全斗煥氏逝去は歴史の当事者の「口封じ」か

人間の評価は棺桶の蓋が閉まってから定まる、と言われる。「蓋棺事定」(「晋書」劉毅伝)=棺を蓋(おお)うて事(人事)定まる。しかし、韓国の場合、人が一生を終えて棺に収まっても、一向にその評価は定まらず、かえって論争や混乱で、国民を分断する騒ぎにさえなっている。

11月23日、韓国の第11,12代大統領を務めた全斗煥(チョン・ドファン)氏が死去した。90歳だった。その28日前には同じく13代大統領の盧泰愚(ノ・テウ)氏が88歳で死去。1980年代の軍事政権を共に担った国家指導者が相次いでこの世を去ったことになる。

韓国現代史の一時代を画する指導者であったにも関わらず、二人への評価は、1980年の光州事件を武力鎮圧したことですべてが尽きて、その他の業績は無視か否定されるという評価が大勢を占めている。普通の国ならば、大統領経験者ともあろう人物には「国葬」という礼儀を以てその死を悼み、国立墓地に埋葬して顕彰するというのが普通だと思うが、全斗煥氏の葬儀は家族葬としてのみ執り行われ、青瓦台と与党「共に民主党」は弔問も弔花の計画もないと早々に表明した。盧泰愚氏の場合は「国家葬」として行われたが、この決定に多くの人が反対し、文在寅大統領は時間ないとして弔問を拒否した。そして二人とも刑事罰を受けた犯罪者だとして国立墓地「顕忠院」への埋葬は拒否された。

そうした冷遇ぶりは、マスコミの報道ぶりで顕著だった。与党支持で左派系の「ハンギョレ新聞」(11/24)のタイトルは、「『虐殺者』全斗煥、反省なく死す」だった。タイトルだけでなく記事本文もすべて呼び捨てにした。

さすがに保守系の「朝鮮日報」や「中央日報」は、「元大統領」と肩書きを付けていたが、そのタイトルは「許しを受けずに死去した全斗煥元大統領」(中央日報社説11/24)、「謝罪なく世を去った全斗煥元大統領」(朝鮮日報11/23)、「『歴史の断罪』受けた政治軍人」(聯合ニュース11/23)など否定的な評価が多かった。

韓国の人々は、海外でどう伝えられたかも気になったようで、NHKがこのニュースを死去が確認された午前9時12分から50分も立たない午前10時のニュースで速報したと知って「NHKはどう、呼び捨てだったか?」と聞かれた。「さすがにそれはない。日韓関係の改善に努め、韓国経済の発展にも尽した人ではないか」と答えたが、相手は「いや、かれは本当に悪い人だ」と憤然とした表情だった。

その全斗煥氏に対する否定的な評価は、彼が歴史の舞台に登場した1979年の軍事クーデタに始まる。1979年10月、朴正煕大統領が暗殺され、国軍保安司令官として事件の捜査を指揮したのをきっかけに、その年の12月12日、上官にあたる戒厳司令官を逮捕して「粛軍クーデター」を実行し、軍の実権を掌握した。しかし軍事政権が非常戒厳令を全国に拡大したことに反発して、翌年1980年の春、民主化への人々の熱望が一気に爆発し、学生を中心に大勢の市民が、街に繰り出した。なかでも光州(クァンジュ)では、武装化した市民と市街戦を演じるまで事態が悪化するなかで、陸軍の特殊部隊まで投入され、軍の発砲で、多数の死者・行方不明者を出すことになる。

そのほか、「共産主義者を中心とした社会のゴロツキどもを一掃する」という名目で、一般市民を強制収容所に送り虐待した「三清(サムチョン)教育隊事件」や、言論を掌握するために行われた「言論統廃合」、それに1987年民主化抗争のきっかけになったソウル大生朴鐘哲さんの拷問死事件などで、強権統治を繰り広げたという評価が伴う。

