<大航海時代・西洋の挑戦に対する秀吉の応答>
秀吉の海外戦略に話を戻すと、2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592~98年)の前から、秀吉は唐(明国)や南蛮(東南アジア)、天竺(インド)への征服構想を口にしていた。「南蛮」とはポルトガルやスペインが拠点とするマラッカやマニラなど東南アジアのことを指し、天竺とはポルトガルが支配するインドのことだった。
1591年11月、秀吉はマニラのフィリピン総督に宛てた書簡で、「戦争が100年余も続いた我が国を、この10年で自分がことごとく平定した。そのため高麗や琉球など遠方の諸国も自分に帰服してきている。近く明国を征服するつもりだが、フィリピンはいまだに親交を結ぼうとしない。だから征伐の軍を派遣しようと思っている。はやく服従しないと後悔することになるぞ」という脅し文句を送っている。書簡を受け取ったフィリピン総督はこの脅しに震え上がった。マニラに戒厳令を布き、スペイン国王に援軍を要請するなど非常事態を宣言するほどだった。
その一年後、朝鮮出兵で平壌を陥落させたころ、秀吉は再びフィリピン総督に書簡を送り、「自分は日本全国と高麗を獲得した。多数の武将が今、マニラの占領を求めている。シナに赴けばルソンはすぐ近くでいつでも攻められる。このことをカステリヤ(スペインの旧称)の王に知らせよ。カステリアが遠方にあるからといって予の言を軽視すべからず」と書いている。
おなじころ、ポルトガルのインド副王に宛てた書簡でも、秀吉は、近く明国を征服するつもりだが、そうなればポルトガルのインドはさらに近くなるとし、インド副王もそろそろ帰順を考えよと脅しをかけている。また朝鮮出兵後の1592年6月、秀吉は甥の関白秀次に送った書状で、明国を征服したあとにはインドを攻めると明かし、「明に攻め入った先鋒の衆には天竺を与える、天竺を切り取るべし」と指示を出している。
秀吉は、朝鮮ばかりか琉球さえもまだ手に入れてない段階で、なぜマニラやインドにまで手を伸ばすという巨大な征服構想を口にしていたのか。以下は、平川新氏『戦国日本と大航海時代』による解説である。
秀吉は、来日した宣教師の言動や海外に出た日本人からの情報などから、ポルトガルとスペインが世界を二分して分割支配しようというデマルカシオン体制を知っていた。また1580年、ポルトガルでは国王の戦死で王朝が断絶、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねることになり、実質的にスペインが世界の全域を支配することになった。秀吉は、こうした国際情勢も知っていた。スペインが布教を口実にフィリピンを軍事侵攻し、本来の国王を追放して植民地支配した経緯も詳しく知っていた。またスペインやイエズス会が明国を軍事占領し、布教の足がかりにしようと狙っていることも知っていた。秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮半島が目的ではなく、その先の明国を押えることが狙いであり、さらにはポルトガルが占領していたインド、スペインが植民地支配していたフィリピンをも射程に入れ、その支配を覆そうと狙っていたのである。
平川氏は「秀吉がめざしたのは、世界最強国家スペインに対抗して、アジアを日本の版図に組み込んでいく。言葉を換えれば、世界の植民地化をめざすスペインに対する東洋からの反抗と挑戦だともいえる」(『戦国日本と大航海時代』P119)としている。秀吉の朝鮮出兵は、まさに大航海時代、西洋からの挑戦に日本がいかに応戦したか、秀吉なりの回答であり、その具体的な行動だったのである。
<「帝国」と呼ばれた日本、「皇帝」と称された秀吉・家康>
2度にわたり、のべ30万人以上の兵を動かした秀吉の朝鮮出兵を、実際に目撃したイエズス会の宣教師たちは、日本の軍事動員力と統率のとれた作戦遂行能力を目の当たりにし、日本を軍事侵攻するのは不可能だと悟ることになった。そして、これ以後は、布教と交易・通商に力を注ぐことになる。
