<東南アジアの大航海は先史時代から>
15世紀から17世紀にかけて、羅針盤の改良と航海技術の発達によって、いわゆる「大航海時代」が始まる。「大航海時代」という言葉は、もともとは日本のラテンアメリカ史を専門とする歴史学者、増田義郎によって最初に使われた学術用語だった。しかし英語圏の人たちにAge of Great Voyages あるいはGreat navigation timesと言っても、なかなか理解されない。彼らには、この時代はAge of Discovery(発見の時代)や Age of Exploration(探検の時代)と呼ぶのが今も一般的だという。しかし、彼らが新たに「発見」したとされる島や土地には、ずっと昔からそこに暮らす人々がいたし、彼らが「大航海」したという海も、アジアや南太平洋の人々にとっては太古の昔から自由に行き来し、生活のために利用してきた海だった。つまり発見、探検といっても、それはあくまで地中海やバルト海しか知らないヨーロッパ人の視点にたった見方に過ぎず、インド太平洋に暮らす人々にはあずかり知らぬことでもあった。
「大航海」といえば、インド太平洋では、すでに先史時代から普通に行われてきたことだった。それは、海に隔てられたこの地域の島々の、そこで話されてきた言葉の系統や分布からも分かる。アメリカの言語学者ロバート・ブラストによると、台湾、ハワイ、イースター島、ニュージーランド、マレーシア、そしてマダカスカルという遠く離れた地域で話されている1000を超す言語の間には共通点があり、それらのルーツをたどっていくと、およそ5500年前に台湾で話されていた単一の言語に行き着くという。彼はそれを「オーストロネシア祖語」(Austronesian )と呼び、この言葉がその後、いかに多種多様に枝分かれし伝搬していったかを実証した。これが意味することは、地球を半周するほどの距離、何千キロも離れた島の人々が文化的ルーツを同じくし、人々が移動し、新たな地域へ入植し、農耕などの技術を拡散したという事実だ。(ビル・ヘイトン『南シナ海~アジアの派遣をめぐる闘争史』p22)
さらに、インド太平洋の真ん中に位置する東南アジアでは、有史以前から「海の民」と呼ばれる人たちがいて、海上や沿岸部で生活し、漁労や交易で生計をたてていた。この「海の民」を、アメリカの考古学者ウィルヘルム・ソルハイム(Wilhelm Solheim)は、オーストロネシア語の「南の島」の「人々」を意味する言葉で、「ヌサンタオ」(Nusantao)と名づけた。ソルハイムによるとヌサンタオの人々は、帆と櫂の力で広大な海を縦横に行き交い、海上交易と情報のやりとりをするネットワークを生み出した。ヌサンタオの人々はベトナムやマレーシアの沿岸や、インドネシアの島伝いに移動し、西ははるかマダカスカルまで、東はイースター島、南はオーストラリア、北は日本までそのネットワークを広げていた。紀元前400年ごろ、インド製のガラスのビーズが中国に運ばれているが、それを運んだ人々は中国の文献に「馬来人」と名を残している。つまりマレー人のことだ。このほか扶南やチャンパの人たちも航海技術に優れ、古代から海を縦横に行き来していたという記録が残されている。
(バリ島の浜辺でみた丸木舟・刳り船)
さらに、ヨーロッパ人による大航海時代が始まる前の13世紀には、モンゴル軍の大艦隊が遠洋航海を何度も繰り返し、中東アラビア半島と東アジアの間には通商交易ルート「海のシルクロード」が出来上がっていた。この航路を使って中東からはダウ船が、また中国大陸からはジャンク船が各地の港を経由して行き交っていた。貿易船が東南アジアの海を往来したことから、これらの船を襲って積み荷を奪う海賊行為が横行し、東シナ海からインド洋を股にかけて活動する明人の「後期倭寇」が海上勢力として勃興した。1543年、ポルトガル人が種子島に漂着して火縄銃を日本に伝えた。そのときポルトガル人が乗っていた船は、当時、海賊の頭目としても知られた明代の貿易商人(海商)王直が乗ったジャンク船だった。1550年、ポルトガル船を手引きして平戸に入港させたのも王直だった。
