中国ハト派外交官の悔やまれる死

中国外務省でスポークスマンや駐仏大使などを務めた呉建民氏の訃報が飛び込んできた。6月18日、湖北省武漢で交通事故に遭い死亡したという。77歳だった。

ことしに入って、「南京大虐殺記念館は中国軍人の恥辱だ」と発言したり、「南シナ海の九段線のなかは中国の領海だという主張を、中国政府はしたことがない」などと新聞で証言し、いろいろと物議を醸し、話題にもなった。実は、そうした発言のあったことし3月北京外交学院で行った講演の中身や、「環球時報」に寄稿した記事を訳出し、このブログに掲載した翌日に、訃報記事を目にすることになった。習近平政権の対外強硬政策のなかで、中国のハト派を代表する良識派の重鎮であり、平和外交の重要性を訴えてきた呉建民氏には、まだまだ活躍とその発言を期待していただけに、突然の死は悔やまれる。

外交学院での講演では、中国の歴史を振り返り、過去の過ちを素直に認め、平和の道を進む大切さを分かりやすく説いているほか、「環球時報」の記事では、中国の主権を主張する立場に立ちつつも、南シナ海問題の外交による平和的な解決の重要さを訴えている。しかし、こうした至極、穏健なハト派的な立場に対して、ネット上では「売国奴、漢奸」などの罵詈雑言が浴びせられている。

彼の考え方や問題意識を知る手がかりにもなるので、北京外交学院での講演の全文と、呉建民氏が南シナ海問題について「環球時報」に寄稿した記事を和訳して以下に改めて掲載する。

*******************

▼呉建民の北京外交学院での講演(2016年3月30日)

 (原文は以下のサイト http://www.21ccom.net/html/2016/zlwj_0331/2889.html )

1、世界を正確に知る重要性

現代の世界は、反省の時代で、全世界が同時に反省している。このようなことは人類の歴史でも初めてのことだ。権威を崇拝するのは必要だが、同時に独立した思考も必要である、この思想が正しいかどうか検証し、さらに実事求是を堅持する。実践は、真の理性を認識し検証する唯一の基準だ。

(略)中国には世界を理解する人材が必要であり、世界に向かって中国のことを説明できる人材が大いに必要なのだ。

われわれ中国人は、この数百年の間、なぜ落後したのか、理解する必要がある。私の兄は軍の少将だが、南京大虐殺記念館は中国軍人の恥辱だといっていた。なぜ中国は外国人の侵入を許したのか、なぜ中国の軍人は一般人を保護できなかったのか。重要なのは中国が立ち遅れていたことだ。中国人はなぜ世界から脱落したのか?

  

世界の大きな変化はこの600年間に起きている。1492年コロンブスが新大陸を発見した。しかしコロンブスよりも早く、1405年から1433年にかけて、鄭和の大航海(中国では「西洋下り」と呼ばれる)が行われた。私はシンガポールで開催された「一带一路」展覧会の会場で、鄭和の大航海で使われた「宝船」を見て、驚いた。会場入り口の正面に巨大で立派な舳先が展示されていた。鄭和が航海に使った艦隊は60艘から70艘の船で編成され、船員は合わせて2万8000人、堂々たる規模を誇った。一方、新大陸を発見したコロンブスはたった3艘の船で乗組員は87人だった。その差は歴然で、あの当時、中国の造船技術は世界最先端で、それはたいしたものだった。

鄧小平によれば、中国は明の成祖朱棣(しゅてい:永楽帝1402~1424年)の時代は開放的だった。しかし、その後は鎖国政策や海禁政策を実施し、海を渡って外に出ることを許さず、違反すれば首を切った。鄭和が大航海で使った艦隊は、当時、世界最強の艦隊だったが、その後は海に出ることが許されず、最強最大の艦隊も海の中で朽ち果て、最先端の造船技術も見捨てられた。

鄭和の大航海は、中国の歴史で世界に向かって大きく発展するチャンスだった。このチャンスを中国人自身が見捨てた。その後の中国人がもし鄭和の大航海という道に沿って歩んだとしていたら、世界の歴史は書き改めていたし、中華民族の過去100年の恥辱の歴史もなかったかもしれない。

