脱中華の東南アジア史⑧モンゴル編

<ムスリム商業勢力と一体となったモンゴル遠征>

13世紀、モンゴル帝国(大元ウルス)による東南アジア遠征とその対外政策について、引き続き論を進める。

『クビライの挑戦』の著者・杉山正明氏は、モンゴルによるベトナム侵攻は、モンゴル側にとことん戦うという意思がなく、戦争らしい戦争はしなかったのではないかという。ベトナム以外のほかの国々についても、モンゴル遠征軍に実際に戦うという姿勢はみられず、服属や来貢をうながす宣伝部隊に近かったようだったとする。その証拠に、海上艦隊そのものは、ほとんど傷ついていなかったらしい。

(引用)「こうした南方遠征の全体をとおしてながめると、軍事上よりも、むしろ経済上の側面がきわだってうかびあがる。通商や交易を勧誘したり、海洋による通商ルートとその拠点となる港を確保しようとする方が目につく。艦隊も、武装した商船隊にちかい。あえていえば、陸地を軍事征服するのではなく、海域を制圧しようとしたのである。」(位置No.2479)

しかも、こうした「遠征」の企画・立案から始まり、全般をリードしたのは、ムスリム商業勢力で、「その実態は『遠征軍』とは名ばかりで、ほとんどムスリム海洋商人の主導による貿易船団であった」という。

いわゆる「江南軍」のうち、大艦の大部分は、泉州を拠点に貿易船団を動かしていたムスリム商人で福建水軍の司令官でもあった蒲寿庚(ほじゅこう)が建造したものだった。フビライは、南宋接収と同時に、蒲寿庚を取り込むことで、海上通商勢力をまるごと手に入れたといわれる。日本、ベトナム、チャンパ、ジャワへの遠征は、いずれも「海上進攻」のかたちでおこなわれたが、それらの派兵の裏には、蒲寿庚をはじめとするムスリム商業勢力の存在があった。

(引用)「モンゴルと一体化していたムスリム商業勢力にとって、政権やその出先機関が企画する「遠征」活動そのものが営利事業であった。そして、これら「海上遠征」は、「大元ウルス」の立派さを伝え、貿易と経済の振興をはかるデモンストレーションといってさしつかえない。」(位置No.2494)

もともとモンゴルは、すでにチンギス・ハーンの時代から、内陸貿易に従事するムスリム商人たちとは「共生」ともいえる関係にあった。クビライの時代となり、軍事と通商の結合は、ついには内陸から海洋にも及ぶことになった。クビライの国家において、とりわけ注目すべきは、もともとは遊牧軍事力を基盤とする軍事政権でありながら、軍事力の支配にたよらず、むしろ経済の掌握を国家経営の主軸にすえたことだ。

(引用)「クビライとそのブレインたちは、経済立国の思想を早くからもっていた。世界規模での流通・通商の創出を、はじめから考えていた。一面でそのための巨大プロジェクトであり、南宋接収や海外派兵であった。すでにある交通・運輸網も利用しつつ、水・陸・海のすべてを使った巨大な流通機構のハードウェアを整備したのも、そのためであった。」(位置No.2540)

クビライ政権は第3次ベトナム遠征の1287年ころをさかいに、東南アジアからインド洋方面に対して、武力の行使を伴うやりかたから、平和通商を基軸とする関係樹立へ、はっきりと政策転換したといわれる。とりわけ、1292年のジャワ遠征の場合には、それがはっきりしている。ジャワ島遠征には、1万5千もの乗員を乗せた大元ウルスの艦隊が使われ、南シナ海やジャワ海に現れた史上最大の艦隊だった。ただ「遠征」とはいっても戦いを前提にせず、最初から通商活動をめざしたものだった。経済・通商を対外政策の基軸においてからは、東シナ海はもとより、南シナ海からインド洋の海域が、大元ウルス艦隊の海となった。そこからさらに西のアラビア海は、もはやイル・ハーン家のフレグ・ウルスの勢力下であった。

つまり、このときのモンゴル艦隊の派遣によって、南シナ海-ジャワ海-インド洋を結ぶ海上ルートが生まれ、大元ウルスとイル・ハーン国(フレグ・ウルス)は海上ルートでも結ばれることになった。マルコ=ポーロの帰国はこの海上ルートを利用したものだった。

