韓流ドラマやK-POPを通じて何となく韓国に魅力を感じ、韓国ファンを自認する日本人は多いが、実際に暮らしてみると、日本人にとって、韓国は、とげとげしく、何かと神経に障ることの多い街である。ソウル市内を歩いていて、ふと目にした街角の石碑や案内板に、かつてここは日本の統治に反対して独立運動家が爆弾を投げた場所だと書かれていたり、ソウル駅前の広場や公園の一角には、まさに手榴弾を投げる姿のいわゆる抗日義士・民族英雄の銅像が立っている。
<日本人が作った「漢陽公園」>
ソウル市内からならどこからでも望むことができる山、南山(ナムサン)がある。標高262メートルの頂上にはNソウルタワーという展望台が建ち、ソウル市内を一望できる。
日本統治時代、南山の中腹には「朝鮮神宮」という神社があり、北側の麓には韓国統監府の官邸や韓国統監、のちの朝鮮総督の公邸があった。そして朝鮮神宮周辺や韓国統監府官邸の裏山にあたる山麓一帯は「漢陽公園」という公園になっていた。1908年、つまり韓国併合の2年前、南山の山麓30万坪を朝鮮政府から借り受け、当時の在留日本人たちが散策路の整備など2年の工事を経て、1910年5月29日、市民の憩いの場としてオープンした。つまり日本人が整備し、ソウルの一般市民のために開放した公園で、「漢陽公園」と名付けたのは、当時すでに退位していたが、第26代国王で初代大韓帝国皇帝の高宗(コジョン)だった。
その高宗の直筆をもとに「漢陽公園」と刻まれた石碑が、南山中腹を登る坂道の道路脇に立っている。しかし、石碑の裏面の公園の由来などを書いた文字は鑿(のみ)ですべて削られ、判読不能になっている。
実はこの石碑は、戦後、行方が分からなくなり、2002年になって南山のケーブルカー駅の近くの草むらの中に埋もれているのが発見された。
その時点で、石碑の裏面の文字はすべて削り取られていた。何か韓国人にとって不都合なことが書かれていたから、ここまで執念深く石碑の文面は抹消されたのであろう。しかし、1937年当時に撮影された朝鮮神宮関連の写真集に、石碑の裏面を移した写真があり、それによって、どんな内容が書かれていたかは分かっている。石碑は1912年の明治45年を記念して建てられたもので、裏面には漢陽公園の完成までの経緯を後世に伝えるため、日本居住民の代表が書いたものだった。その文字を鑿で削った韓国人は日本人が作った公園という歴史が許せなかったのだろうか。
この「漢陽公園」と刻んだ石碑は、いま「ソウル未来遺産」に指定され、一般市民の目にも触れる形で残されている。「ソウル未来遺産」とは、文化財として指定・登録するほどではないが、「韓国近代初期の辛い過去の記憶」として未来の世代のために保全する価値のある文化資産という意味で、そういう趣旨を説明した看板が近くに立てられている。石碑の裏面を鏨で無残にすべて削りとった跡を示すことで、未来の世代に民族の怨念の深さを知らせ、その恨みを引き継ぐように求めているとしか思えないのだが・・・。
かつての漢陽公園一帯は、いま春になれば桜の大木の花が咲き乱れ、大勢の市民が訪れる花見の名所となっている。日本人がここを公園として整備しなかったら、今のような自然が保全されることもなく、ソウル周辺のほかの丘陵地がそうだったように、戦後は住民が勝手に家をつくって住みつき、スラム街のようになっていたかもしれない。
<かつての「朝鮮神宮」境内に原型を残した城壁の遺構>
「漢陽公園」の石碑から少し歩き、長い階段を上ったところにあるのが南山公園で、かつて朝鮮神宮が建っていた場所だ。ここには今、ハルピン駅で伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)の記念館や3・1独立運動後に上海で樹立された臨時政府で主席を務めた金九(キムク)の銅像がたつ白凡金九広場などがある。金九は日本に対する爆弾テロや要人暗殺の指令を出した人物で、つまりテロ実行犯とテロを指令した指導者が一緒に祀られている場所となっている。安重根記念館の前には朴正煕大統領の揮毫で「民族正気の殿堂」と刻まれた石碑が立っている。朴大統領夫人はまさにテロの凶弾に倒れ、自身も部下の銃弾に倒れているが、それらの銃弾と「民族の正気」=安重根の銃弾とに、いったいどういう違いがあるというのだろうか?
