脱中華の東南アジア史⑮ ブギス人編③

<18世紀アジアの海を支配したブギス人>

マカッサル戦争に敗れたあと、スラウェシ島を追われたブギス・マカッサル人たちのその後を振り返っておきたい。

                 (マカッサルの子供たち © Japan‐ASEAN Centre)

航海技術に優れ、高い戦闘能力を持っていたブギス・マカッサル人は、スラウェシ島マカッサルを離れたあと、マレー半島周辺やボルネオ島などに拠点を移し、武装した帆船に乗り込み、時には商人として、また時には海賊として、東南アジアの各地の海に出没するようになった。東南アジア研究の碩学、白石隆氏はその著書『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書2000年)で、「東インドの海域世界において、18世紀はブギス人の世紀だった。ブギス人の武装帆船がこの地域の制海権を掌握し、ブギス人の商人が東インド貿易を支配した」(p43)と述べている。

(引用)「ブギス・マカッサル人が傭兵、商人、海賊として武装帆船に乗ってマラッカ海峡に到来するようになるのは、(マカッサル戦争)がきっかけだった。ブギス人の船には、王族、貴族の「冒険者」が40人~80人ほどの家の子郎党を率いて乗り組んでいた。そうした武装帆船数十隻からなる集団が商人として東インド各地の港市を訪れ、(あるいは)海賊として船を襲い、奴隷を狩り、またボルネオ沿岸、リオウ、リンガ諸島、マラッカ海峡などで傭兵としてマレー人の王たちの軍勢に参加した。そして18世紀半ばともなると、そうしたブギス・マカッサル人の冒険者のなかから、マラヤ西海岸、いまマレーシアの首都クアラルンプルにあるスランゴール王国のスルタンのように、新しい土地でみずから国を建てる者も出てくるようになった」(同書p41)。

ブギス人が立ち上げた王国としてはスランゴール王国のほか、マレー半島の南端、シンガポールの南にあるリオウ島を本拠地としたリオウ王国やジョホール王国があった。ブギス人はこのリオウを拠点に、マラッカ海峡からジャワ海に至る制海権を掌握した。18世紀半ばには、このリオウにブギス人は250艙の軍船と1万の軍勢を擁していたという。これに対してオランダ東インド会社が、当時、マラッカの商館に擁していた兵力は500人以下に過ぎず、ブギス人の勢力に単独で対抗できる力はオランダ側にはなかった。オランダは1783年末、リオウを先制攻撃したが、かえってブギス人の反撃にあって兵を引きあげた。逆にリオウの国王はスランゴールなどのブギス人も動員して、オランダが拠点を置くマラッカの包囲にすべての戦力を投入した。このためオランダは窮地に陥ったが、翌年、本国から6隻の艦隊がマラッカに派遣されたことで、なんとか難を逃れることができた。勢いづいたオランダはその後。スランゴールを降伏させてオランダ支配を認めさせ、1784年10月にはブギス人たちが拠点としたリオウ島を攻撃し、占領した。このためリオウ島にあったブギス人の軍勢は、再びマラッカ海峡両岸や南スマトラ、ボルネオの各地へ散り散りとなって逃れた。

そのころオランダ東インド会社はジャワ島北部の直轄地の植民地経営に莫大な軍事費を浪費するなど、財政はすでに危機に瀕していた。前述のとおり、オランダ東インド会社は、17・18世紀を通じて、喜望峰からジャワ、スマトラ、長崎まで東インドの多くの海域を支配し、日本との貿易を独占するなど、ヨーロッパと東南アジアの間の貿易だけでなく、アジア域内の貿易でも最大の貿易量を誇り、莫大な利益をあげていた。しかしオランダの艦隊がリオウを攻撃した1780年代以降は、急速に経営が傾き、政府の財政支援がないと船の出航準備もできないほどになった。1798年にはオランダ東インド会社は国有化され、その海外領土や財産、負債はすべてオランダ政府に引き継がれた。そして翌1799年にはついに会社も解散となった。ジャワ島での軍事費の増大や英蘭戦争での敗北による軍事力の弱体化などの背景があったとはいえ、あきらかに東南アジア海域でのブギス人たちとの抗争に疲弊した結果でもあった。

