憲法裁判所の弾劾審理で明かされる真実
非常戒厳を発令した尹錫悦大統領に対する弾劾裁判で、証人尋問と審理の焦点となっているのは、まず①として、戒厳令発布後、国会で戒厳令の解除案が決議されるのを阻止するため、国会に突入した兵士に対して、大統領が「斧で扉を破壊してでも本会議場の中に入り、国会議員を引っ張り出せ」と命令したかどうか、そして②、大統領や国防長官が与野党の代表など政界の要人15人前後を指名して、逮捕拘束を命令したかどうか、という問題に絞られ、この2点について、その真偽を確かめるために、関係した軍の司令官や国家情報院幹部に対する尋問内容に注目が集まっている。
そしてこの過程で明らかになったのは、この2点とも、野党「共に民主党」のある一人の議員が、裁判で証人に立った軍の司令官や国情院次長らに戒厳令直後に接触し、介在していたことだ。その後、証人らは国会や検察の調べに対し、上記の大統領の指示や命令があったことを証言し、この野党議員が証人の口裏合わせや証拠メモの作成に関与した疑いが濃厚となっている。つまり、尹大統領を内乱罪で陥れるために野党議員が自ら「謀略」を図り、「虚偽の大統領命令」をでっち上げたという「陰謀論」が急浮上している。過去の王朝時代から、いかにも何でもありの陰謀が渦巻いてきた韓国政界の歴史にふさわしい展開になっている、といえそうだ。
(弾劾反対集会2月8日東大邱駅前)
「国会議員を引きずり出せ」か「人員を連れ出せ」か
まず①の、国会議事堂の中に入った兵士たちに“斧で扉を破壊してでも本会議場に中に入り、国会議員を引きずり出せ”」と大統領が本当に命令したのかどうかについて。この証言は国会に派遣された部隊を指揮した陸軍特殊戦司令官の郭種根(クァク・チョングン)氏によるもので、検察による供述調書や起訴状によると、郭司令官は現場の国会構内にいた707特任団長や空挺旅団長に対し、「ガラス窓を割ってでも国会の建物内に進入し、本会議場の扉を斧で壊して議員たちを外に引きずり出せ。これは大統領の指示だ。電気を遮断しろ、と指示した」と記載されている。
これについて弾劾裁判での裁判官の尋問に対して、郭司令官は、12月4日午前0時30分ころ、指揮統制室にいた郭司令官に大統領から秘話フォンによる電話があり、「議決定足数が満たされていないようだから、いますぐに扉を壊して入って、中にいる人員を外に連れ出せ」と言われたと証言した。「国会議員」という言葉が、ここでは「人員」に変わり、この「人員」は「国会議員のことだと理解した」という。また「引きずり出せ」が「連れ出せ」にかわるなど、言葉使いが何度も変遷するために、裁判官からは当時の記憶だけを正確に証言しろと何度も注意される場面もあった。
また郭司令官は、「斧」という言葉は一度も使った記憶がないとして供述調書が間違いだと指摘したほか、「ガラス窓を破って中に入れ」や「電源を遮断しろ」などは、現場の指揮官と突入方法などをめぐって電話のやりとりする中で自分が発した言葉だとした。さらに驚くべきは、自分がいる指揮統制室のスピーカーフォンのマイクがオンになっている状態に気付かず、そうした現場とやりとりした内容や大統領や国防長官からの電話の内容は、現場の部隊にもそのまま中継される形で、情報が筒抜けになっていたと説明。検察の供述調書には、そうしたやりとりを聞いていた軍関係者の証言も含まれ、自身の証言と他人の発言がごちゃ混ぜになっているとも言い訳した。
さらに驚くべきは、郭司令官は12月10日に国会に召喚された際も同じような証言をしているが、弾劾裁判で裁判官から「なぜ黙秘権を行使せず、自首書まで書いて証言しているのか」と問われたのに対し、「自首書に“真実”を書いて、それを基準にすれば発言がぶれることがない」と答えた。確かに法廷では「自首書にそう書いている」といった証言が多く、聞かれたことにまともに答えず、関係のない、同じ内容を繰り返す答弁が多かった。しかし、これはあらかじめストーリーを作り、それに従って発言することで、後でウソがバレて国会や法廷での証言に偽証罪が適用されることがないようにという「工作」の臭いがする。
国会に突入した兵士15人で「指示」実行は不可能
この郭司令官の証言に対し、反論の機会を与えられた尹大統領は次のように陳述している。<私が郭司令官に電話をしたのは、当時、テレビ画面で見た国会周辺の状況が数千人の市民が集まり混乱している状態だったため、現場の状況や安全問題などを確認するためで、その際、報告を受けながら『ところで郭司令官は今どこにいるのか?」と尋ねると、彼は「私は現在、指揮統制室にいます」と答えました。そこで私は「では、この状況を映像で見ているのですね」と言い、「お疲れ様です」とだけ伝えて、すぐに電話を切りました。>
