韓国人原爆者犠牲者は個別名を挙げて慰霊すべき

<なぜ韓国人原爆死没者名簿を作らないのか>

長崎市平和公園に「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が建立され、11月6日に除幕式が行われた。原爆投下からすでに76年も経ち、当時を知る遺族もほとんどいないであろうに、長崎韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会と駐福岡大韓民国総領事館などの発表によると、「建立を推進してから30年目に実現した快挙だ」という。「快挙(쾌거)」とはどういう意味か?歴史を歪曲することに成功した、しかも敵地の日本で、だから快挙なのか?

動画チャンネル・キムチわさび10/27「長崎に反日碑石が建つ?」

たった一つの石碑のために30年も労力をかけるくらいなら、北朝鮮に核兵器を廃棄させ核開発を停止させるように、同じ民族として責任を持って対応することのほうがはるかに重要であり、それこそが原爆犠牲者の霊に報いる唯一の道だと思うが、どうだ、違うか?

ところで慰霊碑の碑文によれば、長崎に投下された原爆で犠牲になった韓国・朝鮮人の数は数千人から最大1万人だと主張する。原爆が投下された1945年末までに長崎で亡くなった犠牲者は総数で73,884人なので、韓国・朝鮮人はそのうちの7人に1人近くを占めることになる。実は、広島にも韓国人原爆犠牲者の追悼碑があって、こちらは韓国人の犠牲者は「2万余人」だとしている。広島原爆の犠牲者総数は159,283万人なので、こちらは8人に1人が韓国人だったという主張になる。本当だろうか?

原爆被害の実態の究明と被爆者の救済は、戦後日本の重い課題であり、歴代日本政府と各地方自治体、それに原水爆禁止運動に関係した市民団体が、戦後76年間、粘り強く真剣に取り組んできたテーマだった。その結果、原爆死没者名簿は毎年、更新され、後遺症で亡くなった人も含めて犠牲者一人ひとりのお名前がすべて名簿に記載され保存されている。そこに朝鮮人・韓国人の名前があるかどうかは、死没者名簿を調べれば、すぐにわかることだ。

犠牲者数を1万とか2万とか大雑把な数字でひと括りにして慰霊碑を作るよりも、犠牲者一人ひとりの名前を丁寧に調べ上げ、どこでどう亡くなったのかを調査・記録し、遺骨を回収して親族に戻すことこそ、犠牲者を追悼する本来の道だと思うが、そうは思わないか?

疑問なのは、韓国政府も韓国人にもそうした努力は、戦後76年の間、ほとんど何もしなかったことだ。これだけの長い時間があったなら、犠牲者個人個人の確認と死没者名簿の作成ぐらいはできたであろうし、遺骨の発掘や遺骨のDNA検査なども含めて、多くのことができたはずだ。日本統治時代、日本は韓国に戸籍や住民票の制度を根付かせたはずだ。邑(ムラ)や洞から日本に出稼ぎに行き、あるいは韓国人が主張するように「徴用」され「強制的に連れて行かれた」といい、戦後も帰って来ないというのであれば、戸籍や住民票に基づいて、その後の消息や生死くらい確かめ、不明だったら「不明」と戸籍原本に記載するのが一国の行政というべきものだが、違うか?

日本では、原爆死没者だけでなく、沖縄戦で亡くなった人々についても、生後まもない赤ちゃんも含めて戸籍に記入し、糸満市平和公園の「平和の礎(いしじ)」にはその赤ちゃんの名前も刻んでいる。原爆犠牲者に限らず、「慰安婦」と称する女性についても個人個人の名前・出身地を明らかにし、「20万人に及ぶ」と主張するなら、その20万人分の「慰安婦」名簿をしっかり作って、世界に提示するのが筋というものだろう。どうだ、違うか?

何度でも言おう。原爆犠牲者を慰霊するためには、1万とか2万とか「誰でもない」「誰であっても構わない」ような数字を掲げるより、個人名、顔が見える個別具体名を出してその死を悼むしか、実際に霊を慰める方法はないのである。

<原爆によって韓国は独立できた?!>

そもそも韓国人の間には、日本に落とされた原爆によって日本の敗戦が早まり、日本統治からの解放と独立が達成できたという「民族解放論」と呼ばれる考え方があり、広島・長崎の悲惨な原爆被害は、朝鮮半島を蹂躙し民族を迫害した日帝(日本帝国主義)の蛮行を懲らしめる天罰だとする主張さえある。

韓国人が口に出すか出さないかは別にして、いわば「棚からぼた餅」式に日本からの解放と独立が転がり込んできたのは、広島・長崎の原爆投下が契機であることは間違いないのである。

