テレサ・テンが歌に込めた思いと夢
テレサ・テン(鄧麗君)といえば、「アジアの歌姫」として日本でも多くの名曲を残し、6~70代の日本人なら同世代としてその活躍を記憶し、彼女の歌声に親しんだ時代があったはずだ。
彼女がタイのチェンマイで突然、喘息の発作で亡くなったのは1995年5月8日、42歳の若さだった。私はその時、たまたま台湾に居て、彼女の訃報に接した。それ以後、台湾のすべてのテレビ局は一日中、彼女のための追悼番組を編成し、台湾全体が彼女の死を悼んで厳粛で沈痛な雰囲気に包まれたことを記憶している。台湾の国軍兵士の間では彼女は「軍人の恋人(軍中情人)」というニックネームで呼ばれていたが、その台湾国軍の儀仗兵が彼女の遺体を空港で出迎え、その葬儀は国葬に準じる形で行われた。
1980年代の中国で西側の文化を警戒して保守派による「精神汚染」キャンペーンが行われていた頃、テレサ・テンの歌は不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)として扱われ、中国大陸では音楽テープの販売・所持が禁止されていたが、一般の庶民は海賊版を入手して聴くなど人気があった。そのころ「昼間は大鄧(鄧小平)のいうことを聴き、夜は小鄧(テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」などのジョークが流行ったほどだった。
歌を通して雄弁な民主活動家だったテレサ・テン
1989年5月、北京の天安門広場を占拠した学生に対して戒厳令が布告されるなかで、中国の民主化を支援するため香港の人たちは街頭に出て大規模なデモを行った。そして北京の学生を支援するための義援金を集める目的で開催されたのが、5月27日、香港のハッピーヴァリー競馬場(跑馬地馬場)で開催された「民主歌聲獻中華」(民主の歌声を中華に献ずる Concert for democracy in China)と題された民主化支援コンサートだった。
このコンサートにテレサ・テンは「民主中国万歳」と書かれた鉢巻きをつけて参加、30万人の観客を前に歌ったのが「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こうにある)という曲だった。
少し長いがテレサが歌った歌詞の全文と日本語訳を以下に紹介したい。
『我的家在山的那一邊』 (作曲:周藍萍 詩:王琛)
我的家在山的那一邊 (私の家は山の向こうにある)
那兒有茂密的森林 (そこには豊かに茂った森があり)
那兒有無邊的草原 (そこには果てしなき草原がある)
春天播種稲麥的種子 (春には稲や麦の種子を播き)
秋天収割等待著新年 (秋には刈り取り新年を待つ)
張大叔従不發愁 (張おじさんは愁いがなく)
李大嬸永遠楽觀 (李おばさんはいつも楽観的)
自従窰洞裡鑽出来狸鼠 (ヤオトンから狸鼠が出てきてからは)
一切都改變了 (すべてがすっかり変わってしまった)
它嚼食了深里的枯骨 (そいつは深く埋もれていた白骨を食らった)
侵毒了人性的良善 (人の善良な心に毒を入れた)
我的家在山的那一邊 (私の家は山の向こうにある)
張大叔失去了歡楽 (張おじさんは喜びを失い)
李大嬸収蔵了笑顔 (李おばさんは笑顔をしまい込んだ)
鳥兒飛出温暖的窩巣 (鳥は暖かな巣を飛び立ち)
春天變成寒冷的冬天 (春は肌寒い冬への変わった)
親友們 失去了自由 (親しい友は自由を失い)
抛棄了 美麗的家園 (美しい家の団欒を捨て去った)
朋友 不要貪一時歡楽 (友よ 一時の歓楽に従うなかれ)
朋友 不要貪一時苟安 (友よ 一時の安逸を貪るなかれ)
要盡快的回去 (できるだけ早く帰って)
把民主的火把點燃 (民主の火を灯そう)
不要忘了我們生長的地方 (我らの育った所を忘れてはいけない)
是在山的那一邊 (それは山の向こうにある)
山的那一邊 (山の向こうに)
<Youtube動画 「テレサ・テン『我的家在山的那一邊(私の家は山の向こう)』」 >
(日本語訳は「Hatena Blog Cosmopolitan’s Diary 2008-04-01」 を参照させていただいた)
歌詞の中にある「窰洞(ヤオトン)から出てくる狸鼠(リシュlíshǔ)」とは、毛沢東らが革命根拠地とした延安で、崖を掘って作った洞窟=ヤオトンを生活や仕事の場にしていたことを思い起こさせる。つまり、豊かな森や草原、作物が実る畑を荒らし、すべてを変えてしまった「狸鼠」とは、土地改革と称して地主や資産家を徹底的に弾圧し、その多くを殺害した中国共産党のことであり、「山の向こうにある我が家」とは、共産党によって追われ、香港や台湾に逃れた人たちの昔の家、つまりかつての故郷や祖国のことを指している。そして香港や台湾に逃れた人々は、自分たちの故郷を忘れて、一時の歓楽や安逸に溺れるのではなく、山の向こう、つまり自分たちの生まれた中国に早く戻って、民主の灯火を掲げよう、と呼びかけているのである。
