南シナ海は古来より「中国」の海にあらず

南シナ海は、中国による人工島埋立てと軍事拠点づくりで、いまや一触即発の「火薬庫」と化している。『南シナ海――アジアの覇権をめぐる闘争史』(THE SOUTH CHINA SEA The Struggle for Power in Asia河出書房新社 2015年12月)の著者ビル・ヘイトン(Bill Hayton)によれば、「南シナ海は中国の野心がアメリカの戦略的意思と初めて正面からぶつかった場所だ」とし、かつてのバルカン半島と同様、かりに「オーストリア皇太子」が撃たれる、といったような不測の事態が起きれば、どうなるか分からない、と物騒にも次の「世界大戦」さえ暗示する。

強引な海洋進出を進める共産中国は、<南シナ海は古代より「中国」の領海・領土だった>と強弁するが、そんな言い分に根拠がないことは、ビル・ヘイトンのこの本を読めば、つぶさに理解できる。

ビル・ヘイトンは、先史時代まで遡って南シナ海地域の変遷をたどり、人々の移動や交流の足跡を考察するとともに、海洋の主権をめぐる国際法の歴史的経緯、海底資源をめぐる国と企業の攻防などを詳細かつ縦横に論じ、南シナ海問題の本質を掘り下げている。

南シナ海は「海上の民」ヌサンタオが暮らす海域だった

考古学や人類学、言語学などの最新の研究成果で明らかになってきたのは、東南アジア、南シナ海周辺地域に暮らした人々は、先史時代から、遠く南太平洋やインド洋まで地球を半周するような広い範囲の海を自由に航海して移動を繰り返し、海上ネットワークを構築し、活発な交流で文化や技術を伝え合いながら、豊饒な海の恵みを享受してきたという事実だった。

<アメリカの言語学者ロバート・ブラストによると、台湾、ハワイ、イースター島、ニュージーランド、マレーシア、マダカスカルという遠く離れた地域で話されている1000を越す言語の間に共通点が見つかった。その意味するところは何千何万マイルという大洋に隔てられた(地球を半周するほどの距離である)人々が、文化的ルーツを同じくしているというのだ。ブラストの言うところでは、これらのルーツをたどっていくと、およそ5500年前の台湾で話されていた単一の言語に行き着くという。かれはこれを「オーストロネシア祖語」(Austronesian )と呼び、この言語がいかに多種多様に枝分かれしていったかを示した。そしてそれに基づき、東南アジアの島々じゅうにオーストロネシア語が広がっているのは、人々の移動、新たな地域への入植、そして農耕などの技術の拡散と関連があるという説を生み出した。これは「出台湾(Out of Taiwan)」モデルと呼ばれている>(P22)。

一方、南シナ海の沿岸では、今でも船の上で暮らし、海で生計を立てる「海の遊牧民」とも呼ぶべき人々が各地に暮らしている。フィリピンの「海のジプシー」と呼ばれるパジャオ族、マレーシアのパジャウ族、インドネシアのオラン・ラウト、中国南部の蛋民(たんみん)、ベトナムのダン族などは、今でもその多くは海上や沿岸部で生活し、漁労や交易で生計を立てている。それだけでなく、中国からベトナム、タイにかけての地域全体にいまでも海の民の共同体が存在し、何千年何万年と基本的には同じ暮らしかたをしているという。東南アジア文明の起源を研究したアメリカの人類学者ウィルヘルム・ソルハイム(Wilhelm Solheim)によれば、彼らは海や川伝いに移動しながら、漁労や採集や交易で生活し、半遊牧的な共同体をつくり、絶え間ない交流で情報や技術を四方八方に伝える海上ネットワークの役割を果たしてきたという。ソルハイムは、オーストロネシア語の「南の島」と『人々』を意味する言葉から、「ヌサンタオ」(Nusantao)という造語を作り、彼らをそう呼んだ。

<ヌサンタオは帆と櫂の力で広大なネットワークを生み出した。そしてナマコをオーストラリア北部から中国南部の食卓に運び、バナナの木をニューギニアのジャングルからマダカスカルの庭園に運んだ。そして行き来するたびに、モノや知識や文化がこちらからあちらへ、あちらからこちらへと伝わっていった>(p27)