粛軍クーデタと光州事件では、のちに内乱罪に問われ、1996年の一審判決では死刑、最高裁では無期懲役を言い渡されたが、その8か月後には特別赦免を受けて保釈されている。かれは2017年4月、自らの回顧録を出版したが、光州事件については一切、謝罪せず、事件当時、軍のヘリコプターからの発砲があったと証言したカソリック神父を「到底聖職者とは言えない破廉恥な嘘つき」だと記述したことで、名誉毀損に問われて在宅起訴され、一審では懲役8か月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。そして二審の裁判が進行中で、死去の6日後、11月29日には結審する予定だった。こうした裁判のために多発性骨髄腫とアルツハイマー型認知症を患っているという90歳の老体の身を押して、光州の裁判所まで出頭し、集まった市民から辛辣で、無慈悲な罵声を浴びるという最晩年を過ごしていたのである。こうした惨めな姿をニュース映像で見て、韓国では大統領だけにはなってならないと痛切に感じるのだった。

全斗煥氏の回顧録をめぐっては、市民団体が出版販売の差し止めを求めた裁判で、問題となった記述内容69か所を削除することを条件に出版販売が許可されたが、その後も。記述の訂正が提起され、結局、37か所の記述が虚偽事実だと判断され、出版販売は禁止された。

金泳三政権時代の1995年に、光州事件を「5.18民主化運動」と規定する「特別法」が成立し、光州事件に対する公訴時効を停止した。この特別法を根拠として、1997年4月、大法院は、全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決及び追徴金を命令したのである。光州事件が「民主化運動」と規定されたことで、それ以外の呼び方や評価は許されなくなった。要するに法律によって異論を封じたのであり、逆の意味で、法律で規定しなければならないほど、国民の間の評価は割れていたことになる。

この光州事件で、武力による鎮圧を指揮し、発砲命令を出したのが全斗煥大統領だったと、韓国では信じられ、教えられている。しかし、在韓日本大使館の専門調査員を82年から84年まで務め、この間6回にわたって現地調査を行った西岡力麗澤大学客員教授によると「全斗煥氏が指揮した事実はない。韓国で言われているような全氏が発砲命令を出したというのは全部ウソだ。軍の発砲は正当防衛行為であり、発砲命令自体でていない」という。西岡氏は「たった40年前のことでも歴史が全くゆがめられている。(慰安婦や徴用工問題など)80年も前の戦中の歴史が正しく伝えられられていなくても当然に思える」とも語っている。<産経新聞11/25「阿比留瑠比の極言御免・放置するとゆがめられる歴史」>

光州事件では、一般市民が予備軍の武器庫や軍需工場を襲撃して装甲車などの車両や銃器、TNT爆薬などを奪い、役所の建物を占拠し各地にバリケードをつくり、市街戦まがいの銃撃の応酬で軍や警察と対峙したもので、民主化運動というよりは完全な騒乱・内乱事件だった。この状況を放置し、騒乱が全国に拡大することになったら、それこそ北朝鮮の介入を許すなど、韓国は存立危機に陥っていたかもしれない。

一方で、全斗煥時代は、ドル安、原油安、低金利の好況に支えられ、年平均9%台の高度経済成長を遂げた時代だった。ソウル五輪やアジア大会の誘致に成功し、日本の中曽根政権との関係もあって、1984年国賓として初めて訪日するなど関係を発展させた。盧泰愚時代になっても、南北同時国連加盟や中国など社会主義国との国交回復を図り、現在につながる国際的地位の基礎を築いた。しかし、そうしたプラス面の評価はいっさい語られることはない。

最近も、次期大統領選に最大野党の公認候補に選ばれた尹錫悦氏が「全斗煥時代にも良いことはあった」と発言しただけで、激しい批判に晒され、謝罪に追い込まれる事態になったことさえある。どう考えても異常だ。これほど言論に不自由な国が、「世界報道自由度ランキング」では、日本(67位)より上位(韓国42位)にあるという。「国境なき記者団」はどこを見ているのだろうか?


全斗煥・盧泰愚両氏の逝去で、1980年代の韓国政治の舞台裏を語れる人は、また消えることになったが、現在政権を握っている人たちは、棺を蓋って事定まる、ではなく、異論を押さえつける、体(てい)のいい、口封じだと見ているに違いない。そのようにして、韓国は一方的な見方、偏った歴史認識を国民に押しつけ、歴史の真実を永遠に埋もれさせ、歪んだ歴史観によって自ら滅びる亡国の道をたどるのだろうと思う。

(名誉毀損裁判で裁判所に出廷する全斗煥氏最晩年の姿)

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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