さらに注目されるのは、これ以後、秀吉や家康のことを宣教師たちは「皇帝」Emperadorと呼び、日本を「帝国」Imperios と称したことである。スペインの君主でさえ、単にRey (国王)であり、Reino(王国)と呼ばれたのに対し、日本を「帝国」とし、征夷大将軍を「皇帝」と称したのは、戦国時代の日本を全国統一した秀吉や家康、そして日本の実力を宣教師たちが認めた証拠でもあった。
実は、日本を「帝国」と呼び、将軍を「皇帝」という言い方は、1853年、ペリー来航の際にペリーが持参した将軍あての米国大統領親書や翌年の日米和親条約の文言にも引き継がれている。江戸時代の日本は、欧米からは一貫して「皇帝」が統治する「帝国」とみなされていた。
それでは世界から、なぜ日本は「帝国」と見なされたのか。平川新氏は「ヨーロッパ人による「帝国日本」観は群雄割拠の戦後時代が克服されていく過程で形成された」という。分裂国家であった戦国時代の日本は、群雄割拠する地方政権が猛烈な軍拡競争を繰り広げ、軍事力に磨きをかけた。長期にわたる対立と混乱を収拾し、全国を平定したのは秀吉と家康による統一政権だった。そこで示されたのは軍事力の国家的集中と国家意思の一元化だった。二度の朝鮮出兵と総計30万人の動員態勢は、ポルトガルとスペインによる世界分割支配体制に対抗するための軍事力の国家的集中とその行使だった。秀吉のバテレン追放令や徳川政権の禁教令、そしてポルトガル人とスペイン人の追放は、彼らの世界支配と植民地化政策を拒絶するという、一元化された国家意思の体現でもあった。かくして秀吉や家康による統一政権は、日本が世界屈指の軍事大国としての実力を持つことを世界に示した。
(引用)「日本に戦国時代が存在して大名たちが軍拡競争をおこない、それを信長・秀吉・家康が統一して巨大な軍事大国を一気に創出したからこそ、西洋列強からの侵略と植民地化を防衛することができた」。「東南アジアや南北アメリカ、アフリカなどヨーロッパ列強に征服されたちいきには国家的な軍事組織がないか、あったとしても弱かった。そのためヨーロッパ列強の植民地にされたり、交易の主導権を握られてしまった。それが日本との大きな違いになった」。(『戦国日本と大航海時代』p268)
日本が「帝国」だと見なされ、一目置かれたからこそ、西欧列強の植民地化の動きを跳ね返し、独立を保つことができた。そして、その「帝国日本」の端緒となったのは、大航海時代の秀吉の対外戦略である朝鮮出兵だった、ということもできる。
<南蛮貿易を奨励、貿易立国をめざした秀吉・家康>
ところで秀吉がバテレン追放令を出した以降も、布教をしないことを条件にスペイン船などが来航し、交易することは許されていた。秀吉は1597年、フィリピン総督に宛てた手紙で、布教を隠れ蓑にした日本侵略は絶対に許さないという意思を示しつつ、日本と友誼を結び、交易のためだけに往還するなら、安全は保証するとも呼びかけた。
禁教の一方で外国との通商には積極的な姿勢を見せたのは家康も同じだった。家康は、朝鮮出兵で悪化した高麗や明国との関係修復を謀るとともに、タイやカンボジア、安南(ベトナム)やチャンパなど東南アジアとの間での朱印船貿易を積極的に進めた。そして、それまで西日本のキリシタン大名を中心に利益を独占してきた南蛮貿易を、東日本でも行えるようにするため、マニラとメキシコを往来するスペイン船が江戸湾や仙台湾に入港するよう求めている。当時、スペイン船は、フィリピンから黒潮の海流に乗って北上し、北太平洋を抜けて北米に達する北廻りルートを使っていた。日本の太平洋沿岸では、その北廻りルートのスペイン船の漂着や難破事件が相次いでいた。遭難した船には宣教師のほか、任務を終えて帰国するフィリピン総督など高官も乗船していた。家康は、遭難した船から救出されたフィリピン前総督らと接見し、マニラやメキシコと交易したいという希望を直接伝えている。