<大航海時代から植民地の時代へ>

胡椒やクローブといった香辛料を、高価な交易商品にすることができた東南アジアは、16・17世紀の大航海時代を通じて、ヨーロッパと東アジアを結ぶ中継貿易の拠点として、有力な港市国家が次々と登場し、隆盛を繰り返してきた。「約2世紀にわたったこの「隆盛」は、東南アジア、中でもその群島部を中心に、興亡する現地政治権力や商人によって主に担われてきた、まさしく東南アジアの「商業の時代」の産物であった」(桐山ほか著『東南アジアの歴史』p78)といわれる。

東南アジアに富をもたらした胡椒も、17世紀末のヨーロッパでは、それまで特定の人々の高級嗜好品とされてきたものが、一般大衆向けの消費物資に変わり、価格も急速に下がった。それと同時に、東南アジア群島部に生じた強力な現地政治権力も、権力者どうしの相互対立やヨーロッパ勢力の内紛への介入なども影響して、急速に支配力を失っていった。胡椒がもはや魅力ある商品ではなくなると、新たな交易商品の開発が必要になった。商品取引のために銀が大量に投入されるようになると、貿易の構造にも大きな改革が迫られたようになった。中国の陶器や茶を仕入れるために必要だった東南アジアの胡椒は、メキシコや日本の銀がその替わりを担った。

先にも述べたように、オランダ東インド会社が、マルク諸島などで住民を皆殺しにし、奴隷として連れ去るなどの暴力的な手段を使って強制させたのがグローブ丁子栽培だった。時代が下ると、そうした商品作物は、やがて米やコーヒー、砂糖、タバコなどの強制栽培へと変化し、さらにスズ鉱山やゴムのプランテーションなどの大規模産業化につながっていった。つまり東南アジアでの「商業の時代」は終わり、「植民地の時代」の始まりだった。

18世紀末から19世紀初めにかけて、東南アジアの支配構造や貿易経済の仕組みが大きく変化したが、そのころヨーロッパも激しい社会変革の時代を迎えていた。

大航海時代の貿易独占体制を支えた政治経済の基盤は、各国の歴代王室による絶対王政だった。この絶対王政を打破しようという、市民階層あるいは産業資本家による社会革命が勃発した。アメリカ独立戦争やフランス革命、その後のナポレオン戦争など社会的騒乱と混迷は世紀を超えて続いていた。

この当時、ナポレオン戦争のさなかにあったオランダはフランスの支配下におかれていた。1795年、オランダがフランスの同盟国としてイギリスに宣戦した直後、イギリスはオランダが支配していた喜望峰、セイロン、マラッカを占領した。アフリカ南端、喜望峰からセイロン、ジャワをへて長崎の出島に広がるオランダの海上帝国は、イギリスによって解体されたのである。

イギリスは1808年、オランダが支配するジャワの海上封鎖を行い、1811年から5年間、ジャワを軍事占領した。のちに述べるが「ラッフルズの統治」と呼ばれる時代である。1816年、ナポレオン戦争の戦後処理のなかでジャワは再びオランダに返還された。ちょうどこのころからイギリスの中国を中心としたアジア貿易は、最大の輸出品目であるアヘンが中心となっていた。中国市場向け物産として必要だったマルク諸島などでの胡椒や香料貿易は需要がなくなり、貿易相手としてのイギリスの東南アジア群島部に対する関心は失われていった。

1824年、イギリスとオランダは「英蘭ロンドン条約」を結び、東南アジアにおける両国の勢力範囲を確定した。マラッカ海峡を境界線に、その東つまりマレー半島をイギリスの勢力圏に、その西のアチェを含むスマトラ島はオランダの勢力範囲とすることで妥協が成立した。これにあわせてイギリスの手で自由港として開発が進んでいたシンガポールの帰属は、イギリスにあることをオランダに認めさせた。これによって1826年、ペナン、マラッカを含めたイギリスの海峡植民地が成立することになり、これらを拠点にイギリスは中国大陸とのアヘン貿易にますますのめり込んでいくことになる。

