習近平の仏頂面など見たくもない

中国の国会・全人代が始まった。習近平の顔など見たくもないが、この季節、テレビのニュースで嫌でも見せつけられる。それにしてもこんな仏頂面で、不機嫌・不愉快きわまりない顔を、これからも永遠に見せ付けられると思うと、ほんとにウンザリだ。

ことしの全人代では憲法改正が審議され、国家主席の任期が撤廃されて終身制も可能となる。それにしても中国国民は、こんな無表情というか、憮然というか、いかにもつまらなそうな顔をした習近平を、独裁者として仰ぎ続けることを、何とも思わないのか。こんな顔を永遠に見続けて、何が楽しいのか。

習近平の仏頂面、能面のように冷たい顔は、日本人には忘れがたい顔として焼き付いている。中国を訪問した安倍首相に対して、ホスト役であるはずの習近平が見せた顔だったからだ。外交の舞台で、日本の首相に対して見せた顔は、とりもなおさず日本の国民に向けた顔でもある。このとき以来、私はテレビで習近平の顔が大写しになるごとに気分が悪くなり、画面から視線をそらすことにしている。

安倍首相に対する仏頂面は、中国国内向けに日本とは仲良くしないというポーズを見せただけだという解説もあった。対照的だったのが、トランプ大統領夫妻を故宮に迎えて案内したときの満面の笑みだった。まるで現代の中華帝国皇帝であるかのような振る舞いと表情だった。おそらくこうした姿こそ彼自身が望み、周りに見せたい表情なのだろう。

そして今回の全人代で見せた仏頂面である。人民大会堂の中央ヒナ檀での、しかも中国全土にテレビ中継された画面で何度も何度も大写しされた習近平の顔は、まず第一に国内向け、中国国民向けの何らかの政治的メッセージを込めた表情であるはずだ。李克強首相の政府活動報告の間、見せ続けたいかにも不機嫌でつまらなそうな顔は、いったい何を訴えたかったのか。政府活動報告では「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」なるものが指導理念として憲法に盛り込むことが提案された。ところが、李克強首相はこの「習近平うんぬん~なんちゃら思想」と読むべきところを、肝心の「思想」という言葉を読み飛ばしたのだという。(日経ビジネス小平和良「二十七億の瞳~巨大国家・中国の今」)

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/278549/030500015/?P=1

習近平の苦虫をつぶしたような仏頂面は、かねてより憎たらしい存在だった李克強に向けたものかもしれないが、憲法に習近平の名前がついた指導理念が盛り込まれるということは「習近平=憲法という構図」になり、個人独裁の傾向はますます強まることになる。

「今後、党内で習近平を批判する声があれば『憲法への不満表明』となり、場合によっては国家転覆罪を問うこともできる」(矢板明男「チャイナ監視台」正論4月号)という。

ということは、文字通り「習近平の顔色を伺う」ことがますます多くなり、不機嫌、不愉快な仏頂面を頻繁に拝むことになるのだろうか。

毛沢東にしても鄧小平にしても、その顔にはもう少し威厳というか存在感があり、こちらが思わず惹きつけられ、じっと見つめてしまうような雰囲気があったような気がする。ところが習近平は顔がつまらないだけでなく、存在自体も取るに足らないから、こんな不愉快な男の話など真剣に聞きたいとも思わない。威厳も権威もない、取るに足らない男が「中華民族の偉大な復興」だとか、「人類運命共同体の構築」だとかを口にするのは、それこそ「チャンチャラおかしい」といいたくなる。

それにしても、こんなつまらない顔の男を、最高指導者としてこれからも永遠に担ぎあげ、崇め続けなければならない中国国民はほんとに可哀そうだと心底、同情する。その一方で、中国国民がこんなどうでもいい男を「核心」と称して祭り上げるのは、やっぱりどうかしている。

石平さんも産経新聞のコラム「チャイナウォッチ」で書いているが、中国仏教協会副会長という立場にある高僧の印順大和尚は、2017年12月海南省仏教協会が開いた第19回共産党大会(19大)の精神を学ぶ研修会で「中国仏教史上に永遠に残るような“名演説”」(石平氏)を行ったという。曰く「全身全霊人民のために奉仕する中国共産党はこの世の仏、現世菩薩だ」(「全心全意為人民服務的中國共產黨就是現世佛菩薩」)と言い、「習近平の第19回党大会における政治活動報告は現代中国の仏典・お経である」(「19大報告就是中國當代的佛經」)とまで言いきった。さらに、自分はすでに習主席の「政治報告」を3度も「写経」したと告白した上で、全国の僧侶と信徒に対し「政治報告の写経」を呼びかけたという。また印順大和尚は「仏教団体は習近平総書記の核心としての地位を断固として守るという自覚を持たなければならず、党の話を聞き党とともに歩み(「聽黨話跟黨走」)、仏教徒は「愛国愛党」の法を守る公民となるのが先で、信仰を語ることができるそのあとだ(「佛教徒首先要做一個「愛國愛黨」的守法公民,然後才談得上佛教信仰」)とも強調した。(香港「星島日報」2017/12/14)

http://std.stheadline.com/instant/articles/detail/589626-中國-稱19大報告是當代佛經+佛教協會副會長文章即日被刪

「ネット上でこの大和尚の発言を見たとき、私(石平氏)は正直、吐き気を催した。共産党の独裁体制の下では、宗教界も生きていくために「19大精神研修会」を開かざるを得ない面もあろうが、大和尚の発言は明らかに、この「やむをえない」ことの領域をはるかに超えている。彼はひたすら政権の意向を「忖度(そんたく)」して仏経と菩薩を侮辱するようなことまでして、政権の歓心を買おうとしているのである」と石平氏は言う。

(「石平のChina Watch」2017.12.28)

2600年以上の歴史をもつ仏教が、たかだか100年にも満たない中国共産党の言い分に従わなければならないというのは、どう考えても変だ。純粋に心の内である信仰の世界を、共産党という唯物的な外面の世界にここまで合わせ、摺り寄らなければならない、としたらやっぱり異常だ。中国国民の気分はますます沈鬱となり、不幸に転落していくように見える。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

0コメント

  • 1000 / 1000