つまり、大航海時代にポルトガルやスペインの船がやってくる前から、アジアの海は、ペルシャのダウ船や中国のジャンク船が忙しく行き来し、海賊たちが跋扈する騒がしい海だったのである。
<新思想をもたらした媒体としての海>
海は、ヒトやモノが移動するだけでなく、それに伴って文化や情報も伝わる重要な媒体でもあった。
(引用)「『海のシルクロード』の周辺地域は、交易の対象となる重要な物産の生産地でもあった。さらにこのルートを通じた貿易活動は、いつも先進文化を伝搬してくるものだった。このルート上で、重要な港を押さえた各地の有力者は、強力な政治権力の樹立をめざし、王国の興隆を繰り返してきた。交易ルートを通じて流入してきたさまざまな新思想(宗教)が、その権力を支え、社会を組み立てる原理として受容され、さらにまた権力が革新される際、あるいは王国の交代期にあっては、新たな統治の正統化のための思想として機能し、やがて『東南アジア化』し、内在化していった。」(根本敬ほか「東南アジアの歴史」p63)
その典型が、現在のインドネシア東部・ジャワ島に本拠地を置き、13世紀末から15世紀にかけて、インドネシアからマレーシア半島までを勢力下に置いたマジャパイト王国だった。マジャパイト王国は、現在もジャワ島に残る独自のジャワ・ヒンドゥー文化を完成させた王国として知られる。ジャワ・ヒンドゥー文化は「東南アジアがインド文化を積極的に取り入れ、それらを東南アジアの生活空間に適応させ、取捨選択し、変容を繰り返しながら、独自の文化を発展させることに成功した証」(同書p64)だとされる。
しかし、そのマジャパイト王国も、この地域にイスラム教が浸透する15世紀中頃には没落し、それに代わって勢力を拡大したのはイスラムに改宗したマラッカ王国であり、同じくスマトラ北部にあったサムドラ・パサイ王国など、ジャワ島・スマトラ島の沿岸各地に成立したイスラム港市国家だった。こうした地域にイスラムを原理とする国家が数多く成立した背景には、仏教やヒンドゥー教などインド文化の空白地帯にイスラムが浸透した結果だといわれるほか、「新興政治勢力が旧勢力に対抗するときの新たな原理」として使われたのがイスラムだった、ともいわれる。ヨーロッパ人による「大航海時代」が始まる前には、東南アジアの海では、すでにイスラム文化のネットワークが機能していたのである。
(バリ島のジャワ・ヒンドゥー寺院)
そして大航海時代にヨーロッパ人がアジアに持ち込んだ新しい思想こそがキリスト教だった。キリスト教はヨーロッパがその支配地を拡大し、新たな領土を獲得するための思想的バックボーンを提供し、領土拡大の先駆けを担ったのがカトリックの宣教師たちだった。彼らが進めたキリスト教の布教は軍事力を背景とし、支配地獲得のやり方もキリスト教各会派による縄場争いや主導権争いに終始した。
<世界を二分したデマルカシオン=領土分割体制>
ヨーロッパ人による「大航海時代」は、ポルトガルとスペインによる世界を2分した領土獲得競争として始まった。15世紀の末期、航海技術の発展と探検家を資金面で支援する国王の存在に後押しされ、ポルトガルとスペインの船は地中海から大西洋に進出し、新しい航海ルートを開拓した。1488年にはバーソロミュー=ディアス率いるポルトガルの船がアフリカ最南端の喜望峰に達し、1492年にはスペイン国王の支援を受けたイタリア人のコロンブスの船がバハマ諸島に到達した。ポルトガルとスペインの探検隊による先陣争いは、行く先々で衝突を起こした。そのためローマ教皇の仲裁を仰ぎ、両者の境界線を確定しなければならない事案がしばしば発生した。そうしたなかポルトガル国王とスペイン国王が交渉し、西経46度37分の子午線で東西を2分し、東側はポルトガル、西側はスペインが支配するというトルデシリャス条約を1494年に締結した。「世界領土分割計画」ともいうべきデマルカシオン(demarcación=境界線)体制が、ローマ教皇の承認を得て成立したことになる。
