脱中華の東南アジア史⑰ ブギス人編⑤

<「海の帝国」の主役を期待されたブギス人>

ラッフルズの「海の帝国」構想の主役であり、これらの海域の交易ネットワークを担う存在として、ラッフルズが注目したのがブギス・マカッサル人だった。彼らは東南アジアの海で、海賊、傭兵、商人などとして知られ、17,18世紀には、マレー半島からオーストラリア北岸まで広範な地域で活動していた。ラッフルズは、自身の「海の帝国」づくりのためには、かれらの航海技術と貿易のノウハウを活用するべきだと考えた。

(引用)「ラッフルズは、ブギス・マカッサル人について、これまでオランダ人が醸成した内乱と奴隷貿易によって分裂し疲弊してきたが、われわれはオランダ人とは正反対の政策を採るべきだと主張する。ブギス・マカッサル人を保護し、彼らがわれわれと共同の利益を持つようにする、そして東方諸島の中心、セレベスに「強力で活動的な国民を創出する」、これがラッフルズのブギス・マカッサル人との同盟論だった」(白石隆著『海の帝国』中公新書p13)

そのオランダは、植民地経営において原住民であるマレー人やジャワ人などを抑圧する一方、中国人を逆に支援する政策をとった。ジャワ島にオランダ人がやってきたとき、中国人はそのオランダ人に巧みに取り入り、徴税の請負や政府契約のほとんどを掌握し、まるで「オランダ人の代理人」のように振る舞った。オランダ人で中国人と結託していない者などほとんどいないという有様だったが、その一方で、オランダ人は、中国人のことを「疫病」と呼び、蔑んでいた。

(引用)「中国人が土地を手に入れると、水田の地代は5倍にも跳ね上がる。ジャワで多くの中国人が住み着いたところでは、ジャワの原住民はその土地を去るか、奴隷となるしかない。これはジャワ以外でも同じである。すべてのマレーの国々において、中国人は関税請負を手に入れ、貿易を独占しようとする。また中国人は、その特有の言語と慣習から、どこでも自分たちだけの社会を形成し、貿易を独占する上で競争者よりも有利な立場に立つ。したがってわれわれは、中国人に対して、商業的にも政治的にも大いに警戒しなければならない」(白石・前掲書p15)とラッフルズは訴えた。

また、中国人はもともとその「土地の子」ではなく、労働で得た果実は、それを得たところで使うのではなく、中国にみな送金してしまう。中国人にとってジャワは所詮「仮の宿」であり、金もうけだけがかれらの目的なのだともいう(同書P14)。

習近平政権がアジア・アフリカでインフラ建設のプロジェクトを推し進め、その資金と技術、資材と労働力のすべてを中国から持ち出し、現地にはまったく金を落とすことなく中国人の手ですべてが完結されている実態をみても、中国人の海外進出の構造は今も昔も変わりがないのかも知れない。

<「ブギス人の季節」の終わり>

ところで「海の帝国」の主役と期待されたブギス・マカッサル人たちは、イギリスの植民都市シンガポールが自由港として開港した1819年以降も、この海域で活発に活動し、ブギス人の商船は頻繁にシンガポール港に来港していた。1830年代にはシンガポールとスラウェシ島の貿易のすべて、さらにシンガポールとボルネオの90%はブギス・マカッサル人が掌握していたといわれる。(白石・前掲書p21)

このころシンガポールには二つの貿易の季節があった。ひとつは12月から2月頃、「ジャンク船の季節」と呼ばれ、北東モンスーンにのって中国、タイから中国人のジャンク船が到来した。もうひとつは「ブギス人の季節」で、1830年代にはそれぞれ30人くらいのブギス・マカッサル人の商人を乗せた200隻以上の帆船が、南西モンスーンにのって7~10月頃、シンガポールに到来し、11月、北東モンスーンのはじまりとともにボルネオ、セレベスに帰っていった。(前掲書p22)

しかし、この「ブギス人の季節」は1830年代をピークに、次第にその存在が希薄になっていた。それはシンガポールの人口に推移をみれば分かる。1824年、シンガポールの人口は1万人ちょっとで、うちブギス人は18%、中国人は31%だった。これが1850年になると総人口は8万人へと拡大したが、ブギス人はわずか1%、実数では25年まえに比べると半減していた。一方で中国人は62%を占め、そのほとんどが男性だった。つまり、この間、シンガポールの人口は中国人労働者の流入によって拡大し、あたかも「中国人の巨大なタコ部屋」としてシンガポールは成長したような状況だった。

これには、1826年、シンガポールはペナン、マラッカとともにイギリスの海峡植民地となり、対中国貿易の拠点となったこと、またマレーシアのスズ鉱山やシンガポールのプランテーション開発などで、大量の中国人労働者が移入してきたという事情もあった。