<オランダ支配への抵抗とインドネシア独立>

一方、オランダは、ジャワ島を中心にした植民地経営は、東インド会社にかわってオランダ政府が直接乗り出すことになったが、植民地として支配エリアを拡大する戦いはその後も続いた。先の英蘭条約によって、スマトラ島に対するオランダの支配権は承認されたが、スマトラ島北部の小国アチェは1873年にオランダに対する抵抗運動をはじめ、1903年にスルタンが降伏して実質的に植民地とされるまで、熾烈な戦いは30年間も続いた(アチェ戦争)。つまり20世紀にいたるまで、オランダは引き続き植民地の拡大とその抵抗運動に対する弾圧に明け暮れたのである。こうして徐々に領土を広げたオランダが、現在のインドネシアとほぼ同じ領域の植民地国家を創りあげたのは1915年のことだった。

ところで、戦後、インドネシアがオランダからの独立宣言をしたのは、日本がポツダム宣言を受諾し、天皇が終戦を宣言した2日後の1945年8月17日で、この日がインドネシアの独立記念日となっている。ところがそれよりも3年半も前、太平洋戦争が始まって間もないころに、いち早くオランダからの独立を宣言した地域があった。スラウェシ島北部にあるゴロンタロやボネといった地域である。蘭印(オランダ領東インド)への南進を開始した日本軍は1942年1月22日、スラウェシ島最北端の街メナドに上陸した。そのことを知ったオランダ人達は港の倉庫や船に火をつけ逃亡を企てた。オランダ人の逃亡を知ったゴロンタロの民衆は翌日、現地在住のオランダ人官僚を逮捕・投獄し、オランダの国旗を曳き降ろし、紅白のインドネシア国旗を掲げて、ゴロンタロにおけるインドネシアの独立を宣言した。ところが、日本軍はインドネシア国旗の掲揚を認めず、日本の軍政下に入ることを強制したので、独立は果たせなかった。また独立宣言を主導した島の指導者は、日本の敗戦後、再び戻ってきたオランダ軍によって逮捕され、懲役15年の刑を受けるなどの苦難を味わった。早すぎた独立宣言だったが、こうした住民の運動を見るだけでも、スラウェシ島ではオランダの植民地政策に対して、いかに抵抗が強かったかがわかる。オランダの支配に抵抗するスラウェシ島内でのブギス人を中心にした住民の運動は1600年代から連綿と続いてきたと言えなくもない。

脇田清之氏「早すぎたインドネシア独立宣言」スラウェシ島情報マガジン所載

それにしても、インドネシアにおけるオランダの過酷な植民地支配について改めて学んでみて、日本人として考えるのは、オランダとインドネシア、日本と中国、日本と韓国という国同士の過去への向き合い方である。過去の植民地統治について、オランダ政府がインドネシアに対して謝罪したという話は聞いたことはなく、インドネシアの人々がオランダ政府に対して謝罪や賠償を求めて提訴したという話も聞いたことがない。過去は過去、歴史は歴史として、その時代時代のさまざまな状況・あらゆる条件を考慮にいれて、学術的、客観的な検証に委ね、どこまでが証拠によって確定した歴史的事実なのかを互いに確認しないかぎり、いつまでたっても歴史の真贋論争は終わらないかもしれない。日本人としては言うべきではないかもしれないが、二度と誤りは繰り返さないという歴史の反省は必要だが、取り戻すことができない過去は過去として許すという寛容さも必要なのではないか。インドネシアなど東南アジアの人々の日本に対する暖かいまなざしをみると、そう思うことがある。

<ブギス人は「海賊」としても知られた>

もうひとつ、海賊としても知られたブギス人についても触れておきたい。

英語にボギーマン(Bogeyman)という言葉がある。「bogey」は「恐ろしい幽霊」を意味する中世の言葉「bogge」に由来するものと考えられている。ところが、この言葉は東南アジアではブギス人(Bugis)、またはブギス人海賊(Buganese pirates)を指す言葉として知られる。ブギス人による海賊は、オランダ東インド会社などの貿易船を苦しめた。欧州の船乗りが東南アジアから恐ろしい海賊を意味する「ブギーマン」という言葉を持ち帰ったのが始まりという説もある。