その後にも、チャンスはあっただろうか?開放の機会は、清の康煕・乾隆帝の時代にもあった。彼らは繁栄を築いた立派な皇帝だった。満州族の皇帝は漢族の皇帝とは違い、馬上の民族で、馬を駆って辺境の国土を切り開くことを重視した。中国の国土面積を890万平方キロまで拡大させた。のちに300万平方キロは失ったが、590万平方キロは残った。康熙帝は中国の歴史上でも非常に有能な皇帝で、世界に関心を持ち、当時中国に来た外国人宣教師を招いて当代の最新の科学知識を学んだほか、当時、欧州では工業が興隆していたことをすでに知っていた。康熙帝は、ジュンガル部族の叛乱を鎮圧する際、西洋式の銃を輸入し、大きな効果を発揮した。 

故宮博物院の院長から、清朝時代の故宮には100人以上の外国人が暮らし、故宮は外国人にも開放されていたという話を聞いた。同時代の外国の皇帝として比較できるのはロシアのピョートル大帝である。康熙帝は1654年生まれ、ピョートル大帝は1672年生まれ。康熙帝は8歳で、ピョートルは10歳でともに幼いときに皇帝になった。康熙帝は欧州には良い物があるのを見て、宣教師に講義をしてもらった。ピョートル大帝も、側近の大臣から、欧州に行って実際に見てみるのが一番だといわれ、200人の随員を連れて欧州に行った。旅先では人目に触れないよう粗末な服で旅行した。視察は一年半に及び、ロシアに戻ったあと、積極的に国外と交流する開放政策を実行した。彼には、ロシアを発展させる方策が見えていた。ピョートル大帝の有名な言葉がある。「私に20年を与えてくれれば、まったく新しいロシアを作ってみせる」。プーチンも言った。「私に20年を与えてくれれば、強大なロシアを作ってみせる」。ピョートル大帝はその言葉を実行したが、プーチンはできるかどうかはまだわからない。

 ピョートル大帝は「開放」で成功した偉大な皇帝だった。彼がどうして亡くなったかも、面白い。1724年の晩秋、セントペテルベルクを視察中、人が海に落ちるのを目撃した。ピョートル大帝自ら水に飛び込んで救助し、人は助かった。しかし、皇帝自身は風邪をひいて、その病から回復せず、数ヵ月後に亡くなった。こんなことは中国では発生するはずがない。皇帝が海に飛び込んで人を助けようとしたら、皇帝に仕える宦官(太監)が必ず制止するからだ。ピョートル大帝の行為は、ルネサンス(文芸復興)や啓蒙運動の影響を受け、人の生命を重く見ていたからだという。思想の持つ力は大きい。

 このころ、もし康熙帝が同じく外国を訪問し、対外開放をしていたら、その後の中国の屈辱の歴史は発生しなかっただろう。

 中国はどうして立ち遅れたのか。中国は人材が乏しいわけではないが、なぜ発展の機会を失ったのだろうか? 強大な「慣性の法則」が働き、2000年間、ただ内を見るだけで外を見なかった「惰性」があったからだ。惰性的な考え方が危険なのは、人々が事を為すとき、何のためかを問わないことにある。習慣が自然となる、というのは恐るべきことだ。

私は1991年から1994年まで外交部スポークスマン(発言人)だった。国家主席にも総理にもスポークスマンはいなかったため、外遊の際には同行した。あるとき江沢民は「毛主席も鄧小平も偉大だが、毛主席は改革開放を提起せず、鄧小平が改革開放を提起したのはなぜだと思うか?」と聞いてきた。私は、二人には外の世界を知る経験に大きな差があったからではないか、と言った。

毛主席は生涯で外国へ出たのはたった2回で、いずれもソ連だけで、西側世界には行ったことがなかった。鄧小平は1920年10月、16歳でフランスに行き、1926年1月、21歳のとき、フランスを離れソ連に行った。16歳から21歳は人生のなかでも最も多感で重要な段階だ。

毛沢東との違いは明らかで、個人の胆力と識見、能力はその人の経歴と大きな関係があり、見ると見ないでは大きな違いがある。今日、中国人が外国に出るのは、いいことだ。世界を見る、見ないでは、まったく違う。なぜなら文明間の対話は、人類文明の進歩の源泉だからだ。鄧小平はフランスに行った経歴があり、改革開放を唱えた。これはつまり文明の対話の結果なのである。

