「佐渡金山」で働いた韓国人が強制労働だという証拠はあるのか②

<古代朝鮮は当時最先端技術を持つ鉱工業国家だった>

かつて百済の首都があった熊津(ウンジン)、今の公州(コンジュ)市にある宗山里古墳群で、百済第25代国王武寧王の陵墓が見つかったのは、今からちょうど50年前の1971年7月のことだった。数多ある韓国古墳のなかで陵墓の内部にあった墓誌石から埋葬者の名前と没年が唯一特定され、未盗掘だったため副葬品が埋葬当時のまま完全に残されていたことで、「世紀の大発見」として大騒ぎとなった。その武寧王陵のすぐそばにある国立公州博物館では発掘50年を記念した特別展(期間2021/9/14~2022/3/6)を開催している。

発掘品の展示の中で圧倒的な存在感を放っているのは、国王と王妃が王冠に付けていた黄金の冠飾りや、精緻・精巧な加工が施された首飾り・耳飾りなど多数の金製の装飾品である。その精密・高度な加工技術とともに高品質で豊かな金鉱山の存在を伺うことができる。

また日本の古墳時代にあたる「前三国時代」の古墳、たとえば朝鮮半島最南端の加耶の古墳からは、木棺の下に一面に敷き詰められた板状鉄斧が大量に発見されるなど、当時の加耶が鉄の一大生産拠点であり、その鉄製品が日本や中国など東アジアに広く流通していたことが分かっている。そしてその原材料となる鉄鉱山はたとえば密陽(ミリャン)などでは、磁石がくっつくほどの良質の鉄分を含んだ鉄鋼石が大量に見つかるという。要するに朝鮮半島は鉱物資源に恵まれた地域で、古代からそうした地下資源を活用して金属の加工技術も進んでいたことがわかる。

<鉱山の開発権・採鉱権を外国に切り売りした朝鮮王朝>

しかし、その後、高麗時代と朝鮮時代を通じて、地下資源の活用については極めて消極的で、民間の採掘や鉱物資源の利用を奨励するどころか、そのような活動を阻止、抑制するケースのほうが多かったとされている。

「高麗時代と朝鮮時代には、中国の歴代王朝から金、銀などの貴金属の朝貢を頻繁に要求されると、朝廷は朝貢の負担をできるだけ減らすため、国内の民間鉱業人に当該鉱物の採掘を控えるように要求した」(李大根著『帰属財産研究』(文藝春秋2021、位置No329)という。

朝鮮王朝末期、最後の国王にして初代皇帝の高宗(コジョン)の時代になると、自国民の鉱山開発は禁じる一方で、開港後に押し寄せてきた欧米人などに鉱山の採掘権を切り売りし、その金を王室の予算として使っていた。鉱山のほとんどは朝鮮王室が所管し、所有権や許可権を行使していた。日本が韓国を併合した1910年までに、鉱山開発や採掘の特許権を米国や英国人のほか、独・仏・伊・ロシア人などに与えた件数は計41件に上り、その多くが金鉱だった。(前掲書330)

韓国の人々は、日本の植民地支配によって韓国が近代化されたという、いわゆる「植民地近代化論」を拒絶し忌避するために、日本の手を借りなくても皇帝高宗によって十分に近代化の達成は可能だったとして、「高宗再評価」に余念がないが、近代的工業や重化学工業発展の基礎となる地下資源の重要性、その価値も理解できない愚昧な皇帝に、いかなる近代化への貢献ができたというのか?

それに引き比べて、日本は室町時代から江戸時代を通じて各地の銀山や金山を積極的に開発し、大航海時代には日本で産出した銀が世界で流通し、佐渡の鉱山で採掘されたという銅がその成分分析からオランダの大砲の材料として使われたことが分かっている。今回、世界文化遺産への登録候補に決まった「佐渡の金山」も、そうした人類が歩んだ発展と智慧の歴史に敬意を示す一つの形に違いない。

韓国の人たちも、「佐渡の金山」が朝鮮半島出身者の「強制労働の現場だった」とか、根拠もないステレオタイプの偏った見方に固執するのは止めて、もっと素直に自分たちの歩んだ歴史に誇りをもって向き合ったら如何がだろうか?