その海賊について、鶴見良行著『マラッカ物語』に次のような説明がある。

(引用)「海賊が一つの生業、つまり経済行為であったことはどこの土地でも同じだ。かれらは交易船を襲って積み荷を奪っただけではない。巡航型の海賊が目標としたのは、沿岸の漁村だった。彼らは貧しい漁民の生活用具だけではなく、商品として生産中の干しナマコや鼈甲を格好の獲物として奪っていった。何より最大の目標は人間だった。海賊業に危険は多く労働力の消耗は激しかったから、人間の需要はいくらでもあった」。「海賊は、同時に漁民であり交易商人だった。かれらは正業が不振になれば、海賊業にいそしむ以外になかった。ヨーロッパ植民地主義者がこの地域に多くの海賊を発見するのは、かれら自身の交易独占政策が発生させた結果を、それと気づかずに眺めたにすぎない」(同書p100)。

つまりは、この地域の貿易を独占したオランダ人たちが、自由貿易を推奨したブギス人たちを逆にスラウェシ島から追い出すことによって、ブギス人たちは、必然的に海賊という経済行為に頼らざるをえなかった、ということを言っているのである。

<現代に蘇った「海賊の子孫」発言>

ブギス人、あるいはブギス・マカッサル人という呼び名はいまではほとんど聞かれることはなくなったが、ブギス人がいなくなった訳ではない。インドネシアの2010年国勢調査で民族別人口割合を示すと2.69%はブギス人という公式統計もある。

ところで、最近マレーシアで、「海賊の末裔」としてブギス人の存在が大きく取り上げられ、さまざまな反響を呼びおこすニュースになったことがある。

実は、マレーシアの歴代首相のうち、二代目目のラザク首相(1970~1976年)は、母方がジョホール王国を築いたブギス人を祖先にもつ貴族の出身だった。六代目のナジブ首相(2009~2018)は、その二代目のラザク首相の長男であり、祖先がブギス出身で、それゆえに「自分にはブギス人の勇敢な精神が流れている」とアピールしていた。そのナジブ首相に対抗して選挙に出馬し、92歳で再び首相に返り咲いたマハティール氏は、その選挙戦のさなか、ナジブ氏の金銭スキャンダルを糾弾する市民集会(2017年10月14日)に出席、ナジブ氏のことを「海賊であり、盗人であり、犯罪者でもあるブギス人の子孫だ」と非難した。これについて首都クアラルンプルを囲むスランゴール州の州議会は、捜査当局に対しマハティール氏を「扇動・治安妨害法」違反の容疑で捜査するよう要求。「ブギス人という一定の民族に対し、憎悪や対立を煽る発言は社会の混乱と治安悪化を招く問題発言だ」と非難し、「元首相としてもっとこの国のブギスの歴史を知るべきだ」と厳しく指摘した。スランゴール州は、かつてブギス人が建てたスランゴール王国があった地でもある。マレーシアには、州ごとに9人のスルタン(王)がいて輪番で国王を務めている。ブギス人の末裔として知られるスランゴール州のスルタンは、マハティール発言について「ブギスは歴史的にマレーシアの宗教と自由、平和のために勇敢に戦ってきた事実がある。今回の発言はそうした事実を歪めている」として発言の訂正と謝罪を求めた。それだけではない。隣国インドネシアのユスフ・カラ副大統領は、それこそスラウェシ島マカッサル出身のブギス人で、「マハティール氏の発言はブギス人全体に対する侮辱であり、ブギス人としてショックを受けた。訂正と謝罪を求める」と不快感を示し、外交問題にもなりかねない事態に発展した。ブギス人は今もブギス人であることに誇りを持ち、あらゆる分野で今もその存在感を示しているのである。

参考Pan Asia News 2017/11/12大塚智彦氏署名記事

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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