今日の中国は、閉鎖的な惰性を消し去る必要がある。ある人は悲憤慷慨してこういった。改革開放30年といっても、儲けは皆、西洋人が持ち去るだけで、中国人には血と汗で稼いだ金しか残らない。こうした話には道理があるように聞こえるが、こうした考え方を掘り下げると改革開放は是か非かということになる。中国の発展は一歩一歩進むだけで、いきなり高みに飛び上がれるわけがない。開放的な考え方ではだめだというのでは、中国は失敗する。閉鎖的な考え方こそ警戒しなければならない。長期間、閉鎖された惰性的な考え方は、自覚する、しないに関わらず、人の行為に影響しているからだ。

 現代において、およそ世界を正確に認識しているとき、国内の方針も比較的に正確なもので、われわれの事業も大きく前進させることができる。一方、世界を誤って見ているとき、国内の方針にも問題が出て、われわれは大きく失敗するものだ。 

1946年、中国国内で議論が巻き起こった。毛主席は4月、「現下の国際情勢に関するいくつかの見通し」と題する1ページ半の文書を書いた。第1、世界大戦は先延ばしされる。第2、米ソの間で早晩、妥協が生まれる。第3、資本主義反動派との関係は、消滅できるものは先に消滅させ、消滅できないものは後で消滅させる。これらの認識は正しかったので、中国は大きく前に踏み出すことができたのである。

1958年党8期第6回中央総会のコミュニケは、「現下の国際情勢の特徴は、敵がますます衰退していくのに対し、われわれは日々向上している」とした。私は1959年大学を卒業し、外交部に配属された。それ以後、通算25年、外国で暮らしたが、今振り返って見ると、58年は西側の世界は日一日と衰えていくというのは、完全に間違いで、まったく逆の見方だ。そのため国内の方針も間違い、大躍進やら、英国を追い越し米国に迫るといった誤った政策を推し進めた。多くの資料がいま機密解除されている。58年6月、毛主席の頭はさらに熱くなって、英国にはあと3年あれば追い抜ける。米国にはあと10年で追いつける、といった。

7000万人が粗鋼生産に従事し、みな狂ったようだった。私も製鉄(練鋼)に参加し、鋼炉長を務めた。作業は楽しかった。夜、夜食を食べても無料で、お腹いっぱい食べることができた。しかし、調子のいい時間は長くはなかった。59年、60年、61年と飢饉となり、多くの人が死んだ。国家の統計によれば、それ以前は毎年1000万人の人口増加があったのに、この数年間はまったく増加はなく、逆に1000万人以上も減少した。世界を見誤り、国内方針を誤り、中国人は大失敗したのだ。

それから20年後の1978年10月、鄧小平が日本を訪問した。これは外交上、非常に重要な局面で、中日関係はやっとうまくいくようになった。このとき鄧小平は「日産」の工場を視察した。中国最新鋭の長春自動車工場の労働生産率と比較すると、日産は数十倍あることが分かった。鄧小平は、何が現代化なのかをはっきりと理解した。帰国後、三中全会を開催した。

以上の3つの例は、世界を正確に認識することがいかに重要であるかを説明している。

2、世界は大きく変化している

 第二の問題は、世界が大きく変化していることだ。

私は多くの大学に行き、学生らに現在の世界の最大の変化は何かと聞いてみる。ある人はグローバル化だといい、情報革命だという人もいる。それより大きな変化は、時代のテーマが変わったことだ。今の時代のテーマは、「戦争と革命」から「平和と発展」に移り変わった。この時代のテーマの変化は、国際関係のなかでの最大の変化だ。

 羅援将軍とフェニックステレビで討論したとき、彼はとても強気で「手を出すといったら手を出す」といった。私は「戦争をしたいのか?」と聞いたら、彼は答えなかった。私は「あなたは時代錯誤を犯している」と言った。