一方、ポルトガルやスペインに遅れてやってきたのがオランダやイギリスだった。家康はオランダやイギリスとも積極的に関係を築いた。1600年、オランダ船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着すると、家康はすぐに使者を送って船長や乗組員を保護した。日本を離れる彼らには家康のオランダ総督宛ての親書を託し、通商の希望を伝えている。その結果、1609年オランダ東インド会社の船が日本に入港し、平戸にオランダ商館を設置した。
家康はリーフデ号に乗っていたイギリス人航海長ウイリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人のヤン・ヨーステンを外交顧問に迎え、イギリスを含めてヨーロッパ諸国との通商を積極的に進めた。このころの家康は、外国の船は日本のどこにでも着岸し自由に交易することを許したほか、キリスト教の布教は厳禁という条件で、外国人はどこでも好きなところに居住することを許可し、あわせて外国商人の生命財産の安全を保障した。
<互いに牽制し、主導権争いに終始した西欧諸国>
そのころのヨーロッパ情勢は、スペインの属国であったオランダが独立戦争を起こし、1581年には宗主国スペインの統治権を否定するなど旧勢力のポルトガル・スペインに対し、プロテスタントを奉じるオランダやイギリスが新たな海洋進出勢力として台頭していた。1600年にイギリス東インド会社が、1602年には同じくオランダ東インド会社を設立され、これまでポルトガルやスペイン、それにイエズス会などカトリック教団が独占してきたアジアの貿易利権を争い、植民地獲得競争への挑戦を始めていた。
ところで大航海時代にアジアに進出したヨーロッパ諸国は、プロテスタントとカソリックの対立のほか、世界の交易国家として地位を確立するための弱肉強食の競争関係にあった。そうした対立の構図がそのまま日本にも持ち込まれ、彼らは互いに牽制しあい、非難しあい、互いに互いをおとしめる讒言を繰り返した。デマルカシオン=世界領土を山分けする体制をとったはずのポルトガルとスペインだが、日本に関してはどちらに布教の優先権があるかを争い、ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会やドミニコ会は激しく対立した。信長や秀吉に接触した宣教師らは、それぞれが互いの悪口を言い合い、互いに相手の悪い情報を吹き込んだ。フランシスコ会の宣教師らが乗り込んだスペイン船サン・フェリペ号が1596年、土佐に漂着したとき、イエズス会のポルトガル人たちは秀吉に対し、スペイン人は海賊であり、フランシスコ会の修道士たちには領土的野心があると告げ口をした。サン・フェリペ号に乗っていたフランシスコ会の宣教師など二十六人が長崎に送られ処刑された長崎二六聖人殉教事件は、ポルトガルのイエズス会士の讒言が原因だったとされる。(p116-8)
交易においてもヨーロッパ諸国は互いに船の積み荷を奪い合う敵同士だった。
1615年のオランダ平戸商館の輸入額の28%、輸出額の13%はポルトガル船からの捕獲品だったといわれる。また1617年に平戸から出帆したオランダ船の積み荷の88%は中国船等からの略奪品であり、日本から調達した品は12%にすぎなかった。要するにオランダ船は洋上で略奪した物資を交易品として日本で売り込んで巨利を得るなど、まさに海賊行為で交易が成り立っていたのである。ただし、これはオランダ船だけの話ではなく、スペイン船やポルトガル船、イギリス船、中国船も互いに他国の船を襲撃していた。アジアの海はまことに海賊が跋扈する世界だったのである。(p125)
<貿易立国を志した家康と伊達政宗>
家康は、こうしたヨーロッパ諸国の動きやアジアの海上勢力の状況を十分に把握した上で、多角的通商のための、まさに全方位外交を展開したのである。家康は宣教師らが贈り物として持ってきた精密な時計など西洋の文物を通して、西洋諸国が優れた技術と産業を発展させていることを知っていた。家康は、外国の優れた文化や技術を導入し、外国との通商を盛んにすることこそ、国を栄えさせ、戦のない世を永続させる手段だと考えていたのだと思う。