これ以後、ポルトガルは喜望峰経由でインド洋に入る東回り航路を開拓し、スペインはマゼラン海峡経由で太平洋を横断する西回り航路を切り開いた。その結果、ポルトガルとスペインは再び東南アジアの島で遭遇し対峙することになる。インドネシア東部の香辛料の一大産地、その名もスパイス諸島(Spice Islands)として知られるモルッカ諸島の占有権をめぐって両国は対立した。そして再び双方の国王が話し合って境界を画定したのが1529年のサラゴサ条約だった。東経144度30分の子午線を境に、東がスペイン、西がポルトガルの支配地域と定めた。これによって世界はポルトガルとスペインによって完全に2分されたことになった。ただし、子午線の東側にあるモルッカ諸島はポルトガルの先取・占有権が認められ、その代わりに子午線の西側にあるフィリピンはスペイン領ということになった。
ポルトガルとスペインによるデマルカシオン(世界領土分割)体制を担ったのは、両国に所属するイエズス会やフランシスコ会などの宣教師たちも同じだった。イエズス会は、16世紀初めルターやカルヴァンによる宗教改革でプロテスタントが勢いを増すなか、カトリックの失地を回復するために、ヨーロッパ以外の地域へ進出し、神の福音を伝えることを使命として、1540年、ローマ教皇の認可をうけて創立された。宣教師たちは、貿易商人や植民者、軍隊などとともに海外に赴いて布教活動を行った。中南米では、現地住民を殺害し、インカ文明を滅ぼしたスペインの侵略の一端を、彼らも担っていた。
そのイエズス会はアジアでは、ポルトガルが武力で占領したインドのゴアに「インド管区長」を置いて、インドから東南アジア、中国大陸までアジア全域の布教を管轄していた。またポルトガルが攻撃してイスラム勢力を追い出したマレー半島の港町マラッカや、中国南部のマカオなどにも拠点を置き、中国大陸や日本進出への足がかりとした。一方、スペインに属するフランシスコ会やドミニコ会は、スペインが植民地として支配していたフィリピンのマニラに大司教を置き、おなじく日本や中国への進出を狙っていた。
<軍事進出と一体だった布教活動>
彼らのアジア進出も、中南米進出と同様に、ポルトガルやスペインの軍事的な進出と一体であることに変わりはなかった。むしろ、明国や日本への布教にあたっては宣教師自身が布教のためには軍事力の行使が必要だと訴え、軍事進出を盛んに促していた。宣教師らがスペイン国王やフィリピン総督に送った書簡のなかには、明国征服や日本征服を訴える手紙が多数現存している。
以下に述べる内容は、平川新(ひらかわあらた・宮城学院女子大学学長)による『戦国日本と大航海時代~秀吉・家康・正宗の外交戦略』(中公新書2018年4月)の論考を参考にしている。平川氏は、宣教師たちが書き送った書簡の中から、彼らが訴えた明国征服論や日本征服論のいくつかを以下のように紹介している。(なお宣教師の書簡の翻訳は、高橋弘一郎著『キリシタン時代の研究』(岩波書店1977年)など先行の研究や出版に拠っている。)
例えば、マニラ司教のドミンゴ・デ・サラサールは1583年、スペイン国王に対して明国が布教を妨害していることは武装攻撃を正当化できるとして、わずかな鉄砲隊で何百万人もの野蛮人を殺すことができるので、できるだけ迅速に軍勢を派遣するようにと要請している。1584年にイエズス会のアロンソ・サンチェスがマカオからイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに宛てた書簡では、明人を改宗させることは不可能なので、メキシコやペルーと同じように征服すべきだと書き送っていた。
