豪華絢爛・江戸の出版文化を支えたのは江戸庶民の識字率の高さ

コンテンツビジネス・メディアミックの先駆者だった蔦重

蔦屋重三郎(1750~97)と江戸中期の出版文化事情をテーマにしたNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」をきっかけに、江戸時代の印刷・出版事情について俄然、興味がかき立てられている。

東京国立博物館ではいま、「蔦屋重三郎~コンテンツビジネスの風雲児~」と名付けた特別展(4月22日~6月15日開催)が開催されている。蔦重こと蔦屋重三郎が展開した「耕書堂」という貸本屋兼地本屋(出版卸)が印刷・発行した書物や浮世絵を中心に、東京国立博物館の所蔵品だけではなく、東大や阪大、早稲田など各大学の図書館や研究室に所蔵されている書籍類、さらには都立中央図書館や大江戸博物館など各地の図書館や私立美術館などから関連資料が一堂に集められ、前期・後期の展示入れ替えを含めて、全部で258点もの出版物や版画・絵画が並ぶ。何よりこれらを同時に同じ場所で見られるというのは魅力的で、見応え十分の圧巻の展示となっている。

蔦屋重三郎は『吉原細見』という今風に呼べばタウンガイド誌を手始めに、山東京伝や曲亭馬琴といった戯作者を巻き込み、「黄表紙」と呼ばれる新しい本のジャンルを開拓して一世を風靡した。本の大きさはそれこそ手のひらに乗るほどの縦15~20センチ、幅10~15センチほどの小冊子だが、そこに細かい崩し字で文章が刻まれ、さらに繊細な線や巧みな構図で描写された絵がつき、一目で物語の世界に引き込まれる仕掛けになっている。いわば「マンガ入りライトノベル」あるいは「江戸のコミック本」といった雰囲気だが、なかには、突拍子もないアイデアと大胆な構図で描いた戦闘シーンや妖怪変化の描写など、現代マンガの『ドラゴンボール』や『鬼滅の刃』も顔負けのアクション劇画、活劇スペクタルも登場し、日本の漫画文化の歴史の長さ、底の深さを知ることができる。

浮世絵の歌麿、写楽をデビューさせたのも蔦重だった

そうした細かな文字や繊細な絵を印刷できるのも、元となる精密な版木を作る彫り師たちの超一流の技術があってこそだが、その一方で、何枚もの版木を用意し、それぞれ違った色を重ね合わせて一枚の版画にする「多色摺」という技法を駆使する摺(すり)師たちの技と顔料選びの巧みさがあった。

例えば、吉原の遊女たちの姿を豪華絢爛に描いた『青楼美人合姿鏡』(北尾重政・勝川春章画)という多色摺絵本は、時代を経た今でも色褪せない鮮やかな色彩と、一目見ただけで引きつけられる描写力を持ち、それはまさに超一級の美術品としても日本出版史に残る記念すべき印刷物ということができる。今で言えば、超人気少女グループの豪華装丁、数量限定の永久保存版写真アルバムといった趣かもしれないが、当時の人々が、この本を手にした時、一瞬にして絵の美しさの虜となり、世の中にこんな世界があるのかと目を輝かせ顔をほころばせる姿をありありと想像することできる。

さらに蔦重は、「美人絵」の喜多川歌麿や「富嶽参拾六景」などで知られる葛飾北斎、「役者大首絵」の東洲斎写楽などの絵師を発掘し、世に出したコンテンツ・プロデューサーでもあった。例えば、東洲斎写楽は寛政6(1794)年から翌年にかけて、実働わずか10ヶ月間で145点の浮世絵作品を残したあと、忽然と行方が消えた謎の絵師だが、その写楽の才能を見いだし、歌舞伎興行に併せて、その宣伝用プロマイドとして28枚の「役者大首絵」を描かせ一挙同時に発売するという鮮烈な「写楽デビュープロジェクト」を発案・敢行したのも蔦重だった。しかし写楽独特のあの誇張した役者大首絵は当時の江戸庶民には不人気で、このプロジェクト自体は成功しなかったが、写楽の作品はのちにヨーロッパで評価され、ジャポニズムとして欧州美術界に大きな影響を残したことは周知の事実である。

出版統制・言論弾圧にも反骨精神を見せた蔦重

また、蔦重は自らを蔦唐丸(つたのからまる)と称し、戯作者や狂歌師としても活躍して自身の作品を発表。また平賀源内や本居宣長など当代の名だたる文人墨客と幅広く交流し、そのネットワークを利用して、新たなコンテンツビジネスの展開を図るなど、今でいうメディアミックスの先駆けでもあった。さらに天災や飢饉が重なって、田沼意次の時代から松平定信による寛政の改革を経て、出版統制令など緊縮弾圧の時代を迎えると、戯作者たちを糾合して幕府批判の黄表紙を出版するなどして反骨精神を見せる強気の一面もあった。いずれにしても蔦重は江戸中期の大衆文化を出版というメディアの力で下支えし、大きく花開かせた、まさに「江戸のメディア王」と呼ぶにふさわしい人物だった。

そんな蔦重を指して、今回の東京国立博物館の特別展の英語タイトルは”CREATIVE VISIONARY of EDO”(江戸の創造的夢想家)となっていた。確かにこれだけ自由にメディア展開の夢を広げ、それを具体的な姿に結びつけた力は大きい。

蔦重が世に送り出した、こうしたたくさんの書物や版画などの出版物は、人々の日常の暮らしのなかにも溶け込んで、生活の糧(かて)に日々あくせくする身の上であっても、現実を忘れて書物や版画の中の別世界に入り込み、ふっと肩の力を落とす瞬間があったとしたら、それだけでも「この世の中も捨てたものではない」と思い返して、生きる勇気を与え、人々に心の余裕をもたらすきっかけになるかもしれない。文化とはそういうものだ。そして、それこそがCREATIVE VISIONARY=「夢を見る想像力」を創造するクリエイティブ・ディレクター兼プロデューサーとしての蔦重の真骨頂だったはずだ。

蔦重の出版文化を支えたのは江戸庶民の識字率の高さ

ところで、特別展のもう一つのキャッチコピーは「潜在顧客(ターゲット)は、江戸の衆、百万人」だった。

蔦重が「耕書堂」から出版した黄表紙など印刷物のうち、ヒット作は一千部近くが江戸市中に出回ったといわれる。千部といえばたいしたことはないと思われるが、貸本屋でレンタルされたほか、店頭セールされた本も回し読みが一般的だった。つまり仮に一冊を百人が読んだとし、その百人が十人にその本の話題をしたとすれば、千人に迫る読者をターゲットに持つことになる。(増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』新潮選書2024年10月)

つまり一千部印刷されれば、千かける千で、百万部のベストセラーにも匹敵することになる。当時、江戸は世界に冠たる百万都市だった。つまり子供も含めて江戸府中すべての人が「潜在顧客」、市場ターゲットというわけだ。

ところで、江戸時代のそうしたベストセラーを支える基盤になったのは、当然、書物を読んで理解できる当時の江戸庶民の高い識字率ということになる。つまり、江戸百万都市のほぼ全員が文字を読めることが、蔦重の出版業を支え、ベストセラーを生み出すベースになったわけだ。当時の世界で、農民など一般庶民を含めてほぼ全ての人が字を読める国や都市など、いったいどれくらいあったろうか?

次回のブログでは、その江戸時代の識字率や教育環境について具体的に検証し、近隣の国々と比較してみたい。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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