「甲冑を着た武人」の発見から14年~馬と前方後円墳を訪ねる旅~①

最近、古代史に嵌まっている。縄文時代や古墳時代の遺跡は、いままで知らなかっただけで意外と身近なところにもあり、そこからの発掘品は地元の博物館や展示館でも気軽に目にすることができる。「さきたま古墳群」など関東各地にも多く存在する大型の前方後円墳を訪ね、豪華な副葬品の数々を見学するたびに、改めてわれわれの祖先たちが歩み、築いた日本独特の歴史や文化に魅せられている。

そんな中、群馬県立博物館で7月10日から8月30日まで開催中の「ヨロイを着た古墳人がみた世界」という企画展をのぞいてみた。群馬県渋川市の金井遺跡群の発掘調査で、榛名(はるな)山の大噴火で火砕流に埋もれたことにより、地表から3メートルの地中で、よろいを着た男性の人骨が見つかり、大ニュースとなったのは2012年11月、いまから14年前のことだった。まるでポンペイの遺跡のように古墳時代のリアルな生活の跡が復元できる資料として、去年9月には出土品が国の重要文化財に指定され、これを記念しての特別展だという。

                    (「ヨロイを着た古墳人」の発掘当時の姿)

榛名山山麓はかつて馬の放牧場だった

実は、この14年前の金井遺跡群の発掘調査から分かったことは、いまから1500年前の6世紀初頭の大噴火で埋まった榛名山の東側山麓一帯は、当時の東日本で大規模な馬の放牧が行われた御牧(みまき)の一つで、ヤマト政権に献上する官用馬の最大の生産地だったということだった。それは、「ヨロイを着た古墳人」が見つかった遺跡から少し離れた別の遺跡群で、子供の人骨2体と馬の全身骨格3体、それに当時の地表面から多数の馬の蹄(ひずめ)跡が見つかったことなどから分かったことで、10歳と8歳前後の子供は馬を引いて、あるいは乗馬して、火山の噴火から逃れるため避難する途中だったと推定されている。そしてその馬の年齢は、大臼歯の状態から判断して1歳から2歳のまだ若い2頭の馬(性別不明)と3~4歳のメスだったことが分かっている。これは、3歳以上の牡馬(オス)は放牧地を離れて調教され役馬として貢納されるため、放牧地には2歳までくらいの若い馬しかいなかったこと。また3歳以上の牝馬(メス)は繁殖用としてのみ飼育されるため、この榛名山山麓は馬を繁殖させ、子馬を育てる専門の飼育場・放牧地として機能していたことを証明している。

さらに、「ヨロイを着た古墳人」がその骨のストロンチウム解析から、渡来系の親を持つ子孫で、群馬より西方の地で生まれ育ち、その後、榛名山山麓に移住した人物で、この地域のリーダー的存在であるとみられることから、馬の生産、飼育技術を身につけた渡来系の専門家集団の一員だと推定されている。

             (火砕流で埋もれた当時の地表面から発掘された人と馬の足跡)

「馬の登場」は人類の世界観を変えた

ところで、人類にとっての馬の登場、つまり馬を家畜化し、初めて人間の大切なパートナーとなった時代は、それまでの人類の世界観、地球上での地理感覚を大きく変えるほどの出来事、エポックだった。馬を最初に家畜化し、馬に乗る、という技術を開発したのは、現在のウクライナの草原に暮らしていたスキタイ人であった。それ以前、紀元前3000年頃のフランスやスペインの洞窟壁画に描かれた馬は、食べる対象、つまり狩猟用の食料だった。スキタイ人は紀元前8世紀から3世紀にかけて黒海北岸のウクライナの草原を中心に、ユーラシア内陸で活動した遊牧騎馬民族で、彼らが長距離の移動が可能な騎馬技術をもてたのは、蹄鉄や轡(くつわ)といった鉄製馬具、それに戦闘用の武具を作る鉄生産と金属加工能力を持っていたからだ。そのスキタイの人々は馬を駆使し高い騎馬戦闘能力を持つことで、草原の道(ステップ=ロード)を経てユーラシア大陸の東と西をつなぎ、人類に移動革命をもたらし、鉄を作る文化など東西の文化交流が実現したのである。つまり、馬の登場とともに人類の地球を見つめる目は広がり、世界に対する見方・考え方や生活のあり方も大きく変わったといえる。

                     (火砕流の下から見つかった馬の全身骨格)

