“中共=外来政権/台湾=漢族正統政権”を浮き彫りに 台湾侵攻映画の怪

<一本の映画が中国共産党の合法性に疑問を投げかけている>

実際に1683年に起きた清朝軍による台湾侵攻を描いた映画『澎湖海戦』(The Battle of Penghu)は当初、7月25日に公開予定だったが、その6日前になって突然、公開が取り消され、宣伝やチケットの前売りも全面停止したことが明らかになった。新たな公開日は発表されず、この映画の公開取りやめに関する報道は、今年2月に続いてこれで2度目だという。公開停止の背景には、何かと鳴り物入りの宣伝で話題となったこの映画が、ウクライナやイランでの戦争が続く中での台湾侵攻をテーマとし国際的な関心を集めた一方、台湾問題をめぐって中国人自身の複雑な民族感情を刺激し、北京政府と一般庶民との間の歴史認識に大きなずれが生じ、ネットの世界では中国共産党支配の正統性に関する議論にも発展してきたことが関係しているようだ。

<「清朝=外来政権」vs「南明・鄭氏台湾=正統政府」>

映画の舞台となった「澎湖海戦」とは何だったのか?まず当時の歴史を整理しておきたい。満州女真族が北方で勢力を拡大し「後金」から「清」に国名を変えたのが1636年。その清が「李自成の乱」を契機に山海関を越え、北京を占領したのは1644年だった。このとき、明の17代崇禎帝が自殺し明朝は滅びるが、その一族は南の南京まで撤退し「南明」と称して亡命政権をつくり、1662年まで18年間続いた。つまり清朝は建国後も長い間、反清勢力の「南明」や「三藩の乱」(1673~81)と呼ばれる地方の半独立勢力を平定する戦いに明け暮れていたのである。

そのころ、台湾を治めていたのは鄭成功の一族で、「反清復明」をスローガンに異民族の清政権の支配に抵抗し、沿海部の住民とともに「南明」を助けるために活躍した。鄭成功の本来の名前は鄭森で、その功績に対し、南明の皇帝は明王室の姓である「朱」と「成功」という名を賜与した。鄭森は「朱」と名乗るのは辞退し、これ以後、鄭成功を名乗ったが、国から姓を賜った男という意味で、人々は彼のことを「国姓爺」とも呼び慣わすようになった。承知のように、この鄭成功の活躍と台湾をめぐる明と清の争いは、近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」を通じて日本人には馴染(なじ)みのある物語となっている(「国性爺」の「性」は近松の当てた字だという)。

国姓爺のエピソードが示すように、とりわけ沿海部の住民の間では、鄭成功の人気は高く、鄭成功とともに密貿易を行う人々も多かった。このため清朝政府は、沿岸30里(約20km)に居住する住民を強制的に内陸部に移住させる「遷界令」を1661年に施行した。それだけ沿海部の住民と鄭成功の結びつきが強かったことを示している。活動の場を奪われた鄭成功は台湾に拠点を移し、翌年、病死するが、その後を引き継いだのは息子の鄭経で、これ以後を「鄭氏台湾」と呼ぶ。

<「台湾統一は誰にも止められない」を宣伝文句にした映画>

この間20年余りにわたって清朝は10回も使節を送り、帰属を呼びかけたが、鄭経は拒否し続け、満清支配の象徴でもある「弁髪」も受け入れず、分離独立勢力として台湾の地歩を固めていた。1681年、鄭経の死後に鄭氏政権内で内紛が勃発すると、康熙帝は、かねてから「武力による台湾平定」を提言していた将軍の施琅を福建水師提督に任命し、台湾の攻略を命令した。

さて、その最初の戦いとなった「澎湖海戦」だが、台湾から西へ50㎞、台湾海峡の真ん中に大小90の島々がつらなる澎湖(ほうこ)諸島がある。1683年7月、施琅は2万1000人の兵と238隻の軍船で澎湖諸島の周囲を取り囲んだ。対する鄭氏側は14か所の砲台と20里(約8キロメートル)以上に及ぶ塹壕を築いて応戦したが、約8時間に及ぶ激戦の末、鄭氏側の艦船194隻が撃沈され、将校300名と兵士1万2000名が戦死、鄭氏側はわずか31隻の船を率いて台湾へ敗走した。一方、清軍側の損害は戦死者329名、負傷者1800名余、艦船の喪失はなく、清軍は澎湖の13の島々を奪うことに成功した。その1か月後、施琅は台湾も制圧し、翌1684年、康熙帝は台湾を正式に清朝の版図に組み入れた。