家康が貿易立国こそ国を治める手段だと理解していた証拠は、伊達政宗がメキシコやスペインとの通商を求めて使節の派遣を計画したのに対し、そのための大型船の建造を家康が許可したことでもわかる。支倉常長が派遣された慶長遣欧使節は、1611年の慶長三陸大津波で東北が壊滅的な被害を受けた直後に、伊達政宗が災害から立ち直り強い国にするには、外国との通商や文化の交流を通して国を豊かにするしかないと考えて行われた外交使節だった。当時、密命を帯びて日本に滞在し銀山の探索や三陸沿岸の測量をしていたスペイン人セバスチャン・ビスカイノの協力を得て、帆船サン・ファン・バウティスタ号が建造され、フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロの仲介でメキシコやスペインとの交渉が進んだ。このころ1612年には直轄領での禁教令が布告され、キリスト教への締め付けが次第に厳しくなるなかで、政宗がこうした貿易立国の構想を進めることができたのは、家康の同意と承認があったからだった。
サン・ファン・バウティスタ号が牡鹿半島月浦湾を出航したのは1613年10月。支倉常長が仙台に帰るのはその7年後の1620年だが、この間の1616年には、江戸幕府が全国に禁教令を発し、明国船以外の寄港地を平戸と長崎に限定した。政宗も常長の帰国直後に領内でのキリスト教を禁止している。
徳川幕府がスペイン船の来航を禁止するのは1624年、日本船の海外渡航を禁止するのは1635年、そしてポルトガル船の来航禁止は1639年だった。スペインやポルトガルとの関係は、断行というより追放だった。当時、世界の最強国であるスペインやポルトガルを日本から追放できたのも、両国に対抗できる軍事力と政治力を日本が有していたからだった。これらの措置を万全なものにするため、幕府は全国の海岸線に遠見(とおみ)番所を設けて沿岸防備体制を確立し、全国の藩を動員して軍事力を配置し国土防衛監視体制を完成させることになる。
ところで幕府には「完全に国を閉ざす」つもりはなく、日本人の海外への渡航禁止や海外からの帰国禁止など一連の「鎖国令」は、江戸の老中から長崎奉行への下知状にすぎず、全国の大名は知らされていなかった、とされる。貿易はむしろ奨励され、銀銅山での増産が指示されたほか、干しアワビやフカヒレなどいわゆる「俵物」の乾物は積極的に輸出に回された。オランダや中国船との貿易は長崎を窓口としたほか、朝鮮との貿易は対馬藩、琉球貿易は薩摩藩、蝦夷地との交易は松前藩にそれぞれ担当させ、その利益は黙認した。
イギリスはオランダとの競争に敗れて1623年に長崎から撤退するが、オランダは長崎の出島に封じ込められ、日本の貿易管理に従順に従った。それだけではなく、オランダの商館長は江戸への参勤を命じられ、海外の最新情勢に関する商館長の報告書「オランダ風説書(ふうせつがき)」の提出が義務づけられた。海洋大国であるイギリスやオランダが、服属を要求する幕府の指示に唯々諾々と従ったのは、徳川政権が統一国家としての行政能力を維持し、国家意思を遂行する体制とそれを裏付ける強大な軍事力を有していたからでもあった。
鎖国といっても、日本は海外に対して目や耳を閉ざしていたわけではない。それは長崎を海外に開かれた窓として、「オランダ風説書」などの情報を積極的に入手していたことでもわかる。また、たとえば船が遭難し、海を漂流した日本の漁民や海運業者が異国に足を踏み入れて帰国した際には、厳しく尋問してその地の情報を聞き出していた。そうした漂流者からの聞き書きを記した記録文書や「漂流譚」の類いは分かっているだけで300以上も残されているという。有名なのは大黒屋光太夫の10年近くに及ぶロシア漂泊の記録だが、そのほかにも小笠原諸島の無人島に流れ着き20年間も単独生活した記録やボルネオやフィリピン、メキシコなどに漂着し長期の現地滞在のあと日本に帰還を果たした記録、さらには太平洋上を484日ものあいだ航行不能となった木造船で漂ったすえ、イギリス船に発見され奇跡的に生還した「督乗丸舩長(ふなおさ)日記」などがある。