脱中華の東南アジア史⑨モンゴル編

<モンゴルの統治と明代・永楽帝との比較>

本稿の「『脱中華』の東南アジア史」というテーマに沿って、さらに論を進めたい。

13世紀、クビライの遠征は、東南アジアを揺るがす文明の衝撃だった。そして、その次にやってきた衝撃は、15世紀、明の永楽帝による「砲艦外交」、すなわち明への朝貢を促すために武力にものを言わせて屈服させた「鄭和の大航海」だった。

永楽帝は、「天下一家」あるいは「華夷一家」という考え方に従い、明中心の国際秩序(華夷秩序)を作り上げようとし、「朝貢冊封体制」という対外政策を華々しく展開した。「華夷一家」とは、すべての夷は中華の臣下になるべきだという中華思想の考え方で、その手始めに永楽帝は即位と同時に周辺諸国に使者を遣わし、積極的に朝貢をうながした。永楽帝は、1405年宦官の鄭和に命じて、戦艦60余隻(小船を加えると200隻あまり)の大艦隊を編成し、兵士2万7000余名を乗せて南海遠征に向かわせた。鄭和の大航海は、前後5回(ないしは7回)に及び、その航路は東南アジアからインド洋、アラビア海、遠くはアフリカ東海岸にまで及んだ。その結果、東南アジアをはじめ南アジアや中央アジアの60あまりの国が来朝し、明の冊封を受けて君臣関係が結ばれた。朝貢国の数でいえば、父・朱元璋はおろか、クビライをも凌いだといっていい。なかでも永楽帝を喜ばせたのは「日本国王の源道義(足利義満)」の使者が来朝してきたことだった。クビライの時代、蒙古・高麗の軍が二度まで敗戦を喫したあの日本が、自ら進んで永楽帝の即位を慶賀して朝貢してきたのである。・・・永楽帝が感激しないはずはない。(壇上寛『天下と天朝の中国史』p214)

朝貢使節だけでなく、渤泥(ブルネイ)・満刺加(マラッカ)・蘇魯(スールー王国、15世紀フィリピンからボルネオあたりを支配したイスラム国家)からは国王自らが来朝し、一族郎党・文武百官を率いて臣下の礼をつくして永楽帝に謁見した。永楽21年(1423)には、16か国、総勢1200人の使節が鄭和の艦隊に分乗して入貢し、紫禁城で永楽帝に拝謁した。朝貢制度と冊封制度が完全に制度化されたのは明代になってからで、永楽帝は、天下の果てまで天子の威光を轟かせようとし、朝貢体制が史上初めて名実ともに完成した時代だったといわれる。「永楽の盛時は間違いなく、永楽帝の強烈な個性と、クビライ越えをめざす彼の天下構想の産物でもあった。」(壇上寛「天下と天朝の中国史」p217)といわれる。

多くの国を朝貢体制に取り込む一方で、永楽帝は明の領土拡張にも旺盛な意欲を見せた。自ら50万の兵を率いてモンゴル征討を試みたほか、80万ともいわれる明軍を安南(ベトナム)に派遣して攻略。安南の地名を「交趾」と改め、国内と同じ行政制度をしいて完全に内地化した。ベトナムはかつてクビライが攻略に失敗した地であり、日本の朝貢と同様、永楽帝の自尊心を大いに満足させたに違いない。

永楽帝の「朝貢冊封制度」では、「華夷秩序」の考え方に基づき、周辺異民族の「蛮王」との関係を、父と子の関係、あるいは祖父と孫の関係にたとえて、それによって異民族国家の格付けをした。例えば、日本や朝鮮とは父と子の関係、琉球や安南(ベトナム)とはそれより一段下の祖父と孫の関係と位置づけられた。朝貢に際しては、そうした格付けに応じて処遇された。「天下を以って一家となす」とは、君臣としての主従関係を結ぶことであり、決して対等な関係ではなく、明王朝を頂点にした「天下」支配、国際秩序の確立を目指したものだった。

一方、朝貢する側は、たぶんに貿易という実利を求めての関係作りを目指したものだった。名目上は「君臣関係」や「華夷一家」の関係を結んだとしても、朝貢国の側には永楽帝の支配に屈服したつもりなど鼻からなかったに違いない。その証拠に、朝貢国はその格付けに従い、「三年一貢」とか「二年一貢」などと朝貢する回数に制限が設けられていたが、さまざまな名目・理由をつけては年に何度も朝貢船を派遣した。明朝が「海禁」政策をとるなかで、朝貢は実質的な貿易を行う唯一の手段だったからだ。足利幕府が明に朝貢したのも「勘合貿易」のための勘合札が欲しかったからだ。

永楽帝の「天下」といっても、所詮は万里の長城から南、安南・交趾と呼ばれた北ベトナムまでが統治範囲で、チベットやモンゴルは含まれない。一方で、クビライのモンゴル帝国は、ユーラシア全土を支配し、まさに帝国と呼ぶにふさわしい大版図を誇った。

 中華思想からくる「天下」観、あるいは「大一統」の考え方(「天命」を受けて唯一の正統(一統)を継承し、「天子」(皇帝)を頂点とする中華帝国を構築・維持すること)を実践するのが永楽帝の対外政策だったとすると、クビライ・カーンのそれは、通商政策にしても財政・通貨制度にしても、自らがつくりだした制度・システムのもとに統合するのが目的で、どこが中心だという発想はもともと見られなかった。