映画『澎湖海戦』の予告編では、康熙帝が「台湾を攻めてこそ、天下は円満に治まる」(“攻下台湾,還天下一個圓滿”)と命令を下すシーンがあり、最後には「台湾統一は誰にも止められない」(“统一台湾,势不可挡”)と大写しされた政治スローガンで締めくくられる。

Youtube「电影《澎湖海战》最新预告」

まさに習近平が7月1日の共産党創設105年式典での演説で「台湾問題を解決し、完全なる祖国統一の実現は、わが党の揺るぎない歴史的任務」(解决台湾问题、实现祖国完全统一,是我们党矢志不渝的历史任务)「台湾独立勢力に断固として打撃を与える。外部勢力の干渉を許さず、必ず祖国統一の大業を実現する」(坚决打击“台独”分裂势力,反对外部势力干涉,坚定推进祖国统一大业)と大言壮語したように、まさに台湾への軍事侵攻も辞さない姿勢を地で行くような映画でもある。

新華網7月1日「庆祝中国共产党成立105周年大会在京隆重举行-新华网」


<施琅が民族の英雄なら、売国奴・汪兆銘も秦檜も英雄では?>

ところで、この映画『澎湖海戦』をめぐって、「小粉紅」(Xiǎo fěnhóngシャオフェンホン)と呼ばれる愛国主義的な若者たちがネット上で巻き起こしているのが、鄭成功と鄭氏台湾こそ正統な明の後継政権であり、満清・異民族政権に仕えて台湾を攻めた施琅こそ、民族を裏切った逆徒ではないかという議論だ。そしてネット上では、施琅が民族の英雄であるならば、日本に協力して親日傀儡政権をつくった汪兆銘(汪精衛)も、金に協力して和議を結んだ南宋の宰相で売国奴の代名詞となっている秦檜も、同じく民族の英雄ではないか、という言説が公然と飛び交っている。

実は共産党統治下で歴史教育を受けてきた今の中国の若者たちの間では、「漢民族中心の歴史観」が強まっており、清朝は“外来征服王朝”であり、満清が北京を占領し明朝が滅んだ1644年は民族が断絶した年と見なすのだという。これを「1644史観」と言うのだそうだが、ネット上では、「満清=侵略者」「康熙帝=外族支配者」「施琅=漢奸」という感情的評価が強くなっている一方、「1644史観」、つまり漢民族中心の歴史観を重視する潮流の中では、鄭成功(国姓爺)はオランダを台湾から駆逐し、満清という異民族支配に抵抗し、台湾を“漢人の地”として守った民族の英雄であり、鄭氏台湾の「明鄭政権」こそ、南明の正統を掲げた「漢民族政権」だという評価に繋がっているのだという。

<中国共産党政権を「後清=ポスト清朝」と呼ぶネット民>

そして、そこから導き出されるのは、台湾との統一を目指す今の中共政権こそ、清朝と同じ外来政権であり、中華民国・台湾こそ漢民族中心の正統政権だという考え方である。ネット民の間では「後清」という言葉が、中国共産党政権の体制を指す言葉として使われている。「後清」とは「ポスト清朝」という意味で、清朝の体制を引き継いだのが今の中共政権という考え方だ。中共政権と満清外来政権との間には共通点が多く、どちらも暴力によって政権を樹立した異質の征服者であり、清朝の最大版図である領土の保全を掲げ、清朝が果たせなかった「統一」の夢に執着していること。中共政権が「中華民族」を標榜するのに対し、清朝は「華夷一家」を掲げ民族の団結を訴えたことなどだ。

そして中共政権が清朝をモデルとして崇拝していることは、その専制支配や辺境統治の手法に現れている。弁髪を強制したりイデオロギーの一致を強調したりすることは、人民の全体主義的専制支配の方法そのものであり、チベットやウイグルなど辺境を征服し異民族を統治する手法は多民族国家をまとめる宿命として共通しているからだ。清朝の征服と専制のモデルこそ、中共政権が学ぶべき理想の国家の姿かもしれない。