ソルハイムは、このモデルを「ヌサンタオの海上交易・通信ネットワーク」と呼んでいる。

「海洋民族」ヌサンタオが築いたと思われる王国には、メコンデルタ一帯、いまのカンボジアや南ベトナムを支配した「扶南」(1~7世紀)、ベトナム中央部に多くの遺跡を残した「チャンパ王国」(漢籍では「占婆」「林邑国」など、192年 ~1832年)、インドネシア・スマトラ島やマレー半島を支配した「シュリーヴィジャヤ王国」(漢籍では「室利仏逝」、3世紀~14世紀)などがある。そして、これらの王国が残した巨大な塔や寺院の遺跡は、ベトナムのチャンパ遺跡やカンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドールやプランパナンなど、東南アジア一帯には何十か所も点在しているが、ひと目で分かるとおり、それらはすべてがインド風で、中華文明の影響はいっさい見られないことだ。これらの壮大な寺院を建設したヌサンタオの人々は、何世紀もの間、東南アジアとインドの間を行き来し、インドとの交易を通じて思想や技術を吸収し、豊かになっていった。

<3世紀の中国の文献に、当時この海を往来していた「マライ人」の船についての記述が残っている。それによると長さ50メートルを超え、帆は四枚、700人の乗員乗客と600トンの積荷を運べたという>

<扶南は、商取引の一大中心地になり、ペルシャ人、インド人、中国人、そして東南アジア全域からやってくる商人の集散拠点となった。中国の影響は無視できないものの、扶南の文化的・政治的な手本となったのはインドだった。扶南の支配層はヒンドゥー教を信仰し、インドふうの名前をつけ、インドの支配層の政治思想を借用した。都市の設計すらインド式をまねているように見える>(P32)

いっぽう中国の船が、南シナ海を渡って航海したという考古学的記録が現れるのは、やっと10世紀になってからだ。<中国外交部がそのウェブサイトに「後漢(西暦23年~220年)の楊孚が『異物志(珍しいものの記録)』と題する書で南沙諸島(スプラトリー諸島)に言及している」とする記述と矛盾するが、ヘイトンは「現存する証拠を見る限り、楊孚は独自に航海して調査したのではなく、港にやってきた外国の商人に話を聞いただけではないか>(P31)とみる。

以上見てきたように、中国政府が「南シナ海は古代より中国に属してきた」との主張とは裏腹に、それを示す考古学的な証拠や歴史的な文献資料はどこにもなく、実際に南シナ海を行き来し、そこで暮らしてきたヌサンタオの人々が残した建造物や文化遺産からみても、当時の「シナ大陸」の影響はまったく受けていなかったことが分かる。つまり、当時のシナ大陸の人々は、南シナ海まで船で渡ってくることはめったになく、南シナ海全域を勢力下に置き、支配したなどということはなかったのである。

そのことは、東シナ海の沖縄・琉球や尖閣諸島をめぐる状況とまったく同じで、尖閣諸島を含む東シナ海の島々を日常的に行き来し、魚をとり、そこを生活の場としてきたのは古くから沖縄の海人(ウミンチュ)や倭寇に代表される海洋民族たる日本人たちであり、海を恐れ、海を遠ざけてきた「シナ大陸」の人々ではなかった。

平和的外交だったという「鄭和の大航海」の大うそ

歴史の真実を偽り、自分らに都合よく書き換えるのは、シナ大陸に住む人々の習性で、いまに始まったことではないが、南シナ海問題にも絡み、世界を相手に大ウソを吐いた最たるものは、「宦官の大航海」として知られる鄭和を、当時の「門戸解放」、「平和的台頭」という政策のイメージキャラクターに祭りあげたことだ。

鄭和の業績に関する中国の公式見解は、<“西洋”への7度の航海を通して、鄭和は一片の土地も占領せず、要塞も築かず、他国のいかなる富も収奪しなかった。まさに友好的な外交活動だった。商業や交易において、受け取る以上に与えるということを慣例とし、そのため途上の多くの国で歓迎され、称賛された>(中国交通部副部長徐祖遠の2004 年 7 月の発言)。鄭和は、中国が世界と交流するさいのお手本というわけだ。

ところで、鄭和の航海について、中国では「下西洋」(西洋に渡る)という言葉を使い、鄭和の艦隊があたかも西洋つまり大西洋まで達したかのように表現し、コロンブスより早く地球を一周したかのようなイメージで語られることが多いが、それこそ、みなフィクションだ。

オーストラリアの歴史学者で「明実録」の研究者ジェフ・ウェード(Geoff Wade)によれば、この話はまったく史実と合わず、誤解を招くものだという。

<明実録によれば、1403年~1430年代前半までに複数の宦官の司令官によって25回の航海が行われているが、うち鄭和が率いたのはわずか5回にすぎない。航海の大半は東南アジア向けであり、鄭和が有名になったのは、彼の艦隊がさらにとおくインド洋周辺にまで達したからだ。ウェイドによると、これらの航海は平和的な使節ではなく、どう見ても示威行動だった。どの遠征でも船は50から250隻、乗船する兵は2000人以上、当時としては最新鋭の武器で武装していた。・・・1405年に命じられた最初の航海では、鄭和はスマトラ島のパレンバンに停泊し、明から追われていた陳祖義を追跡して捕らえた。このときの戦闘で5000人が死亡したと記録されている。また同じ航海のとき、鄭和の無敵艦隊はジャワの軍と戦っている。・・・また1411年の航海では、鄭和はスリランカの都市に侵入して軍を殲滅し、傀儡の支配者を残して王を中国に連れ帰っている。1415年にはスマトラの内戦に介入しているし、またアラビア半島で鄭和の軍が残虐行為を行ったことを示す記録もある>(P49)。まるで侵略、海賊行為そのものであり、これのどこが「友好的な外交活動」などといえるか。