平和友好路線に転換したのちは、スリランカを初めとする南海諸国24ヵ国に使節団を送り入貢を促した。東南アジアの主要港湾都市には、クビライ政権から派遣された貿易事務官が駐在するようになった。南宋時代には入貢のなかったインド西岸の港市国家からも使節が来たといわれる。

(引用)「ようするに十三世紀のすえころには、中国からイラン・アラブ方面までにいたる海域とそこを通る海上ルート全体が、モンゴル政権の影響下に入ったことになる。それは、モンゴルによって、ユーラシアの内陸世界と海洋世界が完全にジョイントしたことを意味した。・・・単一の主権のもとに、ユーラシアの東西が、切れ目なく陸上と海上の両方でむすばれたのである。モンゴルは人類史上はじめて、陸と海の巨大帝国となった。」(位置No.2504)

<大都の建設で完成した陸と海を繋ぐ通商ルート>

年代は少し遡るが、南宋の攻略に向けて準備が始まった1266年、この年に「大都」(今の北京)の建造計画が発表された。さらに南宋接収後、江南から中国大陸を縦貫する「大運河」を再び開削する工事が行われ、運河は大都近郊の通州に通じることになった。大運河の復活は唐代より数えて三百数十年ぶりのことだった。また通州には直沽(今の天津)とつながる河川を利用して海運物資が運ばれ、直沽は江南はもとより、東南アジア、インド洋、西アジア方面とリンクする海の窓口となった。

(引用)「陸と海の両方によるユーラシアの人とものの流れは、はじめから、大都にあつまるように計画された。・・・かつてのモンゴルの首都カラ・コルムが中央ユーラシアのステップ世界の都だったのにたいして、大都は陸海をつつみこんだユーラシア世界全体の中心として、創られていたのである。」

「モンゴルがにぎる海上ルートを、東からは中国のジャンク、西からはアラブのダウ船が往来した。海上でも交通・通商・政治は、ゆるやかにシステム化した。世界帝国モンゴルと連携した蒲寿庚ら大型の海洋商業資本のもとで、中国東南の沿岸諸都市は、史上空前の活況を呈した。とくに泉州は世界各地の貿易船があつまった。」

 陸路に関しては「駅伝」(ジャムチ)の制度が各地に張り巡らされ、道路整備や治安対策は中央政府の出費で大規模に行われた。マルコポーロはその『東方見聞録』のなかで、駅伝制について「国内諸地方に通じる主要道路上には、25~30マイルごとに宿駅が布置され、各宿駅に三百~四百頭のウマが準備されて使臣の自由な使用を待っている。宿泊設備となる館があって、豪奢な宿泊ができた」と記録している。モンゴルが支配するユーラシアの草原では、おいはぎや強盗にあうこともなく、公権力が整備する公道を安全かつ快適に馬車で旅することができたとされる。また14世紀、モロッコ生まれの探検家イブン・バットゥータの旅行記は、モンゴル時代のユーラシア世界が、旅行者にとっていかに自由で開放的な土地だったかを記録している。それと同時にこのころのインド洋から南シナ海に抜ける南回りの海上ルートが、いかに活発であったか、その実態をよく物語っている。

岡田英弘氏も「モンゴル帝国がアジア史に与えた影響の最大のものは、東アジアのシナと西アジアのペルシャ、地中海方面との陸路の治安を良くして、東西貿易を促進し、東西文明の交流を盛んにしたことである」(『岡田英弘著作集Ⅱ「世界史とは何か」』p171)という。ことに杭州は当時の世界で最大の都市だったが、南宋の首都であった時代よりも、モンゴル人の統治の下、さらにはるかに発展した。

<信用を基にした貨幣経済と通商ネットワーク>

その大元ウルスの経済政策と財政運営を主導したのもムスリム経済官僚たちだった。中央政府の収入の80%以上が塩の専売による利潤だった。そのほかに収入の10~15%をしめた商税の税収があった。商税は、商行為そのものに課税されるものだが、クビライ政権になってからは、商人が要所要所を通るたびに徴収される通過税が撤廃された。そのかわりに、商品の最終の売却地で「売上税」としての商税を払えばいいことになった。その税率は一律に売却価格の30分の1=3.3%と決められた。