そのため、戦後、韓国に戻った韓国人被爆者の存在は、あまり注目されず、被爆者手帳の交付や後遺症の治療など、その後の補償措置が遅れに遅れたのは周知の事実でもある。韓国人被爆者はハンセン病患者と同様に見られ、遠ざけられ、差別された。また被爆の事実を晒すと子どもの教育や就職にも影響したため、次第に隠すようなったという。そのようにして韓国人被爆者の存在は忘れられ、放置され、見捨てられ、やがては「原爆棄民」と呼ばれるような存在になる。そうした経緯は以下の論文に詳しい。

鄭美香「忘れられた被爆者 ~在韓被爆者の歴史と先行研究~」早稲田大学大学院社会科学研究科 社学研論集Vol.30 2017)

現に生存し、同じ韓国社会に暮らす韓国人被爆者に対してさえ、それほど冷淡であるのに、遠い異国の地で原爆の犠牲になった「名もなき同胞」への共感など生まれるはずがない。そうじゃないか?

<長崎原爆の韓国人被害者は6割は移住者だった>

ところで、冒頭にも記したように慰霊碑は「建立を推進してから30年目に実現した快挙だ」とされるが、韓国メディアによると、この間にはさまざまな困難や厳しい経緯があったという。その一つは、長崎市が設置するのに適切なスペースがないとして拒否した問題であり、もう一つは碑文の内容に問題だった。

まず場所の問題では、民団(在日本大韓民国居留民団)が慰霊碑建立を計画した1994年には、すでに「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」と朝鮮総連が1979年に設置した「追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者」と書かれた碑があったことである。「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」は、牧師であり、長崎市議会議員だった岡正治(まさはる)氏が代表を務める会で、在日朝鮮人問題と「強制連行」の歴史に取り組み、『原爆と朝鮮人第1集~第6集』(1982~94)という本に出し、端島炭鉱を「地獄島」として表現して、あたかも過酷な朝鮮人強制労働があった現場だと宣伝に務めた人物である。そして、彼が中心になって作った朝鮮人原爆犠牲者の碑には「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死した朝鮮人とその家族のために」と書かれている。

長崎市が民団の提案を拒否したのは、朝鮮人と韓国人の違いはあるものの、同じ朝鮮半島出身者のための、同じような趣旨の石碑を二つも置くようなスペースはないとしたほか、当時、長崎平和公園を新しくする再建計画があったためである。

こうして民団の計画はいったん頓挫するが、2013年に民団は建立委員会を結成し、再び長崎市と交渉することになる。その交渉のなかで長崎市が難色を示したのはその碑文の内容だった。

当初の碑文には「熱気に溶けてしまった命たちは、この地での過酷な強制労働と虐待も忘却するでしょうが、生まれ育った土地をいや応なく離れて、よその国の戦争のために異郷で跡形もなく消えてゆく悲しみはどうすればよいのでしょう」「国なき民として受けたさげすみと仕打ちによってずたずたに裂け散った悲しい心はどうしてつなぎ合わせることができましょう」というような言葉があった。明らかに原爆犠牲者を慰霊する目的以外の別の主張、日本批判を意図していることは明らかだった。

長崎市が問題視したのは「強制連行」や「強制労働」という言葉だった。前に紹介した鄭美香氏の「忘れられた被爆者」の論文にも出てくるが、1979年に韓国教会女性連合会が、韓国の被爆者3000人を対象に行った「原爆被害者実態調査」で、被爆地に滞在していた理由を聞いたところ、回答者1070人のうち665人(61.7%)が「移住」と答え、そのうち「本人の雇用による移住」と答えた人は226人、配偶者や親に従っての移住と答えたのが429人だった。そして「徴用」と答えたのは180人16.8%だった。この「徴用」が国民徴用令に基づく徴用か、募集や官斡旋の労務動員なのか、厳密に区別しなければならず、これらがすべて本人の意思に反しての強制連行である訳がない。因みに、朝鮮に国民徴用令が適用され一般徴用が行われたのは1944年8月から翌年3月までの8か月間だった。1944年に限っていえば徴用は19,655人だった。

以上の数字をみるだけでも、岡正治氏が作った「長崎原爆朝鮮人犠牲者」の碑文がいうように、朝鮮人犠牲者がすべて「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死した朝鮮人」というのは明らかな事実誤認、虚偽だということができる。

そのあとの交渉の結果、碑文の中身について、長崎市が難色を示した「強制動員」といった表現の代わりに「本人の意思に反して」という文言を使うことで建設許可が出たという。