何を時代のテーマというのか?第一は、そのときの世界の主要な矛盾を反映していること、第二に、その主要矛盾を解決する道筋を示していることだ。

 現在、多くの人が「戦争と革命」という従来の思考に囚われ、米国には勝てないが、フィリピンには勝てるなどと、みな戦争を想い描いている。全く時代を間違えている。

2011年、911同時多発テロから10周年に際し、ワシントン・ポスト記者の取材を受けた。彼は「中国は911の最大の受益者だ」と言ってきたので、私は違うといった。ウクライナ危機についても中国は今後10年の発展のチャンスを迎えたという人もいるが、これも正しくない。どうして他人の不幸を望むのか。他人が失敗したから自分の運が向いた。中国人はどうしていつも他人の不幸を喜ぶのか、と外国人は見ている。いわゆる戦略家と呼ばれる人は、時代のテーマの大きい脈絡に立脚するものだ。環球時報はしばしば極端な文章を発表するが、去年、胡錫進編集長が私を環球時報のフォーラムに招いた。前置きがあって、彼はこの世界についてめちゃくちゃなことをいった。私はあなたの目には全局が映っておらず、世界の大勢を見ていない、主流を押さえていないと言った。彼は新聞社の編集長で学問もあるが、その彼でさえ大局を把握していない、これが今の中国の姿なのだ、と思った。

世界は進歩しているのか、退歩しているのか?私は進歩していると見ているが、一部の人は戦争が目の前に迫っていると悲観する。当然、われわれは強大な国防力が必要で、各国の軍隊はみな戦争の準備をしているが、一方でわれわれは情勢をいかに客観的に正確に見積もるかも大事なことだ。2014年11月、北京でAPEC首脳会議が開催され、習近平は安倍やオバマと会談した。このあと国内の戦争に関する議論は、熱気が減退した。

時代のテーマは変わった。それには多くの原因があった。二度の世界大戦の惨劇や辛い経験が教訓になった。国連が設立され、国連憲章も作られた。国連の役割も注目しなければならない。なぜ、もはや革命の時代ではないと言うのか。人が生きていけるのは、絶対革命のためではない。革命の時代は過ぎた。(東欧の旧共産圏や中東イスラム国での)「カラー革命」は成功しなかった、ソロスもそういっている。今、世界では貧富の格差が拡大し、困窮している人は多い。だからこそ問題を解決する発展が必要であり、発展がテーマとなるのだ。

3、中国外交

 中国の外交戦略とは何か?拡張せず、覇を称えず、同盟せず、の「三不」(しない)と、平和、発展、協力の三つが必要だとする「三要」だ。

「同伴しても同盟せず」と習近平主席は言っている。中国が同盟できないのは、一度同盟すれば、新たな冷戦が始まり、中国も世界も迷惑するからだ。

中国は多くの問題に直面し、発展に頼らなければ解決できない。中国人の現段階での最大の利益とは何か?この問題をはっきりさせれば、問題はうまく処理できる。これはまさに鄧小平が言った「発展には道理がある」ということであり、最大の利益とは発展の勢いを保持することだと思う。孫子の兵法の「勢篇」にもあるとおり、形勢がよくなればやりやすくなる。「時来たりて天地みな力を同じくし、運去りて英雄も自由ならず」

外交が弱いことを嫌うのは常に軍だ。国防大学で講義すると、彼らは外交問題を必ず聞いてくる。私は、ここ三十年間の中国の発展は、党中央の正確な方針なくしてはありえず、中国外交に功労はない。硬軟いずれも手段であり、どっちが難しいかといえば、やわらかいほうだ。硬いとは、相手から殴られればこっちは相手の脛を蹴飛ばすことで、これは3歳の子供でも分かる簡単なことだ。道理をもって談判し、ソフトパワーを示す、これは難しい。まず相手があなたを好きになり、あなたがしゃべることに相手は反感を示さなくなる。これこそソフトパワーであり、外交なのだ。もとから大権は中央にある。外交部が自ら主張したものは、何もない。大事はすべて中央が決めたことで、中央に意見があっても中央には言わない。

 中国の現在の形勢は、アヘン戦争以来初めて、勢いが失われ、再び取り戻す必要がある。若い人が私の年齢に達しても取り戻せるとは限らない。中国は力をつけたといっても、完全に発展したわけではなく、少なくともまだ30年,50年必要だ。しっかり記憶し、夜郎自大になってはならない。

*******************

『環球時報』への寄稿

南シナ海問題は冷静に、全局を見渡し、信念をもって当たる必要がある。

少し前のボーアオ・フォーラムで、南シナ海問題に関する第3回分科会が開かれた。テーマは「共通認識を集め、互いの信頼を深め、協力を促進する」だった。アジア、北米、欧州、豪州の4大陸から13の国、100人余の代表が出席した。私も初めて出席し、この分科会の司会を務めた。私はまじめに各国代表の発言に耳を傾け、会合では中国側、外国側代表とも交流を深めることができた。南シナ海問題は冷静に、全局を見渡し、信念をもって当たる必要があると感じた。

