<ラッフルズの夢、新たな地域秩序づくり>
シンガポールは今年、トランプ大統領とキム・ジョンウン委員長の米朝首脳会談(6月12日)の開催場所となり、世界から3000人を超えるマスコミ関係者が集まるなど大いに注目された。しかし期待した割には、会談結果には中身がなく、あまりに完璧に仕組まれた中継映像は、今から考えると演出過剰だったと言えなくもない。
(ブギス・ジャンクション 写真提供:日本アセアンセンター)
それはともかく、そのシンガポールの有名なショッピング街の一つに、ブギス・ストリート、ブギス・ジャンクションと呼ばれる区域がある。シンガポールがイギリス植民地として建設が始まった19世紀初め、この場所はブギス人が居住する専用エリアとされた。その近くにはコロニアル方式の最高級ホテル、ラッフルズ・ホテルやラッフルズ病院がある。このラッフルズの名こそ、イギリス東インド会社のジャワ副総督などを務め、植民地シンガポールの街を設計し、自由港シンガポールの生みの親となったトーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿(Sir Thomas Stamford Raffles/1781~1826)に由来する。
ラッフルズが、シンガポールの街のなかにヨーロッパ人やアラブ人、中国人のための専用居住区と並んで、なぜブギス人のための居住エリアを作ったのかは、自由港シンガポールを中心に東南アジア、さらには東シナ海、オセアニア、南太平洋の海を結んで一大海上帝国を築こうと考えた“ラッフルズの夢”に関係する。この「海の帝国」づくりの構想に欠かせなかったのが、マラッカ海峡やジャワ海を中心にインド太平洋を縦横に航海し、これらの海と交易を知り尽くしていた海洋民族ブギス・マカッサル人だった。まさにラッフルズの構想の主役であり、構想が実現できるかどうかは、マカッサル戦争に敗れスラウェシ島を追われたブギス・マカッサル人たちが再び脚光を浴びることができるかどうかにかかっていた。
ラッフルズは、オランダが支配したマラッカ海峡やジャワ島周辺を中心に、当時のアジア地域の政治経済状況を考察し、この地域の人やモノの動きをつぶさに観察したうえで、「東インド」つまり今の言葉で言えば「インド太平洋」の新たな統治秩序、経済秩序づくりのためにはブギス・マカッサル人たちの能力や行動力が絶対に必要だと考えたのである。
ラッフルズはそうした新たな秩序づくりの試みを、「海の帝国」づくりと呼んだ。ラッフルズの「海の帝国」構想を論じる前に、彼のユニークな経歴をまず振り返っておきたい。
<マレーの専門家・ラッフルズ人物伝>
ラッフルズは、1781年、西インド諸島ジャマイカ沖を航行中の船の上で生まれた。父はこの船の船長だった。家は貧しく、ラッフルズに満足な教育を与えることはできなかった。彼は14歳のとき、学校を退学し、ロンドンの東インド会社の臨時社員として働くことになる。19歳で正社員となり、1805年、24歳の時、自らの希望でマレー半島中部にあるペナン島に赴任することになった。ペナン島までの5か月間の船旅の途中で、マレー語を習得してしまったといわれ、1810年イギリス東インド総督のミントー卿と出会ったときには、すでに「マレーの専門家」として知られていた。ここでいう「マレー」とは、現在のマレー半島とインドネシアを含む地域を指している。
そのころイギリスは、ナポレオン戦争で敵対していたオランダを締め出すため、ジャワの海上封鎖を決行し、1810年、ついにジャワの占領を決断する。イギリスの東インド総督ミントー卿は、マレー語を巧みに操り、マレーの現地事情に精通していたラッフルズにそのジャワ占領工作に担当させ、スマトラからジャワ、セレベス(スラウェシ)島をへてモルッカ(マルク)諸島に至る各地の王国や港湾都市を支配する「マレーの王たち」と交渉し、説得工作にあたる責任者に任命した。
ラッフルズはジャワ副総督として1811年から5年間、ジャワに滞在し、この島の統治を任された。彼はすぐに土地改革や貿易政策に取り組んだが、この間に彼の名前を有名にしたのは博物学者としての活動だった。ジャワの歴史や自然風土、社会制度や文学・音楽にいたるまで幅広い資料を集め、その研究成果はジャワ副領事を解任され、帰国した翌年に出版した「ジャワ誌」(The history of Java)という本にまとめられた。上下巻で一千頁を超える大作で、貴重な文献として高く評価され、これによってラッフルズはナイト(Sir)の称号を授けられている。
彼がジャワ島で発見したものの中には、世界三大仏教遺跡の一つボロブドゥール寺院があり、熱帯雨林に埋もれた遺跡を考古学者とともに発掘にあたった。また世界最大、直径90センチにも及ぶ寄生植物の花を発見し、もう一人の発見者であるアーノルド博士とともに二人の名にちなんでラフレシア・アーノルディと命名された。
