韓国与党候補の国を誤らせる危険な歴史認識

来年3月の韓国大統領選挙に与党「共に民主党」の公認候補として出馬する李在明(イ・ジェミョン)前京畿道知事は、公認候補に選出されたあとも、過激な反日、反米の言動を繰り返している。最近では、「韓国が日本に併合された理由は米国が桂・タフト協定を承認したからだ」と発言した。この発言は、韓国を訪問した米民主党の上院議員に直接ぶつけたものだったため、「外交的欠礼」だという批判も出た。

「桂・タフト協定」とは、日露戦争中の1905(明治38)年、桂太郎首相と訪日した米国の特使ウィリアム・タフト陸軍長官が会談した際に、会談の議題をまとめた覚書で、そこには米国によるフィリピン領有を日本が認め、米国は日本の朝鮮における指導的な地位を認める、極東の平和は日・米・英3か国による事実上の同盟によって守られるべきであるといった内容が記されていた。この覚書をルーズベルト大統領に送り、その承認を受けることで、米国を仲介にした講和会議がポーツマスで行われ、朝鮮に対する日本の支配権を承認したポーツマス条約が結ばれ、その後、第2次日韓協約が成立し、日本による韓国の保護国化が行われることになった。

この「桂・タフト協定」は正確には「メモランダム(覚書)」だが、韓国では「密約」だと称している。会談があったことや覚書の内容は当時すでに公表されていたので「密約」でも何でもない。桂首相は、日本が朝鮮を保護国化する意志を明言し、1898年のアメリカによるフィリピン領有という現実をそのまま承認した。一方、アメリカは台湾より北は日本の勢力圏だという現状をそのまま追認したというだけで、新たに何かを約束をしたわけでもなく、そもそも「密約」として何かを秘密にする必要もなかった。

このときの桂・タフト会談で、桂首相は「大韓帝国政府が日露戦争の直接の原因である」と指摘し、「大韓帝国政府をただ放置すれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むことになるだろうから、それを防がなければならない」と主張した。桂の話を聞いたタフト特使は、大韓帝国が日本の保護国となることが、東アジアの安定性に直接貢献することに同意した、といわれる。<ウィキペディア「桂・タフト協定」


当時、セオドア・ルーズベルト大統領は日本よりはロシアの満州・韓国進出のほうが米国の利益に反すると見ていた。親露政策をとる大韓帝国を信用していなかったルーズベルトは「日本が大韓帝国を取ることを望む」と手紙に書いている。そのルーズベルトの末娘アリスは、1905年に朝鮮を旅行し高宗とも会談している。彼女は高宗について「皇帝らしい存在感はほとんどなく、哀れで、鈍感な様子だった」と述べている。高宗は国際情勢に疎く、何かあればすぐに外国公使館に逃げ込み庇護を求める癖があり、しょっちゅう亡命説が出回るような国家指導者だった。

李氏朝鮮末期、すなわち最後の国王高宗の時代には、焼き畑農業や暖房の燃料となる山林の伐採で、朝鮮半島のほとんどの山は禿げ山になっていた。ロシアの外交官の報告書によると、20世紀初めになっても、朝鮮には車輌の通行に耐えうる道路は一本もなく、人や馬がやっと通れるぐらいの狭い道しかなかった。

朝鮮は、儒教、なかでも朱子学あるいは「性理学」と呼ばれた原理主義的で、硬直化した思想によって支配されたために、王朝・朝廷以外には国家はなく、民は王によって生殺与奪を握られ、何の権利も保有していなかった。『反日種族主義』を書いた李栄薫ソウル大名誉教授氏によると、「李朝の為政者たちが帝国主義の侵入にうまく応戦できなかった理由は・・・人間・社会・国家、そして世界を眺望する彼らの秩序感覚というものが、古い文明の原理にあまりにも深く固執するものであったため」(李栄薫『大韓民国の物語―韓国の「国史」教科書を書き換えよ』文藝春秋2009)としている。

高宗は「東学党の乱」という民衆蜂起になすすべもなく、清にその征伐を頼んだために日清戦争が起き、そのあとは中国に代わってロシアに全面的に頼ったために、日本はロシアの脅威に対抗し自らの安全を確保するために日露戦争を戦うしかなかったのである。自らの国や民を守ることもできない王朝や政府に存在理由はなく、滅びるしか道はなかっただろう。

李在明氏が大統領を目指し、一国を率いようと志すのであれば、そうした当時の朝鮮の国内状況や周辺の国際情勢を冷徹に見つめ、朝鮮王朝はなぜ滅びたのか、併合という手段によってしか、状況を打開する手段はなかった、という歴史の現実をしっかりと認識し、民族の反省材料として生かすべきなのではないか。

