東京国立博物館で特別展「はにわ HANIWA!」(10月16日~12月8日)が開催されている。「桂甲の武人 国宝指定50年記念」と銘打たれた特別展は、九州から東北、さらには海外を含めて50か所以上の所蔵・保管先から埴輪を集め、古墳時代の埴輪をテーマにこれだけの規模で開催する特別展は昭和48(1973)年以来、半世紀ぶりだという。
特別展の目玉となっている「挂甲の武人」とは、古墳時代後期6世紀に群馬県大田市の同じ工房の窯で作られた、いずれも高さ130センチほどの武人の姿を現わした埴輪のことで、会場には米シアトル美術館から今回初めて里帰りした1体のほか、国宝2体、重要文化財2体を含めて計6体が展示されている。国宝に指定されている埴輪はたった4件しかないそうだが、今から50年前の1974年に最初に国宝に指定されたのが、東京国立博物館所蔵の「挂甲の武人」というわけである。
「挂甲の武人」の挂甲(けいこう)とは、薄い鉄板を短冊状(小札・こざね)にして縫い合わせ、肩から腰回りまでを覆う「うちかけ鎧(よろい)=小札甲(こざねよろい)」のことで、このほか頭には、頬や顎まで保護する頬当て、首や襟を保護する錣(しころ)、額(ひたい)を覆う眉庇(まびさし)の付いた冑(かぶと)=衝角付冑(しょうかくつきかぶと)をかぶり、両脚はおなじく小札でつくった佩楯(はいだて)や臑当(すねあて)を巻きつけ、手には籠手(こて)という完全武装。なおかつ、左手には弓を持ち、右手は今まさに剣を抜く瞬間の勇ましい姿を見せている。しかし、この勇壮な姿も戦闘の姿というより、当時の東国武士が儀礼に臨む際の正装を現していると見られている。
王の権力が強くなると埴輪の人物造形がいっそう写実的になり、巫女や武人、鷹匠、力士など身分や役割の職掌分担がはっきりする傾向は、秦始皇帝の兵馬俑やマヤの土偶でも見られる特徴だという。
このほか「はにわ」特別展では、高さ242cm、厚さがわずか2cmという日本最大で超薄型の円筒埴輪(奈良県桜井市メスリ山古墳出土・4世紀)や複雑な木組みや屋根の構造を持つ高床式3層構造の建物(大阪八尾市美園古墳・4世紀)や、中心の竪穴建物の回りに小さな建物4つを配した子持家形埴輪(宮崎県西都原古墳群・5世紀)など様々な形や大きさの家形埴輪が興味深く、また当時の船の構造が分かる船形埴輪の中には、高い側板や隔壁を備え並切り板で船底を深くし外洋も航海できる「準構造船」ともいうべき船形埴輪(模造、原品は三重松坂市宝塚1号墳・5世紀)など、当時の建築技術や造船技術の高さが伺える埴輪もあった。
といっても、紀元前2世紀の古代ローマ時代に彫刻されたミロのヴィーナスの美しさや、紀元前3世紀に造られた秦始皇帝陵の兵馬俑や銅車馬の写実性に比べたら、日本の3世紀から6世紀にかけての古墳時代の埴輪の技巧が見劣りするのは致し方ない。それには理由があって、葬礼に合わせて大量に手早く納入するために、工程の簡素化や手抜きが求められたからだという。
「埴輪は殉死の代用」というのは本当か?