その際に「議員」という言葉も「人員」という言葉も使わなかったとしたうえで、当時、国会内に突入した兵士の数はわずか15人で、国会職員らが消火器を噴射するなどの抵抗を受けて後退せざるを得ない局面にあった。わずか15人の兵士で150人とか190人の国会議員にどう対処しようというのか。尹大統領は次のような疑問を投げかける。
<「そうした現場の状況を把握している司令官が、百歩譲って「国会議員を引きずり出せ」という大統領の発言を聞いたとして、ただ「分かりました」とだけ答えて電話を切ったというのは理解できない。軍人や公職者として、上官の指示を受ける側は、その指示が「不当だ」などと抗弁する前に、(たった15人しかいない現場の兵士だけで命令を実行するのは不可能だと判断し)「現実的に条件が厳しくて、その命令は遂行不可能です」と答えるのが基本だ」>
「人員」を「国会議員」にすり替えた野党議員の策謀
尹大統領の論理は、至極まっとうで、はるかに常識的に聞こえる、と思うがどうだろう。そして尹大統領が指摘したのは、郭司令官がこうした証言をするようになったきっかけは、12月6日に野党の朴善源(パク・ソンウォン)議員と一緒に出演したYoutube動画の中でのやりとりだったという。以下は朝鮮日報が伝えたその動画部分のやりとりである。
<これは、野党『共に民主党』の金炳周(キム・ビョンジュ)議員が開設している「ユーチューブ」番組を通して中継されたもので、その動画を見ると、郭司令官は、戒厳当時の国会における兵力配置状況などを説明する中で「本会議場に一部入っていった人員がおり、外に一部の人員がいたが、わたしがその措置をしながら(金竜顕)前国防長官から国会議事堂内にいる人員を、要員を外にちょっと抜け出させろ(と言われた)」と発言していたことが判明した。すると朴議員はすぐに「議員を引っ張り出せ(と言ったのか)」と言い、金議員も「国会議員を」と合いの手を入れた。すると郭司令官は「はい」と答えた。>
<朝鮮日報1月25日「国会議事堂から『要員を抜け出させろ』→『議員を引っ張り出せ』 郭種根・元司令官の証言、共に民主議員にすり替えられていた」>
つまり、国防長官から「抜け出させろ」といわれた国会議事堂内にいる「人員」あるいは「要員」は、「兵員」のことだったかもしれないが、パク・ソンウォン議員がこれを「議員」と言い換えて引き取ったことで、郭司令官はその後もずっと「(自分も)国会議員のことだ理解するようになった」と証言するようになったという訳である。
政治家逮捕リストの「一枚のメモ」からすべては始まった
次に②の、大統領や国防長官が与野党の代表など政界の要人15人前後を指名して、逮捕拘束を命令したという問題。この証言をしたのは国家情報院第1次長の洪壮源(ホン・ジャンウォン)氏で、尹大統領の内乱罪を証明する「唯一の物証」だとして、一枚のメモを提示したのもこの人物である。そのメモには野党の李在明(リ・ジェミョン)共に民主党代表や禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長、与党国民の力の韓東勲(ハン・ドンフン)前代表、曹國(チョ・グク)祖国革新党代表など15人前後の名前が列挙され、その下に「1班、2班逐次検挙後、防諜司令部拘禁施設にて監禁調査。検挙要請(位置追跡)」と書かれていた。
(ペン・アンド・マイク 2月7日の画面より)
ホン次長によると、このメモはもともと呂寅兄(ヨ・インヒョン)防諜司令官から聞き取った逮捕拘束者リストを、その夜、真っ暗な中で書き取ったため、自分でも何を書いたか正確には分からず、補佐官に名前の部分を清書して書き取らせ、「検挙要請(位置追跡)」と書かれた下の2行はメモ原本にはなく、自分であとから追記したものだという。
このメモが重大な意味を持つのは、尹大統領の弾劾と内乱罪捜査はまさにこの一枚のメモから始まったからだ。与党代表だった韓東勲(ハン・ドンフン)代表は、このメモに自分の名前があったことに激怒し、元々弾劾に反対していた与党「国民の力」を、このメモを契機に弾劾賛成の方向に向けたことは間違いない。まさに弾劾訴追と内乱フレームは、この一枚のメモがトリガーになったのである。
つじつまの合わない国情院次長のウソが次々曝露
ところで、尹大統領は戒厳令宣布の12月3日夜8時22分、洪第1次長に電話をしているが、これは国家情報院長の趙太庸(チョ・テヨン)氏の米国出張がその翌日に予定されていたが、尹大統領は趙院長がすでに出張中であると思い込んでいた、そのため、趙院長の代わりに第1次長に電話し、「このあと重要な指示があるので待機するように」と指示したという。そして洪次長はこの時の尹大統領からの電話で「政治家逮捕」に関する指示を受けたと国会など証言している。
