脱中華の東南アジア史⑭ ブギス人編②

<国家ぐるみの海賊集団「東インド会社」>

16世紀、ヨーロッパでは、カトリックを信奉する二つの王国、ポルトガルとスペインによる世界分割統治計画いわゆる「デマルカシオン体制」に対抗して、新興勢力であるプロテスタントのイギリスとオランダが、海の覇権を狙って力を蓄えていた。スペインとポルトガルによる植民地化は王室の事業として行われたのに対し、イギリスやオランダなど新興国によるアジア進出と植民地化は、独占的地位を認められた特権的な民間の貿易会社「東インド会社」の手で行われた。

なおこの「東インド」が何を指すかというと、当時のヨーロッパの人々は、ヨーロッパから船に乗って西に向かうと出会うカリブ海の島々や南北アメリカ大陸沿岸部はすべて「西インド」と見なしたのに対し、アフリカ大陸の南端・喜望峰を回って東に向かい、その先で到達する沿岸地域はすべて「東インド」と認識された。つまり「東インド」とはアラビア半島から東南アジア、中国までインド太平洋の沿岸部全域だけでなく、太平洋を越えて南米大陸南端のマゼラン海峡にいたるまでのすべてが「東インド」という世界認識だった。(羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、位置No.203)インドの東にある地域として、特に今のインドネシアを指して「東インド」と呼んだわけではなかった。

当時、香辛料の買い付けのために、はるばるアジアまで商船を送るには乗り越えなければならない多くのハードルがあった。遠洋航海に耐えうる船を作るか、購入するか、借りるかし、航海に必要な種々の装備を船に施さなければならなかった。安全のためには最低でも3隻か4隻の船団を作り、一緒に行動する必要があった。寄港地で商品と交換するための銀を大量に用意する必要もあった。船長をはじめ水夫や医師など乗組人を雇用し、その給与を準備しなければならなかった。(引用)「これらには当然多額の資金が必要となる。しかも船が東インドを往復するのには最短でも一年半程度かかり、その間、出資金を回収することはできない。」(羽田・前掲書、位置No.854)

16世紀末に相次いで組織されたオランダの商船隊の場合は、資金に余裕があり高い利益を期待する商人や金融業者が、アムステルダムをはじめとする都市ごとに共同で出資した事業だった。船団が無事帰還した暁には、香辛料などの積み荷を売却することで成功報酬の配当金に当てた。資金は一回の航海ごとに集め、航海が終わると出資率に従って元本と利益を出資者に戻すという決算方法が採られた。

そうした中でロンドンの貿易商たちが考えたのは、東インドとの貿易で確実な利益を生み出すために、まず事業の母体となる会社組織を作り、その上で、東インドとの貿易を独占できるよう国王の特別の許可をもらうことだった。英国王室への働きかけが功を奏し、1600年、国王エリザベス1世の特許状が発布され、イギリス東インド会社が誕生した。この会社はEast India Companyの頭文字をとってEICとも呼ばれた。特許状によって、東インドとの貿易を彼らの会社だけで独占することを許された。この当時、「独占」は、ヨーロッパで商業に従事する人々にとっては、利益を確保するための当然の手段であり、実現すべき目標だった。

一方、農業に適さない低湿地が多いオランダでは、人々は早くから漁業や海運業を営み、海に進出していた。オランダでは、北海沿岸の各都市を拠点に多くの貿易会社が存在し、互いにしのぎを削っていた。競争による互いの不利益を解消し、東インド貿易で安定した利益をえるために、オランダ共和国政府が間に立って、アムステルダムやロッテルダムなど6つの都市にあった貿易会社が合併し、1602年に設立したのが「連合東インド会社」(Verenigde Oostindische Compagnie)、その頭文字をとってVOCと呼ばれた。いわゆる「オランダ東インド会社」である。

会社の実質的な経営方針は、各都市の貿易会社の代表から選ばれた取締役会が責任を持ち、「17人会」と呼ばれる重役会議で決定された。オランダ東インド会社は、オランダ共和国政府から特許状が与えられ、東インド貿易を「独占」することが認められた。それだけでなく国会の承認のもと、政府にいちいちお伺いをたてることなく、東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利が会社に与えられた。(羽田・前掲書、位置No 938)東インド会社の船は、商船であるにも関わらず、大砲を最大28門も積載し、船員以外に多数の兵士を乗せていた。民間の貿易会社とはいっても、軍隊や軍艦まで保有し、外国の領土を占領し、条約の締結権まで認められたいわば疑似国家、または準国家といえた。

ところで16世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国には「私掠船」(Privateer)と呼ばれる船が存在した。戦争状態にある敵国の船に対しては襲撃してその積み荷を強奪してもいいという許可を民間の船に与えていた。スペインと戦ったオランダ独立戦争、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊と破った英西戦争、オーストリア継承戦争やナポレオン戦争(トラファルガーの海戦)に際しての英仏間の海戦などでは、「私掠船」となった民間の船が海軍の補完勢力として使われ、敵の通商航路を破壊し、戦略物資を奪った。アジアの海域でも状況は同じで、各国の東インド会社の船が「私掠船」として敵対する国の船を襲撃して積み荷を奪い合った。大航海時代とは「国を挙げての海賊行為」が許された恐ろしい時代でもあった。