ところで埴輪は何のために作られたのだろうか。
『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇の条には「かつて貴人が死ぬと、従者を墓の周りに生き埋めにする殉死の風習があった。垂仁天皇はこれを嘆き、止めさせようとした。この時、野見宿禰(のみのすくね)の発案で土部(はじべ)を集め、土の人形を作らせ墓に並べ、殉死の代用にした。これを埴輪という。」という埴輪の起源譚が述べられている。
しかし、日本考古学が専門の若狭徹・明治大学教授の『埴輪 古代の証言者たち』(角川ソフィア文庫2022・9)によると、日本の古墳の回りを調査しても殉死を証明する遺構は見つかってないことから、この話は虚構であることが分かっている、という。前方後円墳などから見つかる初期の埴輪は円筒埴輪が中心で、人物埴輪の出現は埴輪の歴史の中でも最後の時期、5~6世紀に当たることことからも、人物埴輪が殉死の代用だったという説は当たらないという。「野見宿禰は古墳造りや天皇の葬礼を司(つかさど)った土師(はじ)氏の始祖であり、日本書紀に書かれている埴輪の話は、この氏族の名声を高める伝承として挿入されたものだ」(同書p228)と若狭氏は書いている。
ところで、「殉死」とか「殉葬」という風習は、古代中国の殷・商(紀元前16~11世紀)の時代や、三国時代朝鮮半島の加耶(紀元1~6世紀)などでは盛んに行われていたことが遺跡の発掘調査から分かっている。
頭部が切断された人骨が大量に見つかった「殷墟」
例えば、甲骨文字が刻まれた大量の甲骨片や青銅器が見つかった「殷墟」と呼ばれる遺跡がある河南省安陽市侯家荘の王墓の周辺では、頭部が切断された無頭人骨が大量に見つかり、別の場所からは頭蓋骨だけが大量に見つかっている。1970年代に発掘調査が行われた侯家荘西北崗の王墓1550号墳からは頭蓋骨235個、1001号墳からは無頭人骨60体がまとまって発掘された。頭部を切断して別々の場所に埋めるのは死者の来世での復活を阻むためと言われる。
さらに時代が下って西周(紀元前11世紀~前770年頃)の時代の王墓からは「車馬坑」と呼ばれる遺構が各地で見つかっていて、豪華に飾り立てられた馬飾の馬車1台に2頭から3頭の馬の骨、それに殉葬者の人骨が見つかる例が多い。王の冥土への道行きに人馬が付き合わされた証拠かもしれない。さらに秦始皇帝の兵馬俑の周辺にはその地下施設を建設した労働者たちが、兵馬俑の秘密を守るために完成後に全員殺されたと見られる大量の人骨跡が見つかっている。
朝鮮半島では、例えば加耶諸国のひとつ「金官加耶」の王墓群「大成洞(テソンドン)古墳」(慶尚南道金海=キメ市)からは、王の遺体を納めた棺の回りに1人から5人程度の人骨が見つかるのが普通となっている。いわゆる殉葬といわれる埋葬の形式で、身近な親族や従者が殺され一緒に葬られたことが分かる。
また加耶最大の王国「大加耶」の巨大な王墓群「池山洞(チサンドン)古墳群」(慶尚北道高霊=コリョン市)の44号墳では、その殉葬者の規模は40人以上にまで増え、親族や従者だけではなく、死後、生まれ変わった時の生活を考え、侍女や護衛の兵士、馬を扱う馬夫や倉庫番といった一般庶民も犠牲にしていた。そうした殉葬者のための石槨墓も王の主槨の周りに30個あまり作られていた。
<KBSワールドラジオ日本語放送歴史ぶらり旅第38回 加耶の文化と古墳>
こうした中国の王墓や韓国の古墳の姿を見ると、殉死や殉葬の慣習がなかった日本の古墳の「ありがたみ」を改めて実感し、日本に生まれて良かったとしみじみ思うのである。
埴輪には王の治世を庶民に見せる役割があった
それでは殉死や殉葬の代用ではなかったとしたら、埴輪にはいったいどんな役割があったのだろうか。初期の円筒埴輪についていえば、祭祀用の壺やそれらを載せる特殊器台がその始まりで、のちに王の墓を魔物から守るための呪術的な意味合いを持たされ、王の棺がある墳頂部や古墳の裾に並べられるようになったとされる。またヤマト王権との繋がりを持ったことの証として列島各地に作られた前方後円墳は建築当初は白い石などで全体が敷き詰められていたが、そうした白く輝く墳丘の中に浮き出た赤い円筒埴輪の列は遠くからでも目立つように色彩的な役割があったのではないかと思われる。
円筒埴輪に続いて墳頂部に置かれたのは、被葬者の死後の住処(すみか)を表現した家形埴輪で、さらにその周辺には王の権威を象徴する武器や武具、王に差し掛ける日傘や王の椅子などの器財埴輪と呼ばれるものが並べられるようになった。そしてさらに時代が下ると、こうした家形埴輪や器財埴輪は、作り出しと呼ばれる墳丘の裾にも並べられるようになり、人々が見上げても見えない墳頂部ではなく、人々の目線と同じ高さの平地に人物埴輪や動物埴輪を含めて在りし日の王のマツリゴトや催事を再現するような埴輪群が置かれるようなる。踊る人や馬を引く人など人物埴輪にしても、鷹狩りや鹿狩り、鵜飼いなどの情景を現した動物埴輪にしても、そこにはストーリー性があり、埴輪を通して亡くなった王の治世を村人が追想し、その時代を偲ぶことができる仕掛けになっているとされる。
中国や韓国の古代墳墓に、王の在りし日の姿を庶民に見せるなどという発想はまったく見られず、おそらく生前の権力の大きさと、死後にも続く権威を死守するという考えしかないのではないか。
それにしても素朴で簡素な人物埴輪の目や口は、どれも刳りぬかれた穴で表現されるだけだが、そこから見える顔の表情はどれも優しさや穏やかさに包まれていて、見る側のこちらの心も癒やされる。そんなこころ穏やかで人々が満たされる時代がかつての日本にあったことを感謝したいと思う。
「はにわ」特別展は東京国立博物館のあと、九州国立博物館(太宰府市)でも令和7年1月21日~5月11日の日程で開催される。
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