洪次長はKBSとのインタビューで「尹大統領とは普段から直接、頻繁に報告し、信頼されていると思った」と語っているが、実際は、尹大統領は洪次長と1対1で面談したこともなく、個別に連絡を取ったことも一度もなかった。また尹大統領の電話のあと、2時間後に非常戒厳が宣布されるまでの間、まだ国内にいた趙太庸院長に尹大統領から電話があったことを何も報告していなかった。それにもかかわらず、非常戒厳宣布の12月3日夜、趙院長に対して、「政治家逮捕」の指示を報告したと主張している。しかし、趙太庸院長は「洪次長からそのような報告を受けたことは全くない」と憲法裁判所で証言している。
<朝鮮日報2月7日「国家情報院長に『逮捕指示は誤報』と答えた洪壮源第1次長、国会では『尹大統領に指示された』と陳述、つじつまの合わない「第1次長発言」>
ところで洪次長は、大統領との電話のあと呂寅兄(ヨ・インヒョン)防諜司令官に電話し、逮捕すべき政治家リストの情報を得たと国会などで証言している。しかし肝心の呂防諜司令官は、自分が被告となって別の刑事裁判を控えていることや、部下を守るためとして、憲法裁判所では陳述を拒否し、洪次長の言い分に関してはほとんど何も答えていない。
しかし不思議なのは、国家情報院第1次長の担当は海外や北朝鮮に関することで、国内の捜査や逮捕への権限はなく、メモには「位置追跡」と書いているが、そのための装備も要員もなく、位置追跡などはじめから不可能だった。またメモには政治家を検挙したあと「防諜司令部の拘禁施設にて監禁調査」と書かれているが、呂防諜司令官自身が防諜司令部には拘禁施設などないと憲法裁判所で答えている。ではなぜ、すぐにバレるようなウソをわざわざメモにしたのか?この点を憲法裁判所の裁判官にしつこく聞かれ、ついにはメモ自体が不合理であったことを自ら認めざるを得なかった。
自作自演の「逮捕メモ」を内乱の「唯一の物証」と主張?
そして、実はこのメモが作られた裏にも、共に民主党の朴善源(パク・ソンウォン)議員が介在していた。朴議員がいうには、国情院の洪第1次長と防諜司令部の呂司令官が交わした電話から漏れてきた声を補佐官が聞き取り、それをメモしたと自身のYoutube番組で曝露している。そしてメモの存在を国会で公にし、大統領による内乱の証拠だとして政界全体を巻き込んで拡大したのも朴議員だった。
では、朴善源(パク・ソンウォン)議員とはいったい何者なのか?
1985年ソウルのアメリカ文化院占拠事件で首謀者として逮捕され、2年6か月の懲役刑を受けている。当時、「三民闘」(民族統一、民主奪取、民衆解放闘争)という反米学生組織の委員長だった。その後、盧武鉉の選挙スタッフを務めて青瓦台入りし、統一安保戦略秘書官を務めた。このときの仕事として、盧武鉉政権が掲げた戦時作戦権を米軍から返還させる政策に実務的に関わり、2007年の南北会談実現の実務を担当した。北朝鮮の魚雷攻撃で爆沈した天安艦事故では、北朝鮮の主張にそって北の仕業ではないと事件への関与を否認し、韓国軍当局から告訴されている。
「親北・従北」の野党議員が仕掛けた謀略の罠
青瓦台を離れた2008年以降は、中国系巨大資本グループと手を結び仁川ミダン市のカジノなど巨大複合リゾート団地の開発を計画したが失敗するなど、様々なロビー活動や巨額の資金の流れへの関与が疑われている。2017年から文在寅陣営の選挙キャンプに入り、当選後は、上海総領事を務めた。上海といえば、北の工作員やエージェントとお茶を飲むようにいつでも簡単に接触できる場所でもある。その後、国家情報院や企画調整室長を務めたが、「三民闘」委員長を務めた人物をスパイ捜査や国家安保情報を扱う国情院に入れたとして問題視された。実際に、彼が勤務した時期に多くの内部情報がリークされ北に流れたのではないかという疑惑や内部調査が多かったといわれる。その朴が文政権で試みたのが休戦協定を「終戦宣言」に変えるというアイデアだった。終戦宣言すれば米軍駐留の大義名分はなくなり、米軍撤収に繫がる。これは北朝鮮が南北会談で一貫して主張し、交渉の条件としてきたことで、「終戦宣言」という迂回作戦でそれを実現しようとしたのが朴善源(パク・ソンウォン)議員であり、「従北」は、学生時代から骨の髄まで一貫した信念だった。
<ペン・アンド・マイク2月7日「内乱の物語は一枚のメモから始まった〜帰ってきた検察尹錫悅、国家情報院1次長が記したメモ」>
朴善源議員に関する以上の経歴や人物像を見ただけでも、「謀略」をめぐらすにはうってつけの人物だといえるが、しかし、今回の弾劾訴追、内乱工作の裏には従北左派の議員一人の存在や謀略だけで実行できるわけがなく、背後にはもっと巨大な勢力、李在明代表の共に民主党をはじめ、反米反日で親北親中を標榜する左派勢力の一大結集が介在していることは間違いないと思われる。
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