<オランダによる暴力的な植民地支配>

当時、貴重な香辛料だったクローブ(丁子ちょうじ・丁香ちょうこう)やナツメグ、ナツメグから採れるメースは、香料諸島として知られたマルク諸島やバンダ諸島の特定の島でしか採取できなかった。ポルトガル人が最初にマルク諸島にやってきたとき、島にはイスラム教徒の王(スルタン)がいて、香辛料の生産と販売を一手に取り仕切っていた。ポルトガル人も、その王から商品を仕入れることしかできなかった。17世紀初め、香辛料貿易の独占を狙って、マルク諸島にやってきたオランダ東インド会社は、島にあったポルトガル人の砦を攻撃し、島のスルタンに接近して軍事的な支援を約束し、ポルトガル人やスペイン人を排斥しようと画策した。

                  (バリ島の市場  © Japan‐ASEAN Center)

オランダ東インド会社は、1611年にジャワ島のバンテン、今のジャカルタにオランダ商館を置き、バタヴィアと改名して東南アジア貿易の拠点とした。オランダ本国からの船とマルク・バンダ諸島からの香辛料を積んだ船が出会える場所、つまり「出会い貿易」の場であり、船員や水夫の休息地、買い付けた品物を保管する場所だった。長崎で生まれたオランダ人との混血女性「ジャガタラお春」が追放された地であり、彼女が「日本恋しや」と書き送ったいわゆる「ジャガタラ文」の地として、日本人には知られているかもしれない。

このバタヴィアを拠点としたオランダ東インド会社による香料諸島などへの進出は、ポルトガル人にもまして暴力的だった。

香辛料の引き渡しを拒否した島の住民に対して、オランダはバタヴィアから討伐の軍を送り、島の指導者を虐殺したほか、抵抗する島民800人を奴隷としてバタヴィアに連れ帰った。ほかの島に逃亡しようとした住民はみな捕らえられ、成人は全員殺された。こうして住民がいなくなった島には、オランダ東インド会社の使用人として奴隷が送り込まれ、ナツメグの生産が始まった。1620年に起きた「ルン島事件」と呼ばれる顛末だった。

翌1621年には、オランダのバタヴィア総督自らが率いる2000人の兵がナツメグを生産するバンダ島に上陸し、問答無用で片端から住民の殺戮を始めた。1500人の島民はすべて殺されるか奴隷としてジャワ島に連行され、島には住民がまったくいなくなった。オランダ総督は替わりに奴隷を島に送り込み、ヨーロッパ出身者に農園を賃貸する形でナツメグ生産を行わせた。このオランダ人総督の名(ヤン・ピテルスゾーン・クーン)は「バンダの殺戮者」として、今も島民の間に記憶されているという。(羽田・前掲書、位置No1052)

イギリスとオランダのそれぞれの東インド会社は、東南アジアの高級香辛料の独占を目指し、互いに競合する関係にあり、相手の船を襲って積み荷を略奪したり、相手の取引を妨害したりするなど激しい敵対関係にあった。バンダ諸島のアンボイナ島をめぐって、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が対立し、オランダ兵がイギリス商館の商館長以下商館員10人と日本人の傭兵9人を処刑する事件が起きた。1623年に起きたアンボイナ事件である。この事件をきっかけに、イギリス東インド会社は危険を冒してまで高級香辛料の産地に出かけるのをとりやめ、東南アジア群島部でのイギリスの影響力は縮小し、オランダがより支配権を強めることになった。

東南アジアが植民地化された理由には、軍事力の圧倒的な違いがあった。オランダはインドネシア各地の王国の内紛に軍事介入する形で領土を広げていった。たとえば王国内で王位継承をめぐる争いがあった場合、対立する一方の勢力は強大な軍事力をもったオランダに加勢を求めた。オランダは政争に加担する条件として戦勝後の領土の割譲を要求し、それを突破口に全面的な植民地化が行われた。

オランダは1678年に、ジャワ島中部ジョグジャカルタ地方にあったマタラム王国で発生した王族の内紛に介入し、その対抗勢力を鎮圧した見返りに領土の一部と貿易特権を得ていた。その後もマタラム王国やバンテン王国の王位継承をめぐる内紛の介入し、東インド会社の活動に好意的な人物を王位につけようと画策した。マタラム王国では18世紀前半だけで3度も王位継承をめぐる戦争が起き、オランダはそのすべてにたて続けに介入している。18世紀半ばまでにオランダはマルク・バンダ諸島だけでなく、ジャワ島北部の沿岸部などを直轄領として領有することになった。しかし、領土を維持するためには、兵員や武器弾薬など軍事費が大きな負担となってのしかかることになった。オランダ本社の重役会議では、貿易を主たる事業とする商事会社なのだから、領土の拡大や維持は目指すべきではないという意見が大勢を占め始めていた。(羽田・前掲書、位置No.3809)