李在明氏が「桂・タフト協定」を持ち出して、日本による韓国併合はアメリカのせいだと非難するのであれば、日本による韓国併合を当時の米国が承認した理由を冷静に分析し、さらには「朝鮮朝鮮が滅びた理由」を綿密に分析すべきである。。

いづれにしても桂・タフト協定は「結果」であって、日本が韓国を併合することになる「原因」ではない。韓国が併合され、自らが滅びる「原因」を作ったのは、救いようもない当時の朝鮮の指導者であり、ロシアに接近し頼ることを選んだ国家の選択だった。そうした自らの状況や選択を棚に上げて、今さら米国や日本のせいにする大統領候補者に、これからの韓国を導いていける能力があるとは思えない。

ヘンリー・キッシンジャーはその著『外交』のなかで、「韓国は絶対的に日本のものだ。日清講和条約などで韓国の独立が明示されているが韓国自身には条約を実行する力がなかった。韓国人自らできないことを他の国がしてくれるだろうと期待するのは話にならない」と書いている。

李在明氏は同じ米上院議員との面談の場で、「韓国は米国の支援を受けて戦争に勝ち、体制を維持して経済先進国として認められる成果を挙げた」とも発言したという。韓国が勝った「戦争」とは、いつの戦争のことを言っているのか?韓国は朝鮮戦争には勝っていない。勝っていれば南北の統一は済んでいたのではないか?経済先進国として認められたのは米国の支援よりも、日本の技術、資金、協力があったからだ。サムスンやSK(鮮京)グループ、浦項製鉄をみれば明らかだ。

李在明氏はさらに、「最終的に分断されたのは日本ではなく、戦争被害国の韓半島だった。それが戦争の原因になったという点は否定できない客観的な事実だ」と述べたされる。つまり、朝鮮戦争の原因は、日本が朝鮮を「植民地」統治したせいだとし、本来は戦争加害者である日本が米国・ソ連によって分断統治されるべきだったのに、被害国である朝鮮半島が南北に分断されたから朝鮮戦争も起きたのだ、と、これも他人のせいにする。

朝鮮が分割されたのは日本のせいではない。ヤルタ会談(1945年2月)で米・英・ソ連の首脳は、朝鮮半島を相当の期間、連合国の信託統治とするという密約を交わしていた。ソ連が対日宣戦する直前になって日本降伏後は北緯38度線を境として南側はアメリカ、北側はソ連が暫定的に分割占領すると決定していた。

日本が敗戦し「棚からぼた餅」で解放が転がり込んだ朝鮮の人々は、すぐに自分たちの国家を持てると思っていたようだが、そんな能力も覚悟もなく、実際に国をまとめる指導者もいなかった。

戦後、米ソ共同委員会や信託統治に対する半島の人々の賛否は分かれ、共産主義者から穏健派、右派強硬派まで、さまざまな勢力やグループ、有象無象の人たちが勝手に政党をつくり、「終戦から1年もしないうちに政党の数は300にも達し、愛国的団結という看板はかなぐり捨てられ・・・分裂と際限のない競争へと姿を変えていった」(グレゴリー・ヘンダーソン著『朝鮮の政治社会』p137)。

韓国には「光復会」という反日独立運動家の子孫を顕彰し、親日派を糾弾する組織がある。その「光復会」と李在明氏は、「第2次大戦後、北朝鮮にやって来たソ連軍は『解放軍』だったが、南朝鮮に進駐した米軍は『占領軍』だった」という認識を示している。こうした歴史認識は、1980年代に韓国の若者の間で一世を風靡した『解放前後史の認識』全6巻という本で表明された民族主義的な歴史観そのもので、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権や文在寅政権のような左派政権を担ういわゆる「運動圏」(1980年代に学生運動を経験した市民活動家)出身の人々やNL(民族解放)派的な歴史観だといわれる。『解放前後史の認識』は、「毛沢東の新民主主義革命理論に立脚して大韓民国の建国史を批判した挙句、北朝鮮の主体思想に寄りかかかって民族の統一を展望する」という「時代錯誤的な話」を主張する本である(李栄薫前掲書p35)。

李在明氏が思わず漏らした歴史に対する見方・考え方から伺えるのは、彼もそうした時代錯誤的な歴史認識を持ち、共産主義中国や北朝鮮の主体思想にシンパシーを持つ人物であるということだ。

李在明氏のいう「朝鮮戦争は日本や米国のせい」だという主張は誤りで、朝鮮戦争の直接的責任は「米軍は参戦しないものと信じた金日成(キム・イルソン)・スターリン・毛沢東の無知」にある、ということこそ歴史的事実なのだ。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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