世界最初の紙幣を発行したのもクビライ・カーンだった。1275年、世界最初の印刷紙幣「交鈔」(こうしょう)が発行された。交鈔は少額ながら、それぞれ決まった額の銅銭との交換が保証されていた。これとは別に高額紙幣の役割を果たす信用取引証もあった。「塩引(えんいん)」と呼ばれ、国家の専売となっていた塩の現物と実際に引換えできる一種の有価証券だった。塩の生産地は華中の沿海部にあったが、そこから遠く離れたユーラシアの内陸部でも、塩引は高額紙幣として取り引きされた。重い銀貨や銅貨を持ち運ぶよりはるかに便利だったので、遠隔地でも広く流通したという。国家の信用保証がなければ、紙クズも同然だが、交鈔も塩引もモンゴルが国家権力としてそれだけ信用されていた証拠でもあった。

モンゴル帝国の成立前、ジュシェン人が建てた金朝はその政権末期に、銅の不足で銅貨の鋳造ができず、また軍事費の不足を補うため、通貨の補助手段として約束手形を大量に発行したことがあった。しかし、ほろびゆく政権の約束手形など誰も信用せず、文字どおりの紙切れとなった。また明朝の創始者の洪武帝もモンゴルをまねて紙幣を発行したが、たちまち失敗する。銅銭との交換を保証する担保もなければ、明朝の信用も元朝には遠く及ばなかった。明の紙幣はまったく流通せず、かえって経済の沈滞をもたらしただけだった。

国家による塩の専売と塩引という高額紙幣による信用取引、それによる遠距離交易と経済社会の活性化の促進、これらすべてが組み合わさって成功したクビライの新国家は、まさに通商帝国と呼ぶにふさわしかった。

「これが信用取引の慣行を促進する結果となり、信用を基盤とする資本主義経済の萌芽を生み出した。このことも来るべきモンゴル帝国での商業の繁栄の原因となり、ひいては世界の経済の変化を決定することになった」(岡田英弘「世界史の誕生」p241)

杉山氏も「世界史上でも、大元ウルスに匹敵する紙幣政策を展開できるようになるのは19世紀以後のことである。大元ウルスの紙幣政策がもつ先見性、組織力、運営力、そして規模の壮大さについて、どれだけその意義を強調しても、強調しすぎではないだろう」と評価する。

<モンゴル人にとってチンギス・ハーンは「万世一系」の民族の象徴>

クビライ・カーンをはじめ、モンゴル帝国が残した遺産は明らかだった。モンゴル帝国の拡大とともに、ユーラシア大陸各地には、国家や領土、国民というまとまりが作られ、現在の民族国家につながった。主としてイスラム商人が担った通商・貿易ネットワークがユーラシア大陸とインド太平洋に張り巡らされ、人やモノ、情報や文化の流通につながった。東南アジアにおいては、各地の王朝の興亡や交代につながり、民族的なまとまりは、よりはっきりと形成されることになり、タイやベトナムの固有の文字が作られる契機となった。まさにモンゴルという当時のグローバル文明の衝撃をまともに受けて、それに対していかに応戦・応答するか、それぞれの民族が試された時代だった。

ところで、南モンゴル出身の文化人類学者楊海英さんはこんなことを言っている。

「チンギス・ハーンはたんなる「英雄」ではない。モンゴル人にとってチンギス・ハーンは民族の偉大な開祖であり、民族そのものの象徴である。モンゴルにはチンギス・ハーンの一族は天から降臨したという神話があり、まさに「万世一系」である。日本人なら世界の誰よりも万世一系の意味とその神聖性の重さが分かっているはずだ。モンゴル人にとってチンギス・ハーンは民族そのものの象徴だけでなく、風土、精神、文化と歴史そのもののシンボルである。」(月刊「VOICE」2018年5月号)

楊海英さんの指摘は、直接的には今年2月、小学館のコミック誌に掲載された漫画で、チンギス・ハーンの肖像を下品な形で汚す場面が描かれたことに対し、モンゴル政府や在日モンゴル人たちが抗議し、小学館が謝罪したことについてのコメントだが、モンゴルの人たちの民族的な気品と誇りをよく示している。モンゴルの人々が、チンギス・ハーンとその血統、フビライ・ハーン(クビライ・カーン)を含めてその直系のハーンに対してどれほどの尊崇の念を持っているか、そしてモンゴル帝国が残した歴史を誇りに思う気持ちに一点の曇りもないことを、楊海英さんの言葉は雄弁に語っている。