平戸で日本との貿易を独占するなど、一時期はアジア域内の貿易では最大の貿易量を誇り、莫大な利益をあげてきたオランダ東インド会社だったが、1780年以降、ジャワ島での軍事費の増大や英蘭戦争での敗北による軍事力の弱体化などにより、経営がとたんに傾くことになった。巨額な負債を抱え、オランダ政府の財政援助がないと船の艤装(出航の準備)もできないほどになった。ついには財政が破綻して国営化されたのち、オランダ東インド会社は1799年に廃止されている。

その後、インドネシアの植民地支配は東インド会社にかわってオランダ政府が直接乗り出すことになった。植民地を維持し、その支配圏を拡大する戦いはその後も続いた。スマトラ島北部の小国アチェは1873年にオランダに対する抵抗運動をはじめ、1903年にスルタンが降伏して植民地にされるまで、熾烈な戦いが30年間も続いた。こうして徐々に領土を広げたオランダが、現在のインドネシアとほぼ同じ領域の植民地国家を創りあげたのは1915年のことである。

<マカッサル戦争とマカッサル王国の滅亡>

それでは、再びスラウェシ島に話題を戻すことにする。先にも触れたように、スラウェシ島にあったマカッサル王国は、マカッサル港を自由港として欧州各国の商人に対して等しく開放していた。

(引用)「しかし、オランダ東インド会社の商人たちはマカッサルの成功を看過することはできなかった。オランダ東インド会社は、当時独占的な香辛料貿易を行っていたスペイン、ポルトガルに対抗する必要があった。世界各国との自由貿易を標榜し、インドネシア東部の群島を支配するマカッサル王国は、オランダ東インド会社にとって大きな障害であり、脅威でもあった。」(脇田・前掲書p29)

オランダ東インド会社は、武力を行使して高級香辛料の生産を直接おさえることで、その貿易の独占を狙った。香辛料買い付けで各地から商人があつまるスラウェシ島マカッサルに対しても、ポルトガル人、スペイン人、イギリス人などヨーロッパからの商人を追放するように圧力をかけた。

これに対してマカッサルの王は「神は大地を創り人々に分け与えたが、海は万人のもので、その航海を妨げるものはなにもない」と答えたという。(羽田・前掲書No1054)

南シナ海のほぼ全域の領有を主張し、スプラトリー諸島の軍事拠点化を進める今の中国共産党政権にもっとも聞かせたい言葉である。古来より自由に海を渡り、豊饒な海の恩恵に浴してきたブギス・マカッサル人は、「海は自由で開かれた公共財」だという、当時のヨーロッパ人よりもはるかに先進的な考え方をすでに持っていたのである。

「マカッサルはすべての人種に対して公平に開かれている。スペイン、ポルトガルを差別できない」と主張するマカッサル王国とオランダ側との交渉は決裂し、1615年、オランダ東インド会社のマカッサル事務所は閉鎖された。(脇田・前掲書p29)

マカッサル王国はその後、オランダ東インド会社の脅威に備えるため、海岸線に沿って8つの要塞を建設し、商取引は要塞内で行うようになった。マカッサル王国は、ポルトガル商人の援助を受けてガレー船と呼ばれる大型の軍艦9隻を建造して軍事力を高めるとともに、同時に香料を産出する周辺諸島とも緊密な関係を保ち、その支配権を強めていった。

オランダとマカッサル王国との緊張は次第に高まり、1655年には、マルク諸島のいくつかの海域で、オランダの艦隊とマカッサルの艦隊が衝突して戦闘となった。オランダ軍が占領するブトン島にマカッサル軍が攻撃を仕掛け、オランダ軍に大きな被害が出たこともあった。

オランダ東インド会社が香辛料貿易を独占するためには、マカッサル軍を制圧し、マカッサル港を占拠する必要があった。しかしオランダ軍単独では、マカッサルを制圧することは不可能だった。そこでオランダは、同じスラウェシ島のなかにあるブギス人の王国で、マカッサル王国と対立し不満を募らせていたボネ王国を引き込み、その兵力をマカッサル王国との戦闘に投入するように仕向けた。オランダはここでも同族同士の内紛を巧みに利用する形をとったのである。

これが1666年から1669年にかけて4年越しで続いたマカッサル戦争だった。この戦争では欧州でも例をみないほどの激しい戦闘が行われた。たとえば1667年7月19日の戦闘では、双方から休みなく大砲が発射され、合わせて21隻の軍艦からなるオランダ艦隊からは、合計4000発以上の砲弾が発射されたという。この砲撃によってマカッサルの都市は徹底的に破壊された。

戦いに敗れたマカッサル王国の王族たちはひそかにスラウェシ島を離れ、ジャワ島やスマトラ島へ移動し、そこを拠点に海軍力を強化し、引き続きオランダ軍に抵抗を続けた。またマレー半島やタイに移ったグループもあった。ブギス人たちのその後の物語は、彼らが再び東南アジアの海で活躍し、歴史にその名を留める第二幕の話である。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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