かつて朝鮮神宮の本殿があったところは、最近まで大規模な発掘調査が行なわれ、かつて首都漢陽(ハニャン)をぐるっと取り囲んでいた城壁の石垣がほぼ建設当時の状態で発掘された。城壁は朝鮮王朝が始まった1392年の当初から建設が始まったものだが、発掘された城壁の遺構からは、その後、15世紀や17世紀に何度か修復された痕跡を含め、城壁がたどった歴史をうかがい知ることができる。発掘された長さ189メートルの石垣の跡は、貴重な埋蔵文化財として、現在、大きな屋根で覆われ、漢陽都城遺跡公園として展示・公開されている。
ソウル中心部を周囲18.6キロにわたって取り囲む石垣、「漢陽都城」そのものは、市街地の開発計画の障害になったため、日本統治時代にその多くが取り壊されたが、韓国政府は1975年からその復元工事を進め、いまかつての70%まで復元されたという。それらの石垣の傍らは、いまトレッキングコースとして整備され、1周、11時間程度で、歩いてたどることができる。その大部分は険しい山の稜線に沿って建設され、真新しい白い石の城壁が延々と続き、かなり大規模な復元工事だったことが分かる。しかし、復元された城壁の上部は、三角屋根の形の大きな白い石(あるいは人工の石材かもしれない)で統一され、その一つ一つの大きさは、人力だけでは到底、運ぶのは無理なので、機械力を使って工事をしたことは明らかだ。
つまり、かつては、すべて人力だけに頼って建設されたはずの城壁がかろうじて本来の原型を留めているのは、かつて朝鮮神宮本殿があった場所だけであり、ここに朝鮮神宮が建設されなかったとしたら、城壁の遺構が現在に伝わることもなかったかもしれないのだ。
<「3・1独立運動100周年」を記念して作られた慰安婦モニュメント>
ところでかつて朝鮮神宮本殿があった場所は、戦後は植物園や大きな噴水が作られ、家族づれの市民が遊ぶ遊園地だった。現在、「漢陽都城遺跡公園」として公開されている城壁の遺構のすぐそばには、その朝鮮神宮本殿の土台の跡と、かつて巨大な噴水があった円形の池のコンクリート構造物が、かつての場所にそのまま保存されている。
そして、その遺跡公園の入り口にあたる場所に立っているのが慰安婦像である。像のモデルとなっているのは、慰安婦として1991年に最初にカミングアウトした金学順(キムハクスン)氏で、彼女が朝鮮・中国・フィリピンの少女と向き合い、慰安婦としての経験を語り伝えるという構図になっている。
像の傍らにある英文の案内板には以下のように書かれている。
<私たちがもっとも恐れるのは、第2次大戦中の私たちの悲痛な歴史が忘れ去られることです。このモニュメントは、1931年から1945年にかけてアジア太平洋13か国で、“慰安婦”と婉曲的に呼ばれているが、日本帝国陸軍によって「性奴隷」にされた数十万の女性や少女の苦しみを表わしている。これらの女性のほとんどは戦時中の監禁によって死亡した。この暗黒の歴史は生存者が勇気を出してその沈黙を破った1990年代まで、数十年にわたって隠されてきた。戦争目的のための性暴力は、政府が説明責任を果たさなければならない人類に対する犯罪だと世界が宣言するように突き動かしたのは彼女らだった。この記念碑はこうした女性の記憶とともに、世界の性暴力や性売買を撲滅するために貢献する。>
この像は、2019年8月、3・1独立運動100年と臨時政府100年を記念する事業に一環として作られ、2017年サンフランシスコに建てられた慰安婦記念像と姉妹関係にあるという。そして像の建設には、韓国系や中国系の米国人コミュニティが寄付金を寄せたという。
それにしても金学順氏は勇気ある慰安婦の代表とされているが、彼女は貧しかった母親によって40円でキーセンハウスに養女として売られ、平壌のキーセン学校で3年間学んだあと、養父となったキーセンハウスの雇い主によって中国に連れて行かれ、慰安所で働いたという経歴の持ち主である。像の説明文にあるように「日本帝国陸軍」によって強制的に慰安婦にされた訳でも、ほとんどの女性が「戦時中の監禁によって死亡した」とされる、「性奴隷」というような扱いを受けたわけでもない。そのことは、彼女が日本政府を相手に損害賠償を求めて起こした裁判の過程で残した彼女自身の証言からも明らかだ。そんな金学順氏が、アジアの少女たちに対して、いったい何を教え諭すというのだろうか?世界の人々や人類の歴史に訴える、いかなる経験や理念を有しているというのか?