一方、日本については、戦国時代の戦(いくさ)の状況をつぶさに観察した宣教師たちは、日本の国民は非常に勇敢で、絶えず軍事訓練を積んでいるため、征服は困難だとする一方、日本の大名や武士をキリスト教徒に改宗させれば、将来、明を武力征服する際の兵隊として日本の武士を使えると考えていた。例えばイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョが1585年、フィリピン布教長のアントニオ・セデーニュに宛てた書簡で、「日本に早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船を派遣してほしい、キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためだ。これで諸侯たちの改宗が進むだろう。・・・日本66か国すべてが改宗すれば、スペイン国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服できるだろう」と述べている。ほかの宣教師たちもスペイン国王に宛てた書簡で「明国を征服するために、日本に駐在するパードレ(神父)たちは容易に2000~3000人の日本人キリスト教徒を送ることができる」とか、「キリスト教徒の王(大名)は現在は4人に過ぎないが、10万以上の兵を明に送ることができ、彼らがわが軍を指揮すれば明国を占領することは容易だ」などと、明国を征服するための日本での兵力動員計画を盛んに訴えている。(「戦国日本と大航海時代」p34、p38)
<秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか?>
ところで、平川新氏の著書『戦国日本と大航海時代~秀吉・家康・正宗の外交戦略』は、戦国時代から江戸初期にかけての日本が、大航海時代のヨーロッパ勢力の進出にいかに向き合い、彼らが進めた「世界征服事業」に対抗するため、外交戦略や貿易政策でいかに立ち向かったかを、まさに「目からウロコ」の斬新な視点で、大胆かつ刺激的に解き明かした本である。平川氏はこの本で、「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」という問いに始まり、ポルトガルやスペインのアジア進出に対抗する秀吉や家康、それに伊達政宗らの外交戦略を解き明かしている。
フランシスコ・ザビエルが初めて鹿児島に上陸したのは1549年。ザビエルは、マラッカにいた日本人3人を連れて来日し、彼らの案内と通訳で布教活動を開始した。その通訳では、当初、神のことを「大日如来」の「大日」、聖母マリアのことを「観音」、天国のことを「極楽」などと仏教の言葉をかりて説明していた。日本人は、キリスト教を仏教宗派の一つか、あるいは八百万(やおろず)の神の一つだと勘違いし、抵抗感なく受け入れたのではないかとする見方もある。そうした結果かどうか、ザビエルの来日からわずか40年ほどで日本の信者は30万人に達していた。
日本に来た宣教師たちは、地方の有力者である大名をまず取り込むと同時に、日本での布教許可をえるために時の最高権力者である信長や秀吉との接触を謀った。「日本史」を書いたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスもその一人で、面談を通じてじかに接することができた信長や秀吉の言行を数多く記録に残している。信長は多くの宣教師との接触を通じて、ポルトガルとスペインによる「世界領土分割計画」やポルトガルが明国を征服しようと狙っていることを知っていた。1582年、フロイスがイエズス会総会長に宛てた書簡によると、信長は「全国を平定し日本の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成しシナを武力で征服する」という考えを示していたという。さらに1587年の別のイエズス会士の書簡によると、秀吉が信長に「イエズス会士は日本を征服し支配しようと狙っている」と話したところ、信長は「ポルトガルが占領するインドははるかに遠くにあり、そんな遠いところから日本を征服するのに十分な兵士を送るのは不可能だ」と語ったという。信長は、ポルトガルとイエズス会による明国や日本の征服計画を知り、日本の防衛力のほうが強いことを示すため、ポルトガルに対抗して明国征服論を唱えたのではないかといわれる。