<「帰属財産」として韓国に引き渡された日本の鉱工業>

ところで前回のこのコラムで、日本統治時代にソウル近郊で日本人が開発した鉱山跡「光明洞窟」が、日本による「資源略奪と強制徴用の現場」として観光地となっているという話をしたが、実際に、韓国を併合した日本が、朝鮮半島における地下資源をどう開発し、採掘・採鉱し、戦後、それらのインフラをどう残したのかについて、李大根著『帰属財産研究』(文藝春秋2021/10)を参考に振り返ってみたい。

著者の李大根(イ・デグン)成均館大学名誉教授は、あの『反日種族主義』の著者たちを抱える落星台経済研究所の共同代表を務めた経済史学者で、ここでいう「帰属財産」(vested property)とは、戦後、進駐してきた米軍に帰属・付与(vest)された財産のことで、敗戦まで朝鮮半島に暮らし経済活動に従事してきた日本と日本人が残置・放棄せざるを得なかったインフラや生産設備、有価証券や特許など無形の財産も含まれる。韓国人は日本を敵として戦ったわけでもないのに、帰属財産を「敵産」と呼び、つまり「敵が残した財産」と蔑んだ。こうした呼び方からも、日本人が残していった財産の経済的価値を客観的に正当に評価するつもりは彼らにはなかったことが分かる。

既述のとおり、古代朝鮮はその豊富な地下資源を利用し、当時の最先端技術をもつ鉱工業国家だった。しかし朝鮮時代を通じて鉱山開発や産業技術に目立った発展はなく、むしろ民間人の鉱山開発を押さえつけて迫害した。そして朝鮮王朝末期の高宗時代には、鉱山の開発権・採鉱権を外国に切り売りするという売国行為さえ厭わなかった。

<日本統治時代に発展を遂げた朝鮮の鉱工業>

そうしたなかで韓国併合後の日本統治時代になるとどうなるかというと、1915年、総督府の傘下に「国立朝鮮地質調査所」を設置、①朝鮮に対する総合的な地質調査②有用な鉱物の分布状況③全国的な岩石の分布および土地の調査④その他の水利および土木関連の地質学的特性などの総合的な調査・分析を行った。

研究所を作った翌年1916年には京城工業専門学校に特別に鉱山科を設置。高級技術者の養成はもちろん、現場実習などを通じた鉱業および精錬関連専門家養成プログラムを同時に運営した。「教育および訓練システムの運営のおかげで、民間サイドでの鉱業の発展は速くなり、1930年代後半から展開される飛躍的な重化学工業化の過程においても、技術・技能支援の面で一翼をになうことになった。」(位置No340 以下括弧内の数字は位置番号)

その結果、鉱区出願件数は1930年の1392件から1938年には1万5721件と実に11培以上に増加。稼働鉱山数も同期間に456鉱区から5346鉱区へと12倍に増加。鉱産額基準でも同期間に2420万円から2億200万円と8.3倍に増えた。8年という短期間で成し遂げた鉱業の飛躍的な発展は、他の産業分野では類を見ない特殊な現象といえる。(344)

1930年から1940年の10年間、会社数は製造業が220%の増加だったのに対し鉱業は856%という驚異的な勢いで増加している。会社の払込資本金は同期間で、製造業が462%だったのに対し、鉱業はなんと3874%と爆増している。

こうした鉱山開発や参入企業が大幅に増加した背景には、日本が多くの補助金や奨励金を政府予算から支出したことや、鉱業関連法令を整備して投資環境を整えたことも影響した。さらに、当時「時局産業」と呼ばれた軍需産業の要請があり、鉱物資源を必要とする大きな需要があったことも間違いない。

ところで「資本と技術の多くが日本から流入し、企業の経営も主に日本人が担っていた」反面、「鉱業のおいては異様に朝鮮人の比重が高かった」という。(353)

鉱区の出願件数で1938年の1万5721件のうち、日本人30%、朝鮮人70%。稼働鉱区数も1938年の5346か所のうち日本人所有が50.6%、朝鮮人所有49.4%となっていた。しかし、朝鮮人と日本人の間の資本力と技術力の差によって、朝鮮鉱業に対する総投資額では日本人が95.6%、ただ鉱業産出額では日本人が85.9%を占め、圧倒的だった。つまり、地元という地の利を生かして現地の朝鮮人が新たな鉱区の出願をする件数が多く、「機会の平等」は保障されていた反面、圧倒的な資本力と技術力で大規模な操業を行い、利益を得るのは日本人が多かったということなのだろう。