そもそも3・1独立運動と慰安婦は、どういう関係があるのだろうか?慰安婦が独立運動に関わったわけでもなく、当時の朝鮮総督府が慰安婦の募集に関わったという証拠もない。逆に日本の統治・警察機構は不法な人身売買を取締り、不幸な女性を救出し保護する立場だったのは、当時の新聞報道でも多くの証拠がある。当時の農村出身の女性や若い労働者たちが現実にどういう経済状況に置かれていたのかを直視することなく、貧困問題から発生する女性の人身売買や募集に応じて日本に渡った半島出身労働者問題も、何もかも日本の統治にせいにし、いまさら精神的被害まで補償しろというのは、虫が良すぎる堕落した精神というしかない。
<朝鮮総督官邸跡は慰安婦の実名晒した「記憶の場」>
南山の北側、地下鉄明洞(ミョンドン)駅からも近い山の麓に、かつての朝鮮統監府、のちの朝鮮総督官邸が建っていた場所がある。そこには、2016年に「記憶の場」というモニュメントが作られ、慰安婦247人の名前を刻んだ碑やモニュメントが立っている。その慰安婦の名前を刻んだモニュメントは「慟哭の壁」と名付けられている。その全体の構造は人間の目がモチーフになっていて「大地の目」と名付けられ、「日帝の蛮行を忘れない」という意味があるという。
ところで慰安婦247人の実名が刻まれたこの碑だが、韓国政府が「旧日本軍慰安婦被害者」として認定した人たち239人(2016年12月現在)とは数字が異なるが、碑に刻まれた名前のうちの一人の名前が削りとられ判読できなくなっている(写真の名簿中央部最下部)。元慰安婦の女性本人が自分の名前が明らかになるのを嫌って自ら削ったのだという。
<聯合ニュース2016/12/30「慰安婦被害者1人を新たに認定 生存者40人に」>
もともと、元慰安婦の中には家族や親戚のことを慮って名前を非公開にしてほしいと望む人が多かった。1990年代に日本のアジア女性基金の見舞金を受け取った元慰安婦や2015年の日韓慰安婦合意に基づき、日本政府が供出した10億円の基金の中から和解金を受け取った元慰安婦はいずれも70%以上に上るが、その大半は名前を明かしていない。日本政府を相手取って損害賠償請求を起こし、ことし1月、ソウル中央地裁の一審で勝訴を勝ち取った元慰安婦12人のうち、原告として実名を明かしたのは4人しかいない。それにも関わらず、247人全員の名前を晒したのは旧挺対協(挺身隊問題対策協議会)、現在の正義記憶連帯である。
慰安婦の多くは、その実名を公開することだけでなく、「性奴隷」と呼ばれることも嫌っていた。李溶洙(イヨンス)という自称「慰安婦」の女性(ニセ慰安婦だという説もある)がことし5月の記者会見で「性奴隷という言葉は使うべきではない」と語っている。察するに、「性奴隷」という言葉は、あまりにも実態とかけ離れていて、慰安婦自身の品位を貶め、自身のこととして使うにはあまりにも惨めすぎるということではないだろうか。
ところで、現在、慰安婦全員の実名が刻まれた「慟哭の壁」のモニュメントが設置されている場所は『記憶の場』と名付けられているが、ここにはもうひとつ、日本への凄まじい怨念を示すモニュメントが立っている。「男爵林権助(はやしごんすけ)君像」と刻まれた像の台座の部分だけがわざわざ上下逆さにして立てられているのだ。
林権助とは、明治大正時代に活躍した外交官で、1900年から1906年まで、在大韓帝国公使を務め、この間、日露戦争さなかに締結された日韓議定書(施政忠告権を定める)と第一次日韓協約(日本が財務・外交顧問の任命権を掌握)、日露戦争後の第二次日韓協約(日本による外交権の剥奪)はいずれも林が主導したものだった。これによって韓国は日本の保護下に置かれることになり、そうした功績で、1907年には男爵に叙せられている。また1910年に日韓併合が実現されると、彼は桂太郎・小村寿太郎とともに併合の「三人男」と評価された。
駐韓公使のあと林は、駐清公使(1906~08)、在イタリア日本大使(1908~1916)、在中華民国公使(1916~18)、駐英日本大使(1920~25)など要職を歴任し、日本外交の中枢を担った人物である。
その「男爵林権助君像」の台座だけが逆さまに建てられている場所は、かつて韓国統監「公邸」があった場所だが、かつて林権助の銅像が実際に立っていた場所は、そこから坂道を少し下った場所にあった韓国統監府「官邸」の建物の真ん前だった。
「公邸」つまり居住スペースと「官邸」つまり執務スペースの違いがあるが、いま「記憶の場」と名付けられた場所にある案内板の説明文を読むと、どうもこの「公邸」と「官邸」の違いを理解せず、混同していると思われる記述が見られる。
