4月10日、韓国総選挙の「与党惨敗、野党圧勝」という結果について、こうした選択をした韓国国民の民意をどう理解すればいいのか、正直いって、戸惑い、考えあぐねている。
ところで突然だが、われわれ外部の人間には理解不能な韓国政治や民意の謎を探るために、ここで朝鮮半島の歴史を少し振り返ってみたい。歴史を振り返ることで、現在の問題につながる背景やその根源を理解することができるかもしれないからだ。
よくぞ言ってくれた!日本人の腑に落ちる朝鮮半島史
去年(2023年)6月に出版された『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』(新潮選書)を読んだ。著者は、九州大学大学院で博士号を取得し、現在、フェリス女学院大学教授(東アジア近代史)の新城道彦氏だが、韓国の研究者や韓国側の学説、それに韓国人の立場に阿(おも)ねることなく、新進気鋭の日本の研究者が、韓国人なら避けて通りたいと思うだろう「負の歴史」や「恥ずかしい歴史」にも縦横に切り込んで、日本人として「言って欲しかった歴史」、「聞きたかった歴史」を余すところなく学術的に論証してくれた好著だ、と思った。
新城道彦氏が描く「政争と外患の六百年」とは、李氏朝鮮の成立(1392)前後から、朝鮮戦争(1950~53)までの朝鮮半島史であり、「なぜ民族が二つに分かれ、南北分断が固定化されることになったのか」という問いへの答えを提示している。
多くの血が流された「士禍」、「党争」、「賜死」
そこに描かれる「政争」とは、朝鮮王朝の系譜(国王の世継ぎ)をめぐる王室の兄弟・親子どうしの殺戮やクーデタ、毒殺などの陰謀、王妃と側室の間の世子(後継者)争い、それらに巻き込まれる官僚らによる党派対立、「士禍」と呼ばれる宮廷人脈や派閥による分裂と抗争、王妃を輩出した特定の門閥一族による「勢道政治」と呼ばれる長期支配と腐敗など、まさに権力亡者たちによる血なまぐさい、身の毛もよだつような凄惨な権力闘争である。
朝鮮王朝といえば、初代国王・李成桂に次ぐ2代目の後継争いの段階で、王子たちの間で2度にわたる反乱、醜い内輪もめが起き、王子8人のうち2人が殺害され、1人が配流となり、建国に功績があった宰相なども暗殺されている。また朝鮮王朝では叛旗を翻した王子や王妃、時には前国王(第6代端宗)に対しても、「賜死」といって国王から毒を「賜わり」、毒殺されるという事例が頻発している。
宮廷内部では士林派と勲旧派と呼ばれる新旧の官僚らによる派閥の対立で、対抗する派閥官僚らを大規模に排斥したり、弾圧したりする事件がしばしば起き、「士禍」と呼ばれた。さらにその後、士林派は東人と西人の党派に分裂し、さらに東人は南人と北人に、西人は老論派と少論派にそれぞれ分裂し、互いに相手を徹底的に排除し、妥協のない抗争と対立、いわゆる「党争」を繰り返すことになる。
外国に縋(すが)り付く事大主義が内憂外患を誘う
一方、「外患」とは、朝鮮特有の「事大主義」(事大とは「大」に「事(つか)える」の意)の考えに基づく明や清への屈服と隷属。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しても明に救援を求めるしか策はなく、つねに外国の援助にすがりつく体質が、現代に至るまで朝鮮半島問題を複雑にしている原因でもある。
後金(のちの清)のホンタイジよる軍事侵攻(丙子の役・丙子胡乱)で敗北した当時の国王・仁祖がとらされた屈辱的な臣下の礼(三跪九叩頭)や、賠償として多額の金銀や貢女などの提供を約束させられたこと(三田渡(サムジョンド)盟約)。そして凄惨な外国人宣教師の殺害など相次ぐキリスト教弾圧と西洋排斥を行った結果、フランス軍などの報復攻撃を招いたこと。キリスト教をはじめ西洋列強の進出に対する反発から「東学」(西学に対して儒教など東洋の教えを守る思想運動)農民運動が起こり、その鎮圧を清の軍隊に要請、それが日清戦争へと発展する。清に朝鮮の独立を認めさせたのが、日清戦争後の下関条約だが、朝鮮王室はその後、ロシアへの傾倒を強め、ロシアの半島への進出を許したことで、ついに日露戦争が勃発、そのあとの日韓併合に帰結していく。要するに、王朝内部の失政が外交関係の失敗にもつながり、それが「外患」となって、国力を弱め、国際社会からも落伍していくという悪循環にも繋がったともいえる。
しかし、こうした歴史の説明の字面(じづら)だけでは、見えてこないが、これらの「政争」と「外患」の裏には、どれだけの血が流され、世を呪う怨嗟の喚(わめ)きがいかにこだましていたかは、想像も及ばない。そして、こうした歴史を持つ朝鮮の王朝社会は、無為徒食の「両班(ヤンバン)」階級が民衆を支配する権力を専横する一方で、モノのように売り買いされ、名前もなく、文字を習う権利もなかった「奴婢(ノビ)」が、最大で人口の半数近くを占め、それが20世紀初頭まで続いたという異形の奴隷制社会だった。つまり、「政争」や「外患」の有無に関わらず、朝鮮半島に暮らす人々のうめき声は、天地に充満する社会だったのである。
光復(独立)しても長期の信託統治が待っていた?
