ベトナム戦で民間人虐殺でも「英雄」視、参戦兵士の地位を高めたい韓国

韓国は日本と違い人権国家の道を進む?

ベトナム戦争中の1968年、参戦した韓国軍部隊がベトナム中部のフォンニィ・フォンニャット村で住民74人を殺害する虐殺事件があり、この事件の生存者で当時7歳だったベトナム人女性が、2020年、韓国政府を相手取って訴えていた損害賠償請求訴訟で、ソウル中央地裁は2月7日、原告勝訴の判決を出した。(前回ブログもご参照ください)

慰安婦問題で日本政府の謝罪や法的責任を追及している「正義連」(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)の李娜榮(イ・ナヨン)理事長は、判決の翌日2月8日の水曜集会で、「裁判所は証言と証拠をもとに原告の主張の大部分を事実と認定し、戦争犯罪の責任を明確にして被害者の権利救済と名誉回復の道を開いた。大韓民国人権史の里程標となる今回の判決を契機に、ベトナム戦争当時の民間人虐殺の真相が徹底的に究明され、政府レベルの責任認定と公式謝罪、法的賠償が行われるよう望む」とし、「韓国は、戦争犯罪を否認する日本の轍を踏まないで、人権国家として歩む機会を得た」と手ばなしの賛辞を贈った。(「正義連」第1582回定期水曜デモ週間報告

ところが韓国国防省の李鐘燮(イ・ジョンソプ)長官は2月17日、国会での答弁で「ベトナム派兵韓国軍による民間人虐殺は全くなかった」と事件を真っ向から否定、政府の賠償責任を認めた司法判断に同意しないとして控訴する方針を示した。その際、李長官が「ベトナムに派兵された将兵の名誉を重く考えている」と述べた。

それにしても、これにより正義連の李理事長が高らかに宣言した「韓国人権国家への道」は早くも前途が見えなくなった。

民間人虐殺は韓国軍による「三光作戦」

ベトナム戦争での韓国軍による民間人虐殺事件とは何だったのか、改めて整理してみる。

ベトナム戦争では、農村やジャングルに紛れた南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し殲滅するSearch & Destroy =「索敵殺害」という作戦が行われた。米軍が空からナパーム弾を投下し森を焼き払う一方、地上では韓国軍が農村をしらみつぶしに捜索し、ベトコンの武器を押収する掃討作戦だった。

この過程で、韓国軍に示されたのが「きれいに殺して、きれいに燃やし、きれいに破壊する」というスローガンだったと言われる(村山康文『韓国軍はベトナムで何をしたか』小学館新書2022)。

この言葉で想起されるのは、日本軍が中国で行ったとされる「殺しつくす(殺光)、焼きつくす(焼光)、奪いつくす(搶光)」という三光作戦だ。しかし、日本語では「光」の字に「~し尽くす」という意味はなく、日本軍がそうした言葉を使って作戦を実行したこともない。つまり、完全に中国が作った言葉であり、韓国も同じような発想を持っていたことが分かる。

一方で、初代駐越韓国軍司令官の蔡命新(チェ・ミョンシン)は「100人のベトコンを逃しても、ひとりの民間人を保護せよ」と命令していたとし、韓国軍が駐留していた地域には、そのスローガンがハングルとベトナム語で書かれた看板があちこちにあったともいわれる。

この言葉も戦後の台湾で、いわれなき罪で獄につながれた多くの人々が、拷問の末に処刑された「白色テロ」と言われる弾圧の時代に、蒋介石か誰かが言ったとされる「100人間違って殺しても1人を逃すな」という言葉をどこか真似したような感じがする。

当時から街の噂になっていた韓国軍の蛮行

韓国のベトナムへの派兵は、1964年9月、医療班など非戦闘部隊の派遣から始まり、その後、戦況が悪化するにつれ戦闘部隊を次々に投入し、韓国軍が撤退する1973年3月までに、その総数は述べ32万5500人に上り、アメリカに次ぐ大量派兵となった。

ベトナム戦争中の民間人虐殺事件としては、米軍によるソンミ村虐殺事件が知られる。米軍には従軍記者や従軍カメラマンがいて、戦場写真など多くの記録が残した。しかし、韓国軍には従軍記者もカメラマンもおらず、当時の戦場での記録はほとんど残っていない。