いずれにしても、日本の朝鮮に対する民間投資総額約100億円のうち鉱業関連投資額は19.5%、精錬業や鉄鋼部門への投資まで含めると26.5%を占めたといわれ、1930年代からの「15年間という短期間で朝鮮の鉱業はどの産業より速く、驚異的な発展を遂げることができた」(357)のである。

<日本が残した鉱業資産は戦後韓国の輸出を支えた>

そして終戦後、日本人が投資・採掘・経営していた『鉱床』をはじめとする全施設は韓国に残された。鉱床など直接の生産関連施設だけでなく、鉱山進入のための鉄道、道路、発送電施設、専門教育機関、地質研究施設など、諸般の付帯施設もすべて含まれた。それらは「帰属財産」としていったん米軍の管理下に入り、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本の海外資産の放棄が決まったあとは韓国政府に正式に引き渡された。

資産的価値の大きい大規模な鉱山がほとんど北側に位置していたことなどで、北朝鮮側が工業生産全体の約80%を占めていたとはいえ、南側でも戦後の韓国経済に残した資産価値は莫大なものだった。

韓国の総輸出に占める鉱産物の輸出シェアは1952年の75.8%を頂点とし、1958年の43.5%まで、農水産物や工業製品を押さえて鉱産物が最大シェアを占めている。輸出品目の第1位は重石(タングステン)、第2位は鉄鉱石、第3位は黒鉛で、「1950年代の韓国輸出は、全面的にこれらの主要鉱産物が主導する輸出構造であったといっても過言ではない」(363)といわれる。

日本が残した鉱山産業のリソースが、戦後の韓国経済の発展を支えたことは間違いないのである。李大根氏も次のように総括する。

「朝鮮鉱業の全盛時代といわれる1930年代から約15年間、日本は朝鮮の鉱業を戦略的に育成すべき対象産業(時局産業)に指定し、あらゆる政策的支援を行った。この結果、朝鮮の鉱業は驚異的な発展を遂げ、解放後しばらくは鉱産物輸出を通じて経済を支えるという、予想外の役割を果たすことになったのである。」(365)

そうした鉱業を含めて「帰属財産」すべての資産価値は当時の朝鮮の国富の80~85%にも及び、その評価額は朝鮮半島全体で52億4600万ドル、日本円で700億円規模と推計されているという。

『帰属財産研究』の監訳者黒田勝弘氏はその「序文」で次のよう書いている。

「著者は本書で、日本統治時代の日本人による開発投資(資産)は朝鮮半島の経済発展に決定的に寄与し、1930年代以降この地に『産業革命』をもたらしたと結論づけている。いやゆる「植民地近代化論」の実証的裏付けである。その結果としての朝鮮半島における”工業化“は世界の植民地の歴史に例を見ないもので、こうした”日本遺産“は解放後さらに1960年代以降の韓国における『第2次産業革命』の基礎になったという。」(6)

一般的に西洋列強諸国の植民地経営はコーヒーやサトウキビなどプランテーション農業や金、銀、スズなど鉱産物資源の採掘など植民地の特産品に集中したいわゆるモノカルチャー経済が一般的といわれるなかで、日本による韓国「植民地」統治は、「植民地経済の均衡的発展のために鉱工業を中心とした産業構造の高度化を行った点で、どの国の植民地支配とも完全に区別される特殊な工業化を経た」(659)。

韓国の人々がいくら毛嫌いしようとも、「植民地近代化論」は、李大根氏のような真摯な研究によって揺るぎないものとして実証され、否定できない歴史的事実となっている。韓国人はそれをまっすぐに正視すべき時に来ている。そして「強制労働」だとか「徴用」とかの問題も実際にはどうだったのか、当時の経済的合理性の観点から検証し直したらいかがか?

(光明洞窟で展示の蝋人形、上半身裸で働く労働者だというが、いつの時代の話か?危険の多い坑道では体を守る労働着やヘルメット、ヘッドランプなど完全装備でなければ働くことはできなかった。)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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