すなわち、かつての韓国統監府「公邸」の建物は、「民族の反逆者」李完用(イワンヨン)総理と寺内正毅(てらうちまさたけ)統監が1910年の日韓併合条約に調印した場所で、慰安婦モニュメントの説明文では「植民地支配という民族の屈辱の歴史が始まった地」だということになっている。そして林権助の銅像も、いまその台座だけが逆さまにされて反日モニュメントとされている「公邸」があった場所にもともと立っていたかのように勘違いしているようだ。
ちなみに韓国統監府官邸の建物があった場所は、ことしになって「南山芸場(イェジャン)公園」として整備され、統監府官邸の建物の礎石跡が再現され、それを足で踏みつけながら見学できるようになっている。また、林権助の銅像が、その官邸の建物の正面に立っていたことは、当時の写真を見れば、一目で確認できる。
林が当時、日本の外交官として行なった行為は、あくまで外交交渉という正当な手段を使って、相互の承認のもとに条約という形でまとめた国家間の約束事だった。日本にとっては軍事強国ロシアへの恐怖や西洋列強との関係など当時の世界情勢のなかで、朝鮮半島はかくあるべしという理想や願望があり、大韓帝国政府にとっても、日本の要求に従って、そういう選択しかできない事情も抱えていたのであろう。日韓併合に功績があったとして像まで建てられることになった林だが、日韓併合の責任を彼一人が負っているわけでもなく、彼の名誉は、そうした国家と国家の関係作りを力に寄らず、平和的な外交交渉で実現させたという一点にある。
それにしても、銅像を破壊するだけでは飽き足らず、その台座だけを上下逆さにして地に晒す、というモニュメントの前に立ったとき、韓国の人々の憎悪には凄まじいものがあると身震いする思いだった。
<「ダークツーリズム」で売り出す「南山併合の道」>
慰安婦の慟哭の壁、そして林権助の上下逆さまの台座モニュメントがある場所からさらに坂を上った先には今、ソウル・インターナショナル・ユースホステルがある。かつてKCIA中央情報部の本部として使われた建物である。実は、韓国統監府官邸があった場所も1960年代以降は中央情報部第6局の建物として使われるなど、この周辺一帯は「南山(ナムサン)」と称されて市民から恐れられる中央情報部の建物が80近く集中した場所でもあった。
そのユースホステルに向かう坂道の道路脇には、各国語で表示された「世界人権宣言」の第1条、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」という言葉が刻まれている。つまり世界からソウルを訪れ、ここに宿泊する若者たちは、慰安婦の名前が刻まれたモニュメントと林権助の逆さモニュメントを否応なく目にし、さらには世界人権宣言の言葉を延々と覗きながら坂を上ることになる。彼らが、何をどう理解するかは分からないが、韓国の人々の日本に対する怨念の深さは肌で感じ取ることができるのではないか。
実は、この坂道を含むルートは、KCIA中央情報部の建物群をめぐる「人権の道」として紹介されているほか、日本統治時代の歴史の跡をたどる「ナムサン併合の道」、そして慰安婦のモニュメントを訪ねる「記憶の道」などと名付けられたコースが作られ、そのルートが整備されている。ソウル市の観光当局は、これらをいわゆる「ダーク・ツーリズム」(戦跡や被災地を訪ね悲しみの記憶をたどる旅)として盛んにPRしている。
たとえば、「南山併合の道」のコースは、韓国統監公邸址―韓国統監府官邸―乃木神社址(現・リラ小学校内)―京城神社(崇義スンイ女子大)―漢陽公園標石―朝鮮神宮址(漢陽都城遺構展示館)などをめぐる約2kmの行程となっている。これに、さらに閔妃殺害事件で命を落とした王宮の側近や兵士を祀る奨忠壇公園まで含めれば、南山北麓を東の端から西の端まで歩くコースとなっていて、これも「抗日独立の道」と名付けられ、ソウル市民には緑豊かな南山の自然を季節ごとに楽しめる人気の山歩きコースともなっている。
旧韓国統監公邸の裏山も「記憶の道」と名付けられた遊歩道になっていて、何段もの階段がある坂道を登ると南山北麓の中腹を東西につらぬく道路に出る。そしてこの道路を含めて周辺の森は、かつての「漢陽公園」の跡地だ。桜の季節には道路脇の桜の大木が見事な景色をつくり、大勢の家族連れが散策を楽しんでいる。日本の足跡はほとんど消されているので、ここが、かつて日本人が市民の憩いの場として整備した公園ではあることを知っている人はいない。その代わり、南山はいま、慰安婦とテロリストを顕彰するため、負の歴史の傷跡を瘡蓋(かさぶた)のようにあちこちに刻む地となり、人々の怨念とともに魑魅魍魎が蠢くような、そんな得たいの知れない場所となっている。
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