それらの記録を丹念に調べ、まとめたのが岩尾龍太郎氏の 『江戸時代のロビンソン 七つの漂流譚』(新潮文庫2008)だが、岩尾氏によると「1700年ごろから世界史的にも稀な日本人の太平洋漂流が大量に発生」し、世界の遭難史においても例がない日本人による長期漂流や長期無人島サバイバルの事例が記録されるようになったという。そうした背景には、当時、大阪・上方と江戸を往復する千石船などの廻船が年間1万隻にも及んだと言われるほど、活発な物流と経済活動があった。また日本の千石船は帆柱が一本の平底船で、航海技術は低く外洋航海には向いていなかったが、木造船にしては頑丈で壊れにくかったといわれる。そのため熊野灘や遠州灘、三陸沖など外海の難所で暴風にあおられたり、黒潮が変化して南に蛇行した海流に押し流されたりして遭難し、太平洋の真ん中で漂流するケースが多かった。いずれにしても、大海をさまよい、異国を漂泊し、無事生還した多くの日本人の漂流譚は、世界に誇る「記録文学」としてもっと記憶されていい。役所の取り調べを受け、詳細な記録を残した彼らだが、その海外での見聞が一般の人に知られるのを恐れた幕府によって、帰国後は蟄居を命じられ、なかば幽閉されるケースも多かった。しかし、彼らの貴重な体験や情報がもとになって、幕府による小笠原諸島の探検が行われ、択捉など北方航路の開拓が行われた。時に18世紀はクック船長の太平洋探検が行われ、『ロビンソン・クルーソー』の物語が出版されるなど、無人島の発見が話題となり、またイギリス海軍などによる海図や航路図の制作が盛んに行われていた。日本人漂流民の生還記録は、小笠原諸島など南の島の領有につながり、現代の北方領土問題にも関係するなど、日本の領土拡大に大いに貢献していたのである。
<清朝中国の外交・貿易政策との違い>
ところで、日本の江戸時代の外交政策や貿易政策と対比し、検討してみたいのは、少し時代は下るが、乾隆帝の時代の中国である。外交という意味で、中国が正式に外国の使節と接触したのは、1793年英国使節団のマッカートニーによる北京訪問が最初だった。通商協定の締結を求める英国使節に対し、「地大物博」(国土が大きく物産は豊かだ)を自慢する乾隆帝は、外国に頼らなくても欲しいものはすべて国内で手に入ると言い放ち、伝統的な朝貢貿易は認めるものの、自由な貿易は拒否した。そればかりではなく、イギリス女王の使節であるマッカートニーに対し、清朝政府は皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼を行うことを要求した。そもそも世界の中心である中華皇帝に並び立つ存在など、空に二つの太陽が並ぶこと以上にあり得ないことであり、国と国の対等な外交関係など初めから認めなかった。マッカートニーは屈辱的な叩頭の儀礼を拒絶し、イギリス流の片膝をついて親書を奉呈する形でなんとか謁見は果たしたが、条約交渉に入ることすらできずにむなしく帰国した。イギリス外交官の間では、中国の頑固な態度と独特の世界観を変えるには軍事力を使うしかないと思うようになった。そして半世紀のちには実際その通りになった。
中国も日本もアヘン戦争とペリー来航という砲艦外交の外圧に押され、国を開く結果となったのは同じだが、清朝政府の場合は力づくで屈服させられた結果、領土を割譲し、外国人のための租借地をつくり、国全体が半植民地と化すことになった。一方、日本は、外国を排除するか、それとも国を開いて外国に学ぶか、尊皇攘夷を中心とした、それこそ国論を二分する激しい議論を繰り広げたあとに、自らの選択として外国に門戸を開放し、あわせて明治維新という政治改革を自らの手で行うことを決め、からくも独立を維持することができた。その意味で、秀吉や家康のころと同じく、日本周辺での外国勢力の動きや世界情勢を慎重に見極め、外交戦略において適切な判断が行い、自ら果断に行動にでたことが独立を保つ結果につながり、中国や他のアジア諸国と違い、いち早く近代化を達成できた原因となったのである。
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