南シナ海の緊張状態は誇張されている

「冷静に」とは、南シナ海問題を処理する際に、問題の本質を掴むのに必要なことだ。盲目的に西側メディアに従って走ってはならない。

ここ数年、国際的なメディアは南シナ海問題について大量の報道を行い、話題沸騰している。まるで南シナ海問題はすでに一触即発の状態で、戦争はすぐ目の前に迫っているかのようだ。メディアによっては、「南シナ海は世界でもっとも危険な地域」だと称している。しかし、フォーラムの分科会での各国代表の共通認識は「これらのメディアは南シナ海の情勢を誇張している」だった。

確かに、南シナ海関係国の間では、厳しい意見の対立が存在する。各国とも相互に防衛的な措置を講じているが、域外国の介入によって、この問題の複雑性も増加し、一定のリスクも存在している。ただし、この地域の緊張は、中東地域で現在進行している紛争と比較して、同列に論じるべきではない。

ある域外国の学者が鋭く指摘したことだが、米国のメディアは中国政府の立場を歪曲している。中国は九段線の内側は中国の領海だと認めているというが、中国政府は従来からこのような話をしたことはない。この学者は米国のメディアに対してこうした観点を明確に説明したが、彼の観点が報道されることはなかった。

南シナ海問題の本質とは何か?南シナ海問題は歴史が残した領土の争いであり、アジアの勃興という背景のもとで発生したものだ。戦後の国際関係で際立った特長はアジアの飛躍だ。アジアの飛躍はまさに国際関係の重心を大西洋から太平洋に移している。これは国際関係のここ数百年でもっとも注目される変化だが、この変化の過程はまだ未完成だ。アジアは飛躍の過程で各国の関係では、一定の調整や相互の適正化の過程を必ず経ることになり、領土の争いも出来することもありうる。鄧小平同志は早くも1984年にこの点を予見し、主権は我々が有するが、争いは棚上げし、共同開発するという方針を提案した。鄧小平の示した方針は、依然として中国政府の南シナ海問題を処理する上での指導方針であり、アジアでも国際的にも、この方針に賛成する人は多くなっている。

南シナ海問題を全局面に置いて見る

「全面的に見る」とは、まず世界のなかのアジアを全局的に見ること。フォーラムでは、アジアはグローバル経済の中でもっとも活力があり、成長率も最も早い地域だという認識で一致した。2015年アジアの世界の経済成長に対する貢献は44%に達した。世界では経済の復元力は乏しく、各種の難題に直面している今日、アジアの成長は世界経済にとってますます重要になってきている。

平和と安定はアジアの成長の前提となっている。世界には、南シナ海での戦争誘発をその政策目標にしている大国や国家集団は一つもない。アジアの成長はみな必要で、戦争を起こすことは、自分が自分に恐縮することとは違う。

「全面的に見る」の第2の意味は、南シナ海問題は、主権を主張する関係国間のひとつの問題だが、彼らの間の関係を支配するすべてではないということだ。隠し立てしてもしょうがないが、主権を主張する関係国間の意見の相違、それぞれの立場の違いは大きい。関係国間の利益も隔たりがある。しかし間違いないのは、共通の利益は隔たりよりはるかに大きい。

中国とフィリピンの関係を例に挙げると、南シナ海問題は2010年以後に顕在化してきた。ただし2010年の中比貿易は277億ドルで、2015年には430億ドルまで上昇した。南シナ海問題で両国の間には大きな意見の相違があるといっても、両国間の貿易の伸び率がこれほど大きいのは、いかなる作用が働いているのか。それこそ共同の利益だ。

「全面的に見る」の3つ目の意味は、南シナ海問題で立場の違いがあっても、みな平和的な解決に賛成しているということ。平和的に争いを解決する、これはフォーラムに参加した各国代表の共通認識だった。

第4の意味は、各方面の立場から受け入れられないのは、一度成立したら不変だということだ。フィリピンは、国際法院の仲裁という方法で争いを解決したいと考えているが、仲裁は双方が受け入れればいいが、一方が受け入れなければ仲裁は成り立たない。歴史上、国際的な仲裁が役割を果たさない例はしばしば見られる。フォーラムに出席したアセアンの代表は私にこう言った。ことしはフィリピン大統領選挙が行われ、アキノ大統領の任期は終わる。新しい政府が前の政府の立場を踏襲するかどうかは観察が必要だ、と。