日本の大東亜戦争の敗北によって、彼らがいう「光復」、つまり「植民地」統治から脱した朝鮮半島の人々が、すぐに「独立」を手にしたかというと、そうではなかった。新城道彦氏の『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』は、その点も詳しく論述している。
米英ソ中の主要国首脳は、日本の敗戦を前に、その戦後処理と朝鮮半島の扱いをめぐって、駆け引きを繰り返していた。戦後の朝鮮半島について、当初、米国が提案していたのは「40年間の後見制」(テヘラン会議)、そして「米・ソ・中による20~30年にわたる信託統治」(ヤルタ会談)だった。なぜなら、米国は「朝鮮人はいまだ独立政府を運営・維持する能力がない」(同書p226)と見ていたからだ。
一方、ソ連のスターリンはヤルタ会談で、ドイツ降伏後2~3か月以内での「対日参戦」を約束していた。スターリンはまた、戦後の朝鮮半島の信託統治について、その期間は「短ければ短いほど望ましい」とし、「朝鮮が独立すれば多くの民衆が共産主義のソ連を支持する」と判断し、そのため早期の朝鮮半島進駐を狙っていた。
ソ連が、日本との中立条約を破って1945年8月8日に対日参戦した契機になったのは、米国の原爆実験成功と広島への原爆投下が大きく作用していた。
映画「オッペンハイマー」が描く “最悪のタイミングでの終戦”
2024年のアカデミー賞作品賞を受賞し、話題となった映画「オッペンハイマー」を封切り直後に見た。ここに描かれていたのは、原爆開発をめぐってナチス・ドイツやスターリンのソ連との先陣争いを課せられた科学者が、原爆が人類にもたらす功罪に苦悶し、戦後に下された自分への評価に苦闘する姿だった。映画でも描かれているが、ロスアラモスでの原爆実験の成功を、ポツダム会談に出席するトルーマン大統領にいち早く届けるために爆破実験を急ぐことになり、そして原爆実験成功(7月16日)がトルーマンに伝えられたのは、ポツダム会談の開催(7月17日)の直前だった。この原爆実験の成功について、トルーマンは「さり気なく」スターリンに伝え、「スターリンはこれに『さり気なく』反応したというが、内心はかなり焦っていただろう」(同書p228)とみられる。
対日参戦したソ連軍は満州に侵入すると破竹の勢いで朝鮮半島にも迫っていて、そのままではソ連軍によって半島すべて占領される勢いだった。そのころ、米軍の主力部隊は沖縄に留まったままで、朝鮮半島に大軍を派遣する余裕はなかった。そこで米国のトルーマン大統領は朝鮮半島をちょうど半分で区切ることができる38度線を境界線とし、その南北を米ソそれぞれの担当範囲とするという一般命令第1号案を提示し、スターリンの同意を得ることができた。これこそが「南北分断」の始まりだった。
朝鮮半島政治が専門の小此木政夫慶応大名誉教授は、「もしドイツの降伏が数か月早かったり、原爆の完成が数か月遅ければ、(または逆のケースでも・・・)、朝鮮半島で米ソの軍隊が遭遇することはなく、分割占領は回避されていた」と述べているが、まさに「朝鮮半島の民衆にとって、戦争は最悪のタイミングで終結した」(『朝鮮分断の期限―独立と統一の相克―』、同書p275)のである。
大国のパワーバランスの上で翻弄された<独立と統一>
韓国の人々は、朝鮮半島が分断されたのは日本の植民地統治のせいだと思い込んでいて、「日本が韓国を併合しなければ、民族が南北に分断されることはなかった」という言説がまかり通っている。しかし、朝鮮王朝が歩んできた事大主義や日韓併合、戦後の南北分断は、半島をとりまくその時々の国際情勢、まさにパワーバランスのせいだった。そのパワーバランスに乗って、北はソ連軍の将校だった金日成がソ連の援助を受けて最高権力者となり、一方、南側ではアメリカにいた反共主義者の李承晩が米軍によって担ぎ出されることになる。米ソ冷戦の最前線となった朝鮮戦争も、統一をめぐる金日成と李承晩の意地の張り合いで、戦争は長期化・泥沼化し、国連軍と中国軍双方に多大の犠牲者を出す結果となった。