<政権の正統性は中国共産党ではなく台湾にあると解釈>

一方で、「改革開放」と「市場経済の拡大」という鄧小平路線が崩壊し、不動産不況からの脱出口が見えず消費の落ち込みが続くなか、「人民を豊かにする」という中共政権が寄って立つ正統性(レジティマシー)も失われたままだ。そうしたなか中共によって大陸を追われた「中華民国」の台湾では、自由と民主主義、言論と報道の自由がある。そして台湾では儒教・仏教・道教という中国の伝統が途切れることなく続いている。その意味では、中国文化を破壊したのは中共政権であり、中国文化の守り手は台湾だということになる。

毛沢東は「銃口から政権が生まれる」と言った。今も「軍権を握る者が最高権力者だ」というのが中国共産党の論理だ。一方で、台湾は「投票箱から政権は生まれる」を合い言葉に、民主的な選挙が行われ、投票を通じて有権者が自由な意思を表明し政権選択ができる。中共の専制独裁体制と台湾の民主政治と比較すると、中共のそれはあまりにも時代遅れで説得力に欠ける。そして今の若者を中心とするネット民は、そうした共産党の論理の破綻を鋭く見抜き、漢民族中心主義に立った場合、漢民族の文化と伝統を継承しているのは中国共産党という外来征服政権ではなく、むしろ台湾ではないか、という議論が、まさに映画『澎湖海戦』を契機に湧き上がってしまった、というのが実態なのである。

<「1644史観」は漢民族中心主義の史観>

近年中国のネット上で広がる「1644史観」は、清朝は外来征服王朝であり、満清=“悪い王朝”だとするイメージが歴史教育によって刷り込まれたことに由来する。そうした見方が盛り上がるなかで、この映画が清朝の台湾統治を肯定的に描くことで、中共政府の歴史叙述と漢民族中心主義に立つ民間の議論が衝突することとなった。映画の公開予定日のわずか6日前に突如、公開を中止するという事態に追い込まれたのは、この映画が若者を中心とする一般のネット民と中共政権の間での歴史観の分裂を一気に可視化してしまい、中共政権としてはそうした歴史観の分裂や揺らぎが政権の命運にもかかわる重大事だと認識したからではないのか?

以上の議論やネット民の反応は以下のYouTube映像を参考にした。

从骂战到吃瓜:《澎湖海战》为何让 “统一” 共识分裂?“康熙换种说” 又是如何终结争吵?

《澎湖海战》的预告为何引起这么大的争议?答案就在“施琅”身上

しかし、「漢民族中心主義」といっても「漢民族」という概念が生まれたのは、20世紀の初頭になってからで、今の中国人の殆どは「漢族」という範疇には入らないはずだという学説もある。<呉鋭著『你不可能是漢族~百年民族魔呪大破解~』(あなたは漢民族であるはずがない・百年民族の呪いを解く)台湾・八旗文化2020/5)>

「漢民族五千年」の歴史を云々し、「中華民族」の「大一統」などというものが存在したとすること自体が虚構なのである。歴史を書き換えることは前政権を倒した歴代王朝の権利でもあるが、しかしその歴史叙述が一般民衆の感覚と一致しないときは、その王朝の正統性が疑われることになる。つまり中国共産党も自らが創り出した「歴史叙述」の呪縛によって自らの首を絞める結果になっている。ゆえに歴史の記述とは好き勝手に行うべきものではないことを示している。

ところで映画『澎湖海戦』の予告編をみて、海戦の場面は、韓国で2020年に公開された「鳴梁(ミョンリャン)」という映画と酷似していることが気になった。「鳴梁」は秀吉の朝鮮出兵の際に李舜臣率いる水軍が日本の水軍と戦って勝利したとする海戦を描いた映画だが、どちらの映画も、当時の人の手で櫂を漕いで動かす木造船がまるで内燃機関をもつ現代船のように海上を高速で動き回り、豪快に大砲をぶっ放すのである。明らかに現代人の感覚で海戦を描いているが、喫水の浅い船が大砲を撃ったらその反動で船がひっくり返るのは、物理学の常識でもある。過去の歴史を描く映画はそのように虚飾に溢れていて、それが歴史の真実であるとはけっして信じてはならない。

映画「鳴梁(ミョンリャン)」については、以下の過去ブログを参照して欲しい。

(「秀吉の朝鮮出兵にも「勝った」と嘘に染まる国① | 富士の高嶺から見渡せば」)

(「秀吉の朝鮮出兵にも「勝った」と嘘に染まる国② | 富士の高嶺から見渡せば」)


富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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