ところで、ジャワ統治時代のラッフルズは、日本との貿易を計画し、1813~1814年の間に計3回、長崎に使節団を送っている。使節団の目的は、貿易のみならず日本の開国を要求するものだった。しかし、その5年前(1808年)、イギリスはオランダとの対立を背景に、長崎に入港した英国軍艦がオランダ商館員を捉えて人質とし、日本側に水と食糧を要求する、いわゆる「フェートン号事件」を起こしていた。このため幕府の対英感情は悪く、オランダの妨害もあって交渉には至らなかった。
ペリーの黒船よりも40年も前に、日本に開国を要求し、しかも、ペリーのように大砲で威嚇しながらの砲艦外交ではなく、穏便な外交によるはたらきかけだった。ラッフルズは「鎖国時代の日本を遠くからながめ、日本を進んだ国とみて、近代化を予見した、おそらく最初の西洋人」だといわれる。(シンガポール日本人会ブログ「シンガポール人物伝4」)
http://www.jas.org.sg/magazine/yomimono/jinbutsu/raffles/raffles.html
イギリスに帰国したラッフルズは、その二年後には今度はスマトラ島ベンクーレンへの赴任を命じられた。彼の使命はジャワに代わるイギリスの新たな拠点を作ることだった。ラッフルズは、当時小さな漁村しかなかった島シンガポールに目をつけ、1819年1月、シンガポール川の河口付近に上陸した。実際に踏査してみて、船の碇泊地として格好の港になることを確信した。ラッフルズは、ここを支配するジョホール王国の王(スルタン)と強引な形で交渉し、英国商館を建設するための協定を結んだ。さらにラッフルズは、ここを自由貿易港として宣言し、奴隷貿易の廃止や賭博・アヘンの禁止など、理想の港街として建設するためのさまざま指示を出している。ラッフルズが上陸した場所には、いま摩天楼の高層ビルに囲まれて、「シンガポールの建設者」ラッフルズの像が立っている。
(シンガポール上陸地点に立つラッフルズ像)
<アダム・スミスの自由主義プロジェクト>
遠く極東の日本にまで深い関心を示し、シンガポールに理想の自由貿易港を作ろうと計画したラッフルズの「海の帝国」とはいかなる構想だったのだろうか?
オランダ東インド会社は、アフリカ南端の喜望峰からスリランカ、ジャワを経て長崎の出島に至る広大な範囲で、一大海上帝国を築き、アジアの貿易を独占した。ラッフルズは、こうしたオランダの貿易や植民地政策を観察し、それを「反面教師」にすることによって、イギリス中心の新しい地域秩序、つまり自らの理想とする「海の帝国」をこの地域に作ろうと考えた。それは、オランダ海上帝国を解体したあとに、ベンガル湾からマラッカ海峡を通り、スマトラ、ジャワを経て、セレベスやモルッカ諸島、さらにはオーストラリアに至るまでの島々をイギリスの事実上の影響下に置き、イギリス主導の新しい地域秩序を築こうという構想だった。
オランダ東インド会社の政策は、貿易の独占と商品作物の強制栽培にあった。これに対してラッフルズは、そのころアダム・スミスが『国富論』(1776年)のなかで説いた自由貿易を主張した。アダム・スミスのいわゆる「見えざる手」、つまり自由放任主義市場経済の主張は、当時の東インド会社という独占企業に対する徹底的な批判から生まれたものだった。アダム・スミスによると「ある会社が貿易を独占することには二つの弊害があった。一つは、自由貿易が許されていればはるかに安くなるはずの商品が、高い価格で売られること、もう一つは、収益性の高い適切な事業から多数の国民が排除されること」(羽田正『東インド会社とアジアの海』位置No.3905)である。
アダム・スミスの考えに従うラッフルズは、ともかくイギリスはあらゆる面でオランダとは正反対の政策を採るべきだと主張した。ジャワの占領によって、オランダの勢力をこの海域から駆逐し、そのあとには各地の王国や港湾都市を自由貿易でつなぐ同盟づくりを目指した。マラッカ海峡からモルッカ諸島まで、それぞれの海域で有力王国の港市を貿易拠点として育成し、かれらにそれぞれの地域の治安維持と貿易振興の責任を持たせる。貿易拠点として繁栄することで有力王国はますます有力となり、それらが互いに同盟することによって、交易ネットワークという新しい地域秩序の維持がますます利益となるという構図だった。
ラッフルズの「海の帝国」は、領土の支配を目的としたものではなかった。
(引用)「マレーの王(ラジャ)たちに、大王(マハラジャ)として受け入れさせ、大王の名において、マレーの国々に「平等で均質な」、いまはやりのことばでいえばグローバルスタンダードに適った「法律、制度、政府、政策」を導入する。こうして新しい自由主義的政治経済秩序を東インドに構築する。ラッフルズの建策は、その意味で・・・アダム・スミスの精神をそのまま受け継いだ最初の「自由主義プロジェクト」だった。」(白石隆著『海の帝国』中公新書p18)
(続く)
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