イギリスのジャワ占領(1811年)のあと、ヨーロッパではナポレオン戦争が終結し、1816年には、ジャワはふたたびオランダに返還されることとなった。ジャワの返還によって、イギリスはインドネシア東方海域への関心を急速に失っていった。

ちょうどそのころからアヘンが対中貿易最大の輸出品目となった。アヘンの売買による徴税請負収入、いわばドラッグ・マネーだけで海峡植民地の政府収入の半分を占めたといわれる。アヘン戦争(1840年)で、香港が割譲されると、イギリスの影響圏は、シンガポールから北上して中国沿岸に延びることになった。つまり19世紀半ばにかけてイギリスのもとでアジアに成立した地域秩序は、カルカッタからペナン、シンガポールを経由して香港、上海に至るラインで形成された。これはラッフルズが思い描いた「海の帝国」構想、つまりシンガポールを中心にベンガル湾からマラッカ海峡、ジャワ海へと東に延び、さらにオーストラリア北岸にまで達するという自由貿易圏構想とはあきらかにベクトルが違うものになっていた。

しかも、シンガポールから北上し中国沿岸に至る貿易圏で、イギリスの同盟者となったのは、ラッフルズが警戒を呼びかけた「中国人」であり、そこにブギス・マカッサル人が出る幕はなかった。ブギス・マカッサル人によるボルネオとシンガポールを結んだ交易は1830年代をピークに1850年代には激減した。

(引用)「シンガポールは、ラッフルズの構想通り、東南アジアにおけるイギリス自由貿易帝国の中心として発展した。しかし、この自由貿易帝国を賄ったのは請負(独占)であり、それもアヘン請負収入というドラッグ・マネーだった。」(白石・前掲書p24)

海峡植民地の経済は、資本、労働、市場のすべてが、中国人の秘密結社の支配下にあった。秘密結社は「三合会」とか「義興会」などと呼ばれ、堅い結束を見せていた。英語が話せてビジネス相手として「信用できる」中国人も、農園の中国人経営者もすべて秘密結社の構成員だった。最底辺の中国人労働者・苦力(クーリー)たちも秘密結社のネットワークにのってシンガポールにやってきた。秘密結社に組織されて苦力として働き、秘密結社のネットワークに頼って故郷に送金した。

(引用)「イギリス自由貿易帝国の成立とともにイギリスと華僑の同盟が成立し、華僑の経済的発展はイギリスの帝国的利益となった。こうして華僑が経済的に力をつけ、華僑のネットワークが拡がり、シンガポールが発展した」(前掲書p34)。

海峡植民地は、いわば華僑ネットワークから金を吸い上げて成長し、シンガポールはまさに東南アジアにおける華僑センターとなったのである。

ところで、「海の帝国」を構想したラッフルズだが、彼自身は自分が提言した「海の帝国」の結末をみることはなく、この世を去っている。ラッフルズは晩年のスマトラ島での滞在中、相次ぐ家族の死や自身の病気を経験し、失意の中で1823年、帰国の途についた。それから三年後の1826年、脳腫瘍による発作で亡くなった。享年44歳だった。

こうしてみれば、ラッフルズは、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを見ていた。そして、ひとり頭の中で、地球半周にも及ぶ広大な海を思い描き、そこを縦横に行き来し、たくましく生活する人々の息吹を感じ取り、新しい時代の新しい精神による世界の秩序、時代のあり方を考えていた。ラッフルズには帝国主義的植民地主義者という評価もあるが、人道主義的啓蒙家で奴隷廃止論者、その地域の住民や文化に深い愛情をもった優れた植民地行政官だったという評価も一方にはある。時代の条件や制約はありながら、そこに暮らす人々がよりよい暮らしを営むにはどんな世界が必要なのかを構想し、その実現のために行動に移した、ラッフルズの構想力、実践力は、非凡というしかない。

<「対立の海」では何の価値も生みださない>

それにつけても、ラッフルズが構想したこの地域の姿は、それから200年後の今、実際にはどうなっているだろうか。自由な貿易や自由な航行、万人のための安定した地域秩序は実現しているだろうか。東シナ海や南シナ海での中国の海洋政策、さらに彼らの「一帯一路」政策を見るとき、「ラッフルズの夢」からは、はるかに遠ざかっているように見える。

