1独立運動につながったとされる時期、つまり憲兵警察から普通警察制度への変更と人員を拡充する前の段階で、1万2269人の巡査・憲兵のうち8044人(65%)は朝鮮人が占めていたということだ。言葉が通じる彼らこそ、戸口調査をはじめ最前線で住民の対応に当たったであろうことは容易に想像できる。つまり横柄で横暴な態度の大半は同胞の巡査によるものだった。普通警察制度への改変と警察人員の拡充で朝鮮人巡査の割合は40%まで引き下げられることになった。

中央日報は今年2月25日付「韓国警察、日帝の巡査か民衆の杖か」と題したコラムで以下のように書いた。

「巡査--。日帝強占期の時、末端の警察官を称した言葉だ。現在の巡警に相当する職位だが、当時の威勢はすごかった。「腰に剣を差した巡査を見れば、泣く子も黙る」というほどだった。彼らが日帝のために朝鮮人を抑圧した手法はさらに悪辣だった。誰の家にスプーン・箸がいくつかあるかすら把握していたいわゆる「密着型」の手先だったからだ。」

文章全体の趣旨は、文政権の検察改革の一環で捜査権など権限が強化された警察のあり方を論じる中で、冒頭に、何故か100年前の巡査を引き合いにだしているのだが、家のなかのスプーンや箸の数を把握することに、どういう意味があるというのだろうか。

前述のとおり、伝染病患者を発見する戸口調査では、職業や生活状況、思想や党派など思想検査まで行なったと鄭雅英教授は主張するが、仮にそこまで調べ上げられるとしたら、言葉が完璧に通じる朝鮮人巡査の存在しか考えられない。

そこまでするのは、治安維持の一環だというが、台湾における警察・駐在所の役割と比べると明らかに異様なことがわかる。台湾では、行政機構の中で警察官が果たす行政的な多岐にわたる職務が規定され、住民と同じ目線に立っていた。一方、朝鮮においては監視し、規制する役割しか目に見えず、住民とは否応なく敵対する関係に立つしかないが、本当だろうか?思い出したのは、新疆ウイグルではウイグル人の家庭に中国人が勝手に同居し、生活の一部始終を監視する体制がとられているという話だ。鄭教授は当時の朝鮮も、そんな息の詰まる全体主義監視国家だったと主張したいのだろうか?

<鄭雅英「感染症と近代―植民地朝鮮におけるスペイン風邪流行の歴史から」>

<植民地下の医学教育>

文大統領は3・1独立運動記念日の演説で、「日帝は植民地の民衆を伝染病から守れなかった」とした上で、「こうした過酷な医療環境の中、医学生たちは三・一独立運動に最も積極的に参加しました。京城医学専門学校やセブランス医学専門学校の学生たちがタプコル公園の万歳運動を主導し、セブランス病院の看護師やセブランス医学専門学校の看護部学生も包帯を手に街に飛び出し、万歳運動に参加しました。逮捕者のうち最も多かったのは、京城医学専門学校の学生たちでした」と言っている。

ここでいう「京城医学専門学校」とは、1916年に開校し、その前身は韓国併合後に設置された朝鮮総督府医院の付属医学講習所(定員医科75人、助産婦科20人、看護婦科20人)であり、さらにそれ以前は1907年に設立された大韓医院教育部(1909年に大韓医院付属医学校に改称)だった。また戦後は国立ソウル大学校の医科大学がその後身となる。

京城医学専門学校は1919年当時の定員400人で、そのうち朝鮮人生徒の比率は3分の2と定められていた。

1920年から27年まで第6代校長を務めたのは、赤痢の病原菌を発見したことで知られる細菌学者の志賀潔だった。日本が当代一流の医学者、人材を送り込んで医学教育に努めた証拠でもある。

セブランス病院は今の延世大学医学部につながる1885年開設の朝鮮初の西洋式病院だったことで知られる。その創始者であるホーレス・アレンの記念館が今、新村のセブランス病院にあり、そこでは3・1独立運動の際、医学生たちが秘かに独立宣言文を印刷し保管したことなどが創作絵画で展示されている。それらの絵画のなかの一枚に、日本による韓国併合のあと、「韓国語の医学教科書の使用が禁止された」という説明があった。ただ考えてみれば、当時、使われていた医学用語は『解体新書』以来、すべて日本人が西洋語から訳した漢字語だったはず。その証拠に、病院の診療科を見れば、「外科・内科」から始まってすべて日本と同じで、医学用語をわざわざ韓国語に訳し直す必要などなかったはず。不思議な話ではある。

どれもこれも、「植民地近代化」を否定するため、日本人から「近代化」を学んだことはない、日本からは迫害と圧迫を受けたことはあっても、恩恵を受けたことは何もない、と片意地を張っているのに過ぎないのではないか。文氏の曇って歪んだ眼鏡では見えるはずのない、ありのままの朝鮮近代化の真実が、われわれの側の膨大な歴史資料の中にはうず高く積まれていて、文氏が何をどう言おうと「それは間違いだ」とすべて反論することができる。

           大韓医院付属医学校(京城医学専門学校)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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