<地球規模の異常気象と重なったモンゴル帝国>

モンゴル帝国がチャイナを支配し、元王朝(「大元ウルス」)として輝きを見せたのは、クビライが第5代ハーンを襲名した1260年から元の朝廷の内紛が始まる1330年代までのせいぜい70年程度に過ぎない。後世の世界に大きな足跡を残したモンゴル帝国だが、ユーラシア大陸に分散した各方面のウルスが短い期間でフェィドアウトしていった原因には、1310年代から20年代ころよりはじまった異様なほど長期で巨大な地球規模の天変地異であったといわれる。14世紀特有の異常な気象現象があり、各地で疫病や飢饉が発生したことが背景にあるといわれ、その因果関係の解明が待たれる。

時代は少し遡るが、1257年インドネシア・ロンボク島にあるサマラス山(samalasが大噴火し、標高4200メートルの山が大陥没したことがあった。この超巨大噴火による噴出物は体積にして40立方キロメートルにのぼり、地上4万3000メートルにまで達したのち、世界中に降下物となって舞い降りたと考えられる。 過去3700年間で最大規模の噴火だと考えられている。(「13世紀の超巨大噴火、火山を特定」 http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8402/)

中世ヨーロッパの記録文書によると、噴火の翌年と考えられる1258年の夏は、異常に気温が低く、「夏のない年」と呼ばれた。農産物が不作で、絶え間ない降雨による洪水で大きな被害がもたらされたという。日本では正嘉の大飢饉の年であり、日蓮がその3年後「立正安国論」で「天変地夭・飢饉疫厲、遍く天下に満ち広く地上にはびこる」と描写したような状況が続いた。またロンドンでは近年、1万5000体あまりの人骨が一か所から発掘されたが、年代測定でこの年に黒死病で亡くなった人々の集団埋葬地であることが分かった。

ヨーロッパでは1348年にペストが大流行し、わずか3年間で人口の三分の一が失われた。このペストについて、モンゴル帝国によってユーラシアを横断する貿易が盛んになり、その交易品の中にペスト菌を運ぶネズミがいたはずで、シルクロードは疫病の通り道でもあったという説がある。おなじころ、中国でも黄河が大氾濫し、悪疫が華北・華中を襲った。モンゴル帝国成立前の1200年には1億3千万人だった中国大陸の人口は、明の洪武26年(1393年)には6千万人と半分以下になってしまった。ヨーロッパでは、健康な人間が伝染病で次々と倒れていく様を見た人びとは、今まで信じていた神に懐疑的となり、これが宗教改革のきっかけとなったとされる。

モンゴル帝国の成立で「世界史」が始まった13世紀から14世紀にかけては、地震、火山噴火、洪水、地球規模の異常気象など、長期にわたる天変地異と重なった時代でもあった。地球規模の異常気象が世界の人々の命と暮らしに影響を与え、それが同時に各地で記録に刻まれる時代でもあった。「モンゴルを中心とするユーラシア世界の輝きは、ひかり始めたとたんに、およそ70年ほどにわたる長期の「大天災」で、うしなわれた」(No.3238)のである。

それにしても人知の及ばない地球規模の異常気象があったとしても、クビライとそのブレインたちが英知と英断でつくりあげた国家と経済のシステムは、どうしてこうまで、もろくも崩れ去ってしまったのだろうか。その答えを杉山氏は次のように結論する。

「それはひとことでいえば、早すぎたのである。構想やねらいは、すばらしかった。・・・それらの構想のほとんどは、時代をはるかに先どりしていた。・・構想を実現させるには、それをささえる技術力、技術水準が低すぎた。クビライとそのブレインたちには、トラックもパワーショベルも、列車も動力船もなかった。通信・連絡の手段も、しょせん駅伝の特急便か伝書鳩しかなかった。東西1万キロをこえる超広域の大版図をまとめるには、あまりにも人類は技術上、産業上、プリミティブな段階にいた。」(No.3263)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

0コメント

  • 1000 / 1000