東シナ海や南シナ海の現状は、せっかく豊かな海の資源があっても、島の占有を主張する国やその周辺の国も含めて、いかなる国も手出しができない状態になっている。尖閣諸島を例にとっても、海上保安庁の巡視船・巡視艇が24時間、警戒監視を続け、日本の漁船は領海内に近づくことさえ禁止されている。中国側も海警などの公船をつねに3~4隻接続海域で遊弋させ、ときに領海侵入を繰り返して、嫌がらせを兼ねて存在をアピールする。しかし、それだけのことで、何か生産的な活動を行うわけでもなく、何らかの利益を生み出しているわけでもない。そこにかけるコストとエネルギー・消費する労力、パワーたるや相当なものがあると思うが、それをもって行政管轄権を行使し、実効支配している証拠だとあげつらって見ても、犬の遠吠えよろしく何の意味も価値もない。

南沙諸島でも状況は同じだろう。ベトナムやマレーシアは曲がりなりにも石油を掘削し、それなりに資源を獲得・利用しているが、中国の場合は、中国大陸から遠く離れた環礁を埋め立て、いくつも人工島を作っている。そこに大規模な兵員を配置し、軍事機能を維持するだけでも、莫大なコストがかかっているはずだ。生産的な活動は何もせず、ただ国家のメンツを維持するためだけに、莫大な国家予算を浪費するだけだ。

本来、選挙で選ばれた政治家が立法・行政に責任をもつ民主主義国家であるなら、巨額な国家予算をかけて、広大な海を囲い込み自分の領海だと主張する政策であるなら、領有した海域、国土をどう活用し、それによっていかなる利益が生まれるのか、国民にしっかり説明する責任がある。高いコストをかけて占有しても、何の役にも立たないとしたら、領有することにいかなる大義があるのか。それでもなお、軍事的・戦略的な理由から、高いコストや犠牲も覚悟の上で、南シナ海の確保が必要だというのなら、国際社会と国民に向けて、これだけ広大な海を排他的に支配することの必要性やその根拠、どう国益と結びつくのかといった合理的な説明を示す必要がある。

そもそも、南シナ海に中国が一方的にU字ラインを引き、11段線、9段線といったラインで南シナ海を囲いこんだ時点で、領有の根拠を示す考え方、基盤となる理念、合理的な説明などは初めからなかったし、今の時点に至っても、中国政府は、有効な法的根拠、合理的な説明を提示できていない。

仮に中国が、アメリカの影響力を排除して南シナ海での覇権を掌握したとして、そのあとに、いかなる秩序をこの地域にもたらし、それが南シナ海沿岸国、東アジア、はてはインド太平洋にいかなる恩恵をもたらすのか、まさにラッフルズのような構想力が必要なのである。

                      (写真提供:日本アセアンセンター)

<南シナ海や一帯一路の秩序形成には構想力が必要>

まさに地域秩序の形成や経済・貿易の枠組みづくりにおいては、万人を納得させる理念、歴史の検証に耐えうる構想力、プランニング力が必要なはずだ。

習近平が音頭をとる「一帯一路」プロジェクトには、そうした理念、構想力はあるのだろうか。なぜいま「シルクロード経済圏」なのか、なぜ中国が起点なのか、など疑問も多い。「中国の夢」をスローガンに掲げ、過去の中華帝国の復活を夢見る習近平の場当たり的・機会主義的な思い付きに過ぎず、その根底に何か高邁な理想や人類の発展につながる文明哲学があるとは想像もできない。習近平は、一帯一路やAIIB(アジアインフラ投資銀行)を成功させることによって、うまくいけばアメリカに替わって、中国がグローバル経済や世界の貿易システム、はては地球環境政策などを含めて、世界のルールづくりを主導できると思っているのかもしれないが、そのルールとは何で、いかなる理念に基づくものなのかを、世界の人々が理解できるような言葉で説明することはできていない。大方の見方は、生産過剰の中国の鉄鋼製品やセメントを海外に輸出する手段として、中国は一帯一路を標榜し、海外でのインフラ事業に乗り出す口実に利用しているに過ぎないというもので、はじめから中国の国内事情と国益を優先するという姿勢が透けてみえるのである。中国国内の人権状況や少数民族政策、環境対策の実際をみるかぎり、中国の「一帯一路」構想が現代のグローバル・スタンダード(世界標準)になるとはとうてい思えない。それが世界標準となるためには、万人が納得し、賛同できる理論的な裏づけ、合理的な思想や哲学がなければならない。南シナ海についても、周辺の沿岸国を含めて円満に管轄し運営しようと思ったなら、関係国のみならず国際社会すべてが納得できる理念、説明が必要なのである。

中国が「一帯一路」や「海のシルクロード」を言い出すはるか昔、200年も前に、南シナ海のみならずインド太平洋をつないで自由で繁栄した貿易圏をつくり、一定の秩序のもとに安定した「海の帝国」を作ろうと構想した男がいた。中国のやり方と対比し、中国の横暴を排除するためにも、トーマス・スタンフォード・ラッフルズの名を私たちは忘れてはならないと思う。

(写真提供:日本アセアンセンター)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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