識字率の日中韓比較:書物の出版・普及・保存は家康以来の文教政策

蔦重シリーズ第2弾 「書物がひらく泰平の世」とは

NHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」をきっかけに、蔦屋重三郎(1750~97)と江戸中期、天明・寛政期の出版文化について興味がわき、いろいろと本を読んだり、展示会に足を運んだりしている。

前回のブログでは、東京国立博物館で開かれている特別展「蔦屋重三郎~コンテンツビジネスの風雲児~」を紹介したが、東京・北の丸公園の国立公文書館でも「書物がひらく泰平~江戸時代の出版文化~」(3月20日~5月11日)が開催されていたので覗いてみた。江戸時代を中心に出版と印刷の歴史を実物の書物を使ってわかりやすく説明していて、面白かった。「書物がひらく泰平」、つまり書物の出版を通じて人々が読書に親しみ、世の中が平和になるとは、まさにその通りだと思った。

日本の印刷の歴史は、16世紀末まではほぼ全てが木版、つまり版木に直接文字を彫刻し印刷する、いわゆる「整版」だった。活字印刷は11世紀頃の中国が発祥といわれるが、日本には安土桃山時代に宣教師らによって銅製活字が伝えられ、同じころ秀吉の朝鮮出兵をきっかけに朝鮮の木製活字の技術も伝来したと言われる。これらは「故活字版」と呼ばれる。

平安時代から室町中期頃までは、ほとんどの出版事業は寺院が担ってきた。木活字を用いた印刷も「要法寺版」、「宗存版」(宗存は天台宗の僧侶の名)、「伏見版」(円光寺版ともよばれ、徳川家康が臨済宗の僧侶に出版を命