南海問題は必ず妥当に解決できる

「確信がある」というのは、南シナ海問題は最後にはきっとうまく処理できると信じることだ。時代のテーマは「戦争と革命」から「平和と発展」に変化した。時代のテーマは、ひとつの時代が直面している主要な矛盾を反映し、また矛盾を解決するための道筋を示している。 かつては戦争は比類なき威力を持っていた、国と国との争いが外交手段で解決できなければ、武力に訴えるしかなかった。しかし、21世紀に入り、米国はアフガン、イラク、リビアで3つの戦争を発動したが、これらの戦争ではいかなる問題も解決することはなく、中東と北アフリカを混乱させ、これらの地域を長期にわたり、休むことのない動乱と衝突に陥れただけだった。戦争では問題を解決できない。平和と発展こそ問題を解決できる。中国の30年余りの大きな発展、そして国際社会と協力して達成した大きな進歩こそ、その有力な例証ではないか。

第二に米中ともに戦争は考えていない。中国が今、目の前にしている発展のチャンスは、1840年アヘン戦争以来初めてのもので、発展の勢いを維持することは21世紀中国の最大の利益だ。中国の国防戦略は防御的なもので、進攻的なものではない。独立自主と平和的外交政策は中華人民共和国成立以来の一貫した外交政策である。鄧小平はかつて次のように指摘した。大規模な外敵の侵入があれば別だが、中国はひたすら経済建設にまい進する。事実を重視する観点から見ても、中国が直面する脅威と挑戦はあっても、外敵による大規模な中国侵略の可能性はない。戦争しないことは、我々の平和的発展戦略によって決定されたことだ。

米国も戦争を考えているとは思えない。中国に対し何か面倒を起こしたいと思っているかもしれないが、中国と南シナ海で戦争をするつもりは米国にはない。アフガン問題さえ解決できなかった米国に、どうして中国との戦争など起こせようか。

第三、共通の利益がしからしめること。国家間の関係を決定するのは共通の利益の多寡だ。今日、米中間の関係、中国とアセアンとの関係、中国とその他の国との関係も、共通の利益は互いの発展のなかにある。

米中間に意見の隔たりや摩擦があれこれあったとしても、米中間の共通の利益は発展にあることは間違いない。3月31日、習近平主席はオバマ大統領とワシントンで会談し、双方は一連の共通認識に達したことは有力な例証だ。米中間の共同利益は発展し、まさに各領域、各レベルで利益共同体を形成し、これは両国関係の基礎をますます堅固にしている。

南シナ海問題をうまく処理するには曲折や困難、挑戦があるとしても、この問題は最終的には適切に処理できるはずだ。それは、この地域の各国の間の共同利益が必要としていることだし、アジアならびに世界の平和と安定、繁栄が必要としていることだからだ。(筆者は中国外交部外交政策諮問委員会委員、前駐仏大使)


*********************

(参考)アポロ新聞網2016年4月8日

中国外務省の元高官呉建民は、2016年3月、外交学院で行った講演「今日の世界を正確に認識しよう」の中で、2014年APEC首脳会議で、習近平が安倍首相やオバマ大統領と会見したあと、戦争を論じる中国国内の熱狂が次第に減退した、と披瀝している。

中共外交学院のウェブサイトによると、3月30日、中共外交部外交政策諮詢委員会委員で外交学院前院長の呉建民は、集まった500人の学院生を前に「今日の世界を正確に認識しよう」をテーマに講演した。彼は当面の中国外交の原則として「3つの必要と3つの不要」を語った。この原則が示すところは、政権中枢は当面の戦争拡張政策を避け、平和協調の国際環境を得ることだという。

呉建民は戦争論を宣揚する羅援は時代錯誤を犯しているという。彼と羅援はフェニックステレビで論争を交わしたことがり、そのとき呉は羅に対し、「あなたは戦争は必要と思っているのか?」と聞いたところ、羅は答えなかったという。