日本でも「馬の登場」によって列島の東西が結ばれた

同じようなことは、馬が本格的に導入された5世紀から6世紀の日本列島についてもいえる。馬の登場によって、それまで瀬戸内海ルートや日本海ルートを中心に船と港を介した移動・交流が中心だったところに、人や物資の輸送も可能な内陸ルートが開拓され、とりわけ畿内のヤマト政権が東日本の地域と関係を持ち、東日本に勢力を拡大するきっかけをつかんだのである。つまり、馬の登場によって移動革命が起き、日本列島の西と東がはじめて繋がったのである。

さて、ヤマト政権が馬を導入し、本格的な馬の生産を最初に行ったのは、現在の大阪府四條畷市、生駒山地西麓にある蔀屋(しとみや)北遺跡の付近で、かつてここには「河内牧」と呼ばれた地域があり、日本書紀には「河内馬飼(かわちのうまかい)」という記述がみられる。しかし、馬の生産には広大な牧野が必要であり、馬を囲い込むための広大な未利用地の確保が必要だった。そうした馬の大量生産のための「御牧(みまき)としてヤマト政権が指定したのがシナノ(長野)、上野(かみつけ・群馬)、甲斐(山梨)、そしてムサシ(埼玉)だった。このうち信濃では今の飯田市にあたる天竜川西側に広がる河岸段丘が選ばれ、群馬では榛名山東麓の現在の渋川市が御牧にあてられた。いずれも火山性地形という共通点があり、それまでは人跡未踏の原生林だったと思われる。このうち金井遺跡群がある渋川市周辺では馬を囲い込む柵や飼育小屋などの遺構が見つかっているが、飯田市には、そうした馬の放牧のために遺構は見つかっていない。おそらく河岸段丘による急峻な崖や山から流れる川によって作られた谷が、馬を囲い込む放牧地の自然の区画となっていたとみられている。

馬の生産と同時期に出現したのが「前方後円墳」

ところで、この御牧が作られたのとほぼ同時期に作られたのが、大型の前方後円墳である。かつて群馬県内には13、000基を越える古墳が存在したといわれ。現存する古墳だけでも2434基を数える。このうち高崎市の「綿貫古墳群」には、半径400メートル圏内に墳丘の長さが100mを越える大型の前方後円墳が4基ある。なかで6世紀後半、古墳時代の最後に築造されたのが綿貫観音山古墳で、埋葬者が収められた巨大な横穴式石室の内部は、奇跡的に未盗掘の状態で発掘され、埋葬当時のままの大量の副葬品がみつかった。それらの多くは中国や朝鮮半島からの舶載品で、埋葬者であるこの土地のリーダーが東アジアの国々とも外交的な関係を持っていたことを伺わせるものだった。

こうした国内でも同例の発見例はごくわずかだといわれる貴重な副葬品の数々と、綿貫観音山古墳の周囲や丘頂部に置かれていた人物埴輪や家形埴輪などは、すべて国宝に指定され、いま群馬県立歴史博物館の国宝展示室に陳列されている。

一方、同じく御牧として選定された飯田市にも多くの前方後円墳が現存し、長野県内のほとんどの古墳は飯田市に集中しているといわれる。飯田市考古博物館によると、飯田市にはかつては520基を越える古墳があり、そのうち18基の前方後円墳と4基の帆立貝形古墳が現存し、今から10年前の2016年にその多くが国の史跡に指定された。

飯田市の古墳は、ヤマト王権とのつながりを象徴するように、畿内で築造された古墳の形式をその当時に、そのまま移植したのが特徴だという。例えば、ヤマト王権の古墳で横穴式石室が採用されれば、東日本でももっとも早い時期に横穴式石室が飯田の古墳でも作られるようになり、また、ことし世界遺産に選ばれた「飛鳥・藤原京」の石舞台古墳のように、石室の巨石化が進めば、飯田の古墳でも同じく巨石化の傾向がいち早く見られたりした。このように、飯田古墳群はその時代ごとの古墳の特徴を伝えているため、飯田市は「飯田は古墳の博物館」を標榜し、全国の古代史ファンにその魅力をアピールしている。

長くなるので、ここで稿を改めるが、続きは飯田市の馬に関連した遺構と古代人の馬に対する特別の思い入れ、について述べてみたい。

                  (群馬の古墳から見つかった馬と馬を引く人の埴輪)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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