1586年、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが大阪城で秀吉に謁見し、日本での布教を許された。同席したルイス・フロイスがこのときの秀吉の発言を記録している。秀吉は「国内平定後は2000隻の船を建造し、朝鮮と明国を征服する。バテレン(宣教師)からは大型帆船2隻と優秀な航海士を提供してほしい。明国が自分に帰服するなら占領まではしない。ただ自分に服従させたいだけだ」と語っている(p69)。また秀吉は「二十万から三十万の軍勢を率いてシナにわたり、明国を征服するつもりだが、これをポルトガル人は喜ぶか」と問い、日本とポルトガルの軍事同盟による明国征服を匂わせたという。それに対してコエリョは、「明国出兵のさいには、二隻のポルトガル船だけでなく、ポルトガル領インド副王(ふくおう、ポルトガル語vice-rei, 英語viceroy、君主の代理として植民地を統治する総督、太守)に要請して援軍を送らせよう」と語ったという(p72)。秀吉は、ポルトガルは軍隊を日本まで送ることが可能だ、と聞き、警戒心を抱くことになる。
秀吉は、日本での布教を許可した翌年には、一転してバテレン追放令を出す。薩摩の島津氏を下して九州を平定したその帰途、秀吉は、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進し、長崎がイエズス会領となっていることを知って、激怒したからだ。イエズス会の宣教師らが、日本のキリシタン大名を意のままに動かすほどの力を持ち、キリスト教徒らが示す団結力は一向一揆を起こした一向宗本願寺門徒よりも強力であることに、秀吉は危機感を抱いた。さらにキリシタン大名が領内の神社仏閣を破壊し、僧侶にまでキリスト教への改宗を命じ、拒絶すれば焼き殺したほか、領民や家臣も強制的に改宗させるなどしたため、イエズス会には領土侵略の野心があるとの疑心を秀吉に抱かせることになった。
秀吉はまた、ポルトガル人や宣教師たちが金儲けのために、日本人を奴隷として海外に連れだし売買していることも知っていた。キリシタン大名は宣教師に乞われるまま、敵の領地の百姓領民を捕虜として捉え差し出していた。また例えば有馬晴信は領民の子供達を召し上げて『インド副王に献呈した』という記録がある。鉄砲の火薬になる硝石1樽は女50人と交換されたという。大友宗麟らが派遣した「天正遣欧少年使節」は旅の途中、立ち寄ったアジアの港町や南欧など各地で、日本人女性や幼い子供たちが鎖に繋がれ、半裸のまま売り買いされる姿を目撃している。遣欧少年使節は「同胞をあたかも家畜や駄獣のごとくに安い値で手放すわが民族への激しい怒りに燃えた」と述懐している。当時のポルトガル人は奴隷貿易を専門とする奴隷商人でもあった。イエズス会の宣教師も日本人の奴隷としての身分を証明する奴隷交易許可状を発給するなど、奴隷貿易に関与していた。秀吉の「バテレン追放令は、宗教と権力が一体化した植民地主義への警告だけでなく、奴隷売買の批判など、世界史的にも重要な意義を持っていた」(同書p86)とされる。
ところでユネスコの世界遺産諮問委員会は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録勧告を決めた。当初の申請では、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として伝来から普及、禁教下での信仰継承、禁教が解けてからの発展まで、4世紀にわたるキリスト教受容の歴史を伝える関連遺跡を登録申請するはずだった。しかし、登録勧告にあたり諮問機関のイコモスがつけた条件は、隠れキリシタンの存在など禁教期の歴史遺産に対象を絞ることだった。秀吉がキリスト教をなぜ禁止したのか、ポルトガルによる日本人奴隷の売買や植民地計画など、禁教に至るまでの経緯に触れず、「隠れキリシタン」時代の禁教と弾圧にのみ焦点をあてることは、歴史の真実からはほど遠く、世界の誤解を招くという指摘もある。(「モンテーニュとの対話」産経新聞18・5・13)
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