<中国政府の宣伝する「輝かしい平和と友好の使節」という公式の鄭和像とはかけ離れている。最終的に、この砲艦外交がちょうど30年で終わった。・・・鄭和の海図は燃やされ、船は朽ちるに任された>(p49)

鄭和の大航海は、明の永楽帝のいっときの気まぐれに過ぎず、その後は、再び厳しい「海禁政策」に戻る。沿岸での倭寇の活動に恐れおののき、海を遠ざけ、海を嫌う、まるで自閉症的な政策だった。明代の海禁政策はその後、間断はあったものの、清の時代になっても引き継がれ、<清の新政府は国姓爺(鄭成功)に率いられた独立福建の抵抗に手を焼き、1656年にはふたたび外国との貿易を禁止して、南部の沿岸地域全体で史上まれに見る徹底的な「焦土作戦」を実行する。多くの人々が内陸部に強制的に移住させられ、中国の文献に初めて「海の境界」――海疆(ハイチヤン)――の語句が使われるようになった。しかし、この政策は裏目に出た。人々が生きる手段を求めた結果、貿易や移民がかえって増加してしまったのである>(P70)

確かに、シナ大陸から逃げ出す移民の波は、その後も南シナ海の沿岸の国々にひたひたと打ち寄せ、今では、フィリピンでも、インドネシア、マレーシアでも中華系の華人・華僑がそれぞれの国で根を張り、枢要な地位を占めている。実は、南シナ海の主権問題を考えるとき、中国政府と外交的、軍事的に対立し、事を構えることになったとき、これら中華系の人々が最終的にどういう態度を取るかというのは、本当は大きな問題なのである。現在の東南アジアの人々が、南シナ海周辺の国々との結びつきをどう考えているかはさておき、かつてこの地域で支配的な勢力として存在を誇った「ヌサンタオ」の人々に替わって、いまはシナ大陸出身の中華系の子孫たちが、潜在的に強固なネットワークを築き、穏全たる存在感を発揮しているのである。

大陸国家が南シナ海を「所有」した歴史はない

それはともかく、人類が誕生し、旧石器時代を経て、進化と文化の伝播、移動と航海の歴史を繰り返す中で、南シナ海は人々の交流と交易の豊饒の舞台であり、異なる文化間のコミュニケーションの場でもあった。多くの考古学者の努力のおかげで、それを示す数多くの有力な証拠がそろっている。

<それらの証拠が示しているのは、中国の物語とはまったく異なる南シナ海の姿である。この海はさまざまな国の人々が交換や交易を行った場所であり、領有権に対する考え方は今日とはまったく異なっていたのだ。16世紀前半まで、東南アジアの海を支配していたのは、インドの影響を受けた「マンダラ国家」群だった。

メコン河口の扶南は後1世紀から4世紀まで支配権を握っていた。いまのベトナム中部にあったチャンパは6世紀から15世紀まで。スマトラのシュリーヴィジャヤは7世紀から12世紀まで。メコン河下流のアンコールは9世紀前半から1430年代まで。ジャワのマジャパヒトは12世紀から16世紀まで。そしてマレー半島のマラッカは15世紀の前半から、ポルトガルがやってくる16世紀前半まで、それぞれ支配権を握っていた。南シナ海の北岸、すなわちいま中国と呼ばれている地域を治める勢力が、その他の政治勢力のやることに介入することがなかったわけではない。しかしそのような例はまれで、また長続きもしなかった。どんな意味においても、この海を「所有」していた国も人も存在しなかったのだ。1975年9月、鄧小平はベトナムの共産党書記長レ・ズアンに対して、南シナ海の島々は「古代から中国に属する」といったそうだ。(Beijing Review 1979/8/24 “On China Soverignty over Xisha and Nansha Islands”)この文言は1975年11月、中国の3つの出版物において初めて公にされた。そしてそれ以来、何度も何度もくりかえされてきた。しかし、証拠を精査すればわかるとおり、この意味での「所有」という概念は、古代どころかつい最近出てきたものなのである>(p52)

海を恐れ、海を遠ざけてきた大陸国家の人々に、「東シナ海や南シナ海は古来、中国のものだった」などとは言わせない。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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