呉建民はまた、2014年11月、APEC首脳会議で習近平が、安倍首相やオバマ大統領と会見したあと、戦争を論じる中国国内の熱狂は次第に減退したと明かした。

呉建民は2016年初めに発表した文章で、「2014年は冷戦が終息したあと、戦争について語られることが全世界で最も多かった一年だった」と書いている。国際世論の一部は「東アジアが世界で最も危険な地域」だと認めてさえいる。同時に、中国国内の一部の人も世界情勢を非常に厳しく観察し、中国の戦略の恵まれた機会は蘇ることはなく、「中米は必ず一戦を交える」、「中日間の一戦は必至」などと見ていた。彼が全国各地に行くと人々が次々と「呉大使、戦争はあるのでしょうか?」と尋ねる。このような問題を人々が聞いてくるのはここ30年間で初めてのことだと回顧している。

そういえば、2012年初めに起きた重慶事件では、江沢民派が勢いを失い、その後、江沢民派とその影響下にあったメディアは、不断に挑発し、戦争を起こすことを企図して、情勢をかき回した。彼らが幕の裏で演出したのが釣魚島事件であり、9月18日の大規模な反日デモだった。

2012年8月15日には、香港の「保釣行動委員会」の一行14人が乗った「啓豊2号」が尖閣諸島に到着し、そのうち魚釣島に上陸した7人が逮捕拘留された。この行動は、日中関係に火に油を注ぐ結果となった。

報道によると、香港特別行政区のトップ梁振英は周永康や曾慶紅に指令を受けて、暗に「禁海令」に背き、「保釣船」の尖閣行きを許した。周・曾と呼応するためだった

当時、江沢民派は胡錦濤や温家宝などに圧力を加え、尖閣問題を通して戦争を誘発したいと考え、軍政管理を実行し、特別戦時体制を敷いて、18回党大会での政権交代を先延ばしにし、江沢民派の政治局常務委員会での権力を継続させようとした。この間、大陸各地では大規模な「反日デモ」が発生し、9月18日にそのピークに達した。一部の都市では、組織的な喧嘩や焼き討ち、銃撃などの暴力事件も見られた。さらに個人の自家用車には「釣魚島は中国のもの、薄熙来は人民のもの」という標語も張り出された。これらには政法委員会や公安系統が直接関与し、かき回したことを示す多くの証拠がある。

周永康、曾慶紅が共同して策動。梁振英はその後、その年の9月に行われたAPEC首脳会議に本来は出席予定だったが、突然、中国当局から取り消され、参加できなかった。その後、胡錦濤、習近平は互いに手を結び反撃に出て、18回党大会前に周永康の計画を粉砕した。釣魚島事件は、中国社会をほとんどコントロール不能な局面にまでした。2012年9月ウラジオストクで行われたAPEC首脳会議に、当初出席予定だった梁振英は、突然、北京から出席を取り消された。その後、胡锦涛と習近平は手を握って反撃に出て、18回党大会前に周永康の計画を握りつぶした。

2014年9月17日から19日にかけて、習近平はインドを公式訪問した。18日、習近平はニューデリーでインドのムカジ大統領と会見した。海外の報道によると、モディ首相が習近平を招いて晩餐会を開く1時間前、中印国境の紛争地帯カシミールのダラクで、1000人前後の中共軍兵士が臨時道路を造ると称して侵入した。習近平はこのことを知らず、モディ首相に対して、カシミールの情勢について詳しいことは分からないと訴えた。即時に1500人のインド兵士が派遣され、モディは習に対し、軍部隊に撤収を要求。19日になってもなお中共軍は占拠を続けたが、習のインド訪問が終わると同時に双方の軍は撤退した。

当時、海外の分析では、中共軍のインド侵入はモディ首相の習近平に対する歓迎宴のさなかを選んで行われたもので、その目的は中印首脳会議をかく乱し、習近平の面子に泥を塗るためのもので、インド侵入を命令したのは江沢民派の軍内幹部であることは間違いなかった。海外メディア「新紀元」の独自情報によると、習近平は中印国境での事件を知ったあと、非常に怒り、同時に正気を逸した。この事態は、インドの民衆にどう説明しようとも困難だった。習近平は帰国すると直ちに軍に火を放ち、厳しい粛軍を開始した。

その直後、ネット上では中共軍委副主席郭伯雄が審査を受けているという情報が流れた。2014年9月21日、習は全軍参謀長会議を招集。10月30日から11月2日にかけて、習は軍の高級将校400人を福建省古田镇に集め、「全軍政治工作会議」を開催。席上、習は徐才厚の罷免案を初めて公にした。http://www.aboluowang.com/2016/0408/720640.html


富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

0コメント

  • 1000 / 1000