KBS日本語ニュース11/08「長崎原爆の韓国人犠牲者の慰霊碑 除幕式開催」


この「本人の意思に反して」という言葉は、実は端島炭鉱「軍艦島」を含めた「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ世界遺産登録に際して、韓国側が展示資料などに「強制労働」の文言を入れるよう強く要求したのに対して、日本側が安易な妥協を図り、登録施設の一部に「情報センター」を設置し、「意思に反して(against their will)」連れてこられ、厳しい環境の下で「働かされた(forced to work)」朝鮮半島出身者がいたことを説明すると約束した、まさに妥協の産物としての言葉だった。この時、韓国メディアは、ついに日本政府は「強制労働」を公式に認めたと快哉を叫んだといわれる。つまり、日本は韓国の策略にうまく乗せられたのである。慰安婦の強制性を認めた「河野談話」という悪しき前例があるにも関わらず、日本は再び同じ過ちを犯したのだ。そして、今回の原爆慰霊碑で明らかになったのは、「意志に反して」という言葉が、日本が強制労働を認めた証拠として、これからも様々な場面、さまざまな機会に使われることになるということで、それは「河野談話」が慰安婦の強制連行の証拠としてあらゆる場面、あらゆる機会で使われるのとまったく同じ状況なのである。

<日本語の碑文と韓国語・英語の説明が異なる意図とは>

ところで、実際の慰霊碑の韓国語による解説文は以下のように書かれている。

「私たち祖国は1945年8月15日まで35年間、日本の統治下にあった。太平洋戦争末期には本人の意志に反して労働者や軍人・軍属として徴用・動員される事例が増えた。すでに移住した人々を含めて、当時、長崎県内にいたわが国の同胞は7万人(日本内務省警務局による推計)で、そのうち長崎市とその周辺地域には約3万5000人(出典・前掲『原爆と朝鮮人』)が居住していた。1945年8月9日長崎上空で爆発した原子爆弾は約7万4000人の人命を奪った。そのうち数千人から1万人と推定されるわが同胞たちも亡くなった。故郷の両親兄弟に再会することもできず、異国の土地で命を落とした同胞たちの無念さは筆舌に尽しがたい。」

一方、日本語の碑文はどう書かれているかというと・・・

「有史に比類なき死の宣告がこの地を襲い、我が同胞の命をも無慈悲に奪い去りました。咲き誇るムグンファ(槿・むくげ)に故郷と家族を想い、祖国光復への胎動にどれほど心震わせたことでしょう。故国に還ることついにかなわず、標(しるべ)ひとつないまま異郷の土となった惨めさにおののくばかりです。この碑は、原爆による受難の歴史を決して忘れることなく、犠牲同胞に哀悼の誠を捧げようとするせめてもの証です。諸霊よ。心安らかにお眠りください。」

韓国語の説明文にあった「本人の意志に反して」「徴用・動員された」などの言葉は一切ない。それどころか、日本語の碑文では韓国語の説明にあった当時長崎周辺にいた朝鮮・韓国人居住者や韓国人原爆犠牲者の数についてはいっさい触れていない。

一方、英語の説明文もあるようだが、そこにはthe number of Koreans mobilized against their will and forced to work as laborers, military and civilians attached to the military (彼らの意志に反して動員され、強制的に働かされた労働者や軍人、軍属の韓国人の数)とあり、There were an estimated 70,000 ethnic Koreans living in Nagasaki Prefecture.(長崎県に住んでいた韓国人は推定7万人)、Korean people, estimated from several thousand up to ten thousand lost their precious lives (尊い命を失った韓国人は数千人から1万人と見られる)となっている。

つまり、当時、長崎にいた朝鮮・韓国人は「強制動員や徴用で連れてこられた人々」だとし、韓国語文と同じくその数も具体的に表示している。韓国人や外国人は、こうした解説文を読んでどう思うだろうか。

それにしても、韓国語と英語の解説文と日本語の碑文とはどうして、こんなにも内容が異なるのか。日本人に向けて何かを秘匿し、意図的に日本人を欺瞞しようとしていることは明らかだ。原爆犠牲者や徴用労働者の総数に関する欺瞞、強制連行・強制労働に関する牽強付会の解釈という欺瞞、原爆に対する評価と自国の犠牲者・被爆者に対する冷淡な対応に対する欺瞞、などなど。

そもそも戦後76年も経って、いまさら慰霊碑を建てる意図は何なのか?

「本人の意志に反して」の「強制連行」を認めた日本政府を糾弾し、非難し、貶める政治的な意図・目的があるのは明らかだ。慰安婦像と同じく、原爆犠牲者慰霊碑も韓国の歴史の虚偽・ねつ造の産物であり、こんな政治的な主張を目的とした恒久的なモニュメントを日本の公共空間に設置することは許されるのだろうか。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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