新城氏は、朝鮮半島が「名実ともに<独立>していた期間は1895年(もしくは1897年)から1905年に限られる」(p272)と述べている。つまり日清戦争の結果、清に朝鮮の独立を認めさせ、ロシアの影響を排除して大韓帝国を樹立した以降から、日本が外交権を剥奪した第2次日韓協約まで、という意味だ。米ソ冷戦から続くパワーバランスの中で、民族が南北に分断され、それぞれが米国や中国・ロシアの軍事支援を受け続けている現状は、けっして真の<独立>とは言えないはずで、朝鮮王朝以降600年の歴史の中で、まがりなりにも<統一>と<独立>の二つを同時に手にしていたのは、1895年から1905年のたった10年間だけということになる。
かりに朝鮮戦争でどちらか一方が勝っていたら、<統一>は実現できても、どちらかの<独立>は喪失していたことになり、その統一も長期にわたる「信託統治」という形だったかもしれない。結局、「朝鮮半島を取り巻く大国のパワーバランスが、韓国/北朝鮮の<統一>を妨げると同時に、双方の<独立>を守った」(p277)ということになる。自分たちの手で真の<独立>と<統一>を手にすることができなかった事実は、冷静に歴史を振り返って検証すべき対象だとは思わないだろうか。
「歴史はつねに勝者が書き換える」では現実を変革することはできない
新城道彦氏は「朝鮮王朝には新たに政権を握った勢力が<正しさ>を規定し、歴史を再構成するという価値観が存在した」(同書p269)という。その具体例が、第10代国王燕山君(ヨンサングン)を廃位させた「中宗反正」、第15代国王光海君を廃位させた「仁祖反正」といわれる事件で、「反正」とは間違ったものを正しい状態に反(かえ)すことを意味する。つまり悪い王を廃して新しい王が立つこと、すなわち公然たるクーデタが認められていたことになり、勝った側が先代の歴史をいかようにも作り上げることができた。
こうした「反正」の歴史は、韓国の歴代大統領の命運にも共通したものがある。李承晩や朴正熙は在任中の業績は顧みられることなく、今も批判に晒され、その後の全斗煥から朴槿恵・文在寅に至るまで、ほとんどの大統領経験者は刑務所に入るか、本人や一族の誰かが犯罪捜査の対象となるなど、まともに評価された人物は誰ひとりおらず、みな否定されるべき存在となっている。
今回の総選挙結果に表れた与野党の分断、互いに対する憎悪丸出しの糾弾と非難、DNAに刻み込まれたような地域別の感情対立、世代別・ジェンダーごとの越えがたい深い溝を見るにつけ、自分たちがこれまで仲間うちで行ってきた分裂と対立の過去をしっかりと見つめ直し、民族の分断は日本の植民地統治のせいだといって済ませるのではなく、自分たちの真の<独立>と<統一>のためには何が必要なのかを、もう一度、考え直したほうがいい。余計なお世話かもしれないが、そのために少なくとも必要なのは、自分たちの依って立つ共通の歴史認識だと思うが、いかがか?
因みに、この国の保守派の人たちは、韓国の「建国」は、南側単独選挙を行い憲法を制定して大韓民国の樹立を宣言した1948年8月15日だとしているが、文在寅など左派系の人たちは1919年4月、3・1独立運動の直後に上海で設立された大韓民国臨時政府の成立を建国の日だと主張している。国民の間で「建国の日」に関する考えが異なり、それをめぐって対立しているような状況では、互いに相手をおなじ国の国民だと思うだろうか?
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