希望が絶望へと変わった天安門事件
事実、そのころのテレサ・テンは、翌年の1990年に実際に中国に行き、コンサートを開くことを計画していたほか、北京の学生たちを支援するため、北京に行って学生たちの前で歌を歌いたいという希望を口にしていたという。しかし、香港でのコンサートから7日後、天安門広場に人民解放軍の戦車と陸軍部隊が突入、広場に通じる長安街周辺では一斉に水平射撃する解放軍の銃によって大勢の血が流れたのである。
それから4か月後、来日したテレサはテレビカメラの前で「香港でコンサートが行われた時には100%の新しい希望があった(We had new hope) のに、事件後には私たちの夢は殺された(killed our dream)」と話し、希望が絶望へと変わったことへの深い悲しみを語っている。
またTBSの歌番組に出演した際には、次のように語っている。
「私はチャイニーズです。世界のどこに行っても、どこで生活しても、私はチャイニーズです。だから、中国の出来事、すべてに私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、私は心配しています。私は自由でいたい。そしてすべての人たちも自由であるべきだと思っています。それが脅かされているのがとても悲しいです。でも、この悲しくて辛い気持ち、いつか晴れる。だれもきっとわかり合える、その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。」
<映像:「悲しい自由(悲傷的自由)」 1989年鄧麗君,請看獨白>
35年前の歌が今の香港そのものを歌っている
テレサ・テンは1989年の天安門事件を挟んで、その年2つの新曲を発表し、彼女の日本での20番目と21番目のシングルレコードを発売している。それは天安門事件前の3月に発売した「香港~HongKong~」と、天安門事件後の7月に発売した「悲しい自由」で、この「悲しい自由」のB面には「香港~HongKong~」がカップリングされていた。レコードを買った人は、テレサが天安門事件と香港に寄せる思いの深さを、この1枚のレコードで感じ取ることができる。その歌詞にはどのような言葉が紡がれているのか。
「香港 ~HongKong~」 (作詞:荒木とよひさ 作曲:三木たかし)
星屑を地上に蒔いた この街のどこかに
想い出も悲しみさえも いまは眠っている
この広い地球の上で 暮らしている人達
誰もみんな 帰るところをもっているはず
ああ 人はまぼろしの夢を追いかけて
生きているだけならば儚(はかな)すぎる
何故にわたしは 生まれてきたの
何故に心が 淋しがるの
(間奏)
銀色の翼をひろげ まだ知らぬ異国(くに)へと
いつの日か旅たつならば そばに愛する人
時が過ぎ 時代が変わり 若き日をふりむき
心だけが帰るところは きっとこの街
ああ 人は夢ごとの過去を懐かしみ
かえがたい優しさに 気付くけれど
何処へわたしは たどり着くの
何処へ心を 連れてゆくの
『悲しい自由』 作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかし
ひとりにさせて 悲しい自由が 愛の暮らしを 思い出させるから
ひとりにさせて 疲れた心が いつか元気を とりもどすまで
あなたを近くで愛するよりも 心の宝にしていたいから
So-long このまま 違う人生を So-long あなたの 背中見送るわ
(間奏)
ひとりにさせて 淋しい約束 何も言わずに 時のせいにするわ
ひとりにさせて 優しくされたら きっと昨日に 帰りたくなる
あなたのすべてを 愛するよりも 綺麗なお別れ 選びたいから
So-long 涙をいつか 微笑みに So-long 想い出だけを 置きざりに
So-long このまま ちがう人生を So-long あなたの 背中見送るわ
そこには、35年前の香港を歌ったとは思えない、まさに今の香港の情況を歌っているとしか思えないほど、胸に迫ってくるものがある。『悲しい自由』で歌われる「あなた」を「香港」に置き換えれば、「ひとりにさせて 淋しい約束 何も言わずに 時のせいにするわ ・・・綺麗なお別れ 選びたいから」と、香港を突き放したい気持ちは痛いほど分かる。テレサが愛した香港は、本当にどうなってしまったのだろうか?
(なおブログサイトや動画投稿サイトでの「歌詞の引用」は、JASRAC日本音楽著作権協会との間で結ばれた「利用許諾契約を締結しているUGCサービスの一覧」にアベマサービスも含まれているため著作権上の問題はクリアされています。)
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