従軍カメラマンとしてベトナム戦争を取材した石川文洋氏は、当時、サイゴン(現ホーチミン市)に住んでいても「韓国軍が大勢の農民を殺害しているという噂が市内に広がっていた」という(村山前掲書所収の推薦文より)。

また共同通信サイゴン特派員だった亀山旭氏はその著書で「サイゴンでは韓国軍の戦いぶりがベトナム人の間で評判になっていた。韓国軍は解放戦線支配下の村落を攻撃するとき、住民も一緒に殺すとか、娘たちはみんな暴行されたとか、無実な住民が多数殺されたという話がなかば公然とささやかれていた」(亀山旭『ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京』岩波新書1972年)と記している。

民間人虐殺は80件、9000人を殺害

南ベトナム解放戦線(ベトコン)の正規軍やゲリラ部隊は多くが農村出身でその農村を戦場として戦った。一方、韓国軍はこうした農村でベトコンの武器を押収するため農村地帯をくまなく捜索し、ベトコンと住民を区別することなく、村ごとに女、子どもを含めて住民を集めて一斉射撃で銃殺し、一家一族を集めて閉じ込めた家の中に手榴弾を投げ込んだりして殺害した。

韓国軍によるベトナム戦争での民間人虐殺問題は、韓国では1999年、「ハンギョレ新聞」による一連の調査報道で具体的な事実が初めて明らかにされた。

そのハンギョレ新聞の調べでは、1966年10月から1968年2月にかけてベトナム中部のクアンナム省やクアンガイ省など5つの省12の県で起きた韓国軍による虐殺事件の現場は80件あまりを数え、犠牲者は合わせて9000人に上るという

 (ハンギョレ新聞2016年10月25日「『ベトナム虐殺』大韓民国は被告席に座るか」より)

こうした報道に反発した在郷軍人会の元兵士らがハンギョレ新聞本社を襲撃し、焼き討ちする事件も起きている。彼らは「朴正熙が暗殺され民主化運動が進むと軍政批判の勢力が、朴正熙政権の下でベトナム戦争にかり出された元韓国軍兵士を悪者扱いし始めた」と考えている。「全斗煥時代には自分に批判的な記者を辞職に追いやり、そうした記者たちが集まってハンギョレなど反政府的な新聞を作った。彼らは銃をペンに変えて、参戦軍人を陥れようとしている」というのだ(村山前掲書)。

        (2000年6月、ベトナム参戦兵士によって襲撃されたハンギョレ新聞本社)

韓国軍のベトナム派兵は、朝鮮戦争からの復興資金を得るため、派兵の見返りに外貨を獲得し、経済成長を推進するという目的があった。韓国ではベトナム参戦兵士は、韓国を貧困から脱出させてくれた「英雄」として扱われているため、虐殺事件に触れることはいまだにタブー視されている。

ベトナム特需 現代、大宇などの財閥もベトナムに進出し、その後の発展の基礎を築いた。1965年から72年までのいわゆる「ベトナム特需」の総額は10億2200万米ドルに上るという試算もある(朴根好・静岡大学教授『韓国の経済発展とベトナム戦争』御茶ノ水書房1993)。

国家報勲処を省に格上げし参戦兵士を優遇

そうした中、韓国の国会では、独立運動家の子孫や退役軍人の処遇政策を担当する「国家報勲処」を「省(部)」に格上げする政府組織改正案が与野党で合意された。国家報勲処とは、現在は国務総理室の下にある国家行政組織で、愛国心の高揚のための活動が主な役割だとされる。

在郷軍人会など退役軍人の組織は保守政権を支える牙城でもあるが、省(部)への昇格は、彼らの声により積極的に応え、手厚く処遇していこうという姿勢を示したことになる。

国民の間の愛国心を高め、国家の統合を保つためには、ベトナム参戦兵士は『英雄』として、これからも称え続けなければならず、そのためにもベトナムでの民間人虐殺は認める訳にはいかないのである。

正義連の人たちが言うように、「日本の轍を踏まず」、道徳的高みに立とうとする「韓国人権国家」の実現は、はるかに遠い道のりだと言わざるを得ない。

                                 (2022年8月、在郷軍人会によるKBS前での抗議集会)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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