「モンゴル帝国の支配階級であるモンゴル人は、軍事権と財政権を掌握するだけで、行政の実務はそれぞれの地方の有力者の自治に任されていた。これは匈奴以来の中央ユーラシアの遊牧帝国の伝統であった」(岡田英弘著作集Ⅱp30)といわれる。そうした伝統と統治形態があったからこそ、道教やチベット仏教、ロシア東方教会、さらにはムスリムまで、さまざまな思想・信条を持つ人たちにもモンゴルの制度を納得させ、異なる地域・風土の人々をまとめて糾合させることができたのだろう。

杉山正明氏は『クビライの挑戦』のなかで次のように叙述する。

(引用)「クビライ政権は、当時の世界で経済力と産業力をもつ中国本土をとりこんで、地域と「文明圏」の枠をこえて大型の通商を奨励する自由経済政策をとった。誰がどこで商売をやってもいい。人種も民族も関係ない。わずか3.3%の商税・関税を支払えば、すべてフリー・パスであった。」

「名も知れない数多くの商人・宗教者・政治家・外交官・技術者・芸術家・運送業者などが、かつてない規模で移動した。それも強制された結果ではなく、ほとんどはみずからの意志と選択で、そうすることができた。ひとりの人間が、その生涯うちに動くことのできる距離と見聞の幅が大きく広がった。」(No.3176)

「たとえば、モンゴル領域では、その地域・政権のいかんをとわず、さまざまな人種・言語・文化・宗教が、ほとんど国家からの制約をうけないかたちで、併存・共生する状況となった。「ノン・イデオロギーの強制」といってもいい。現在のわれわれからすると、すこし不思議におもえるくらい地域紛争・民族対立・宗教戦争がすくない」(No.3189)――そんな時代だった。国家も国境も、民族も人種も、いわばすべてがボーダーレスとなった時代。人類が、理想郷にいちばん近づいた時代だったかもしれない。

<現代にも通じる明代の異様な独裁専制体制>

一方で、明の時代は、中華の歴史になかでももっとも暗く沈んだ時代だったと言われ、現代中国に通じる基礎が築かれた時代だという指摘もある。

「明朝では皇帝への権力集中が進んだほか、清にまで引き継がれる刑罰制度の整備、特務機関による恐怖政治や思想統制といった、中華民国期の国民党政権を経て今日の中国共産党支配と通じる要素が明の時代に形成された」(山本秀也『習近平と永楽帝』新潮新書p15)

京都女子大学名誉教授・檀上寛氏の名著『天下と天朝の中国史』(岩波新書)によると、シナ伝統の天下観は、現代中国でも「天下体系」(天下システム)という言葉に置き換わり、「一帯一路」構想や「新型の大国関係」など、新たな世界秩序をつくる重要な考え方として引き続き命脈を保っているという。

モンゴル高原にその当時もあった「大元国」の牧民軍団の侵攻におびえた明朝は、巨大・堅牢な万里の長城を建設を行った。

「そもそも、国土をそっくり壁で囲いこんでしまおうという発想そのものが、誰が考えても尋常ではない。現在のこるあまりにも莫迦げたほど強大な万里の長城は、明朝後半の権力者たちが、いかに「内向き」でひとりよがりであったか。そして明朝の皇帝権力というものが、いかに人類史上でもめずらしいほどの独裁専制の極致であったか、われわれに無言のうちに語りかけてくれる」。(杉山『クビライの挑戦』No.3321)

杉山氏は、モンゴルの治下の中国大陸では、死刑の執行がきわめてすくなかったという。たとえば、「文化国家」と謳われた宋代より、ずっと死刑がすくなかった。「ましてとくに洪武時代、中央政府官員とその血族をなんと5度にわたって数千人単位、もしくは万単位で殺害するという歴史上でもそう類例をみない蛮行を平然とおこなった殺伐とした明代とは、比較にならない。」(同上No.3200)

明の時代、「陵遅刑」(生きながら切り刻む)や「斬腰」(生きながら胴を輪切りにする)など、普通の人間には想像も及ばない残虐な方法で殺害する刑罰が作られた。

大粛正の嵐が吹き荒れる中で、宦官を重用した特務機関の暗躍も明の時代の特徴だった。「宦官のわざわいは、世界史上、明代中国がとびぬけてすざまじい。それは明朝皇帝が異様な独裁権力者であったことの必然の結果である。その点、「モンゴル共同体」の代表の性格を濃密にもちつづけたモンゴル大カアンの権力など、皇帝個人の恣意でふるえる範囲は、きわめて限定されたものにすぎない。」(No.3318)

要するに、大元ウルス(元朝)の時代と明代を比較すると、元朝あるいはクビライ・カーンの時代は、自由で開かれた市場経済社会、統一された法と制度(システム)によって守られた近代社会といったイメージと重なるのに対し、明代、とりわけ永楽帝の時代になると、権威主義的で独裁的な全体主義国家、抑圧的な人民監視社会、見せしめ的な恐怖政治、画一的な思想統制、独りよがりで立ち後れた閉鎖社会などなど、マイナスイメージばかりがつきまとう。そして、その多くが今の習近平独裁体制下の中国にも底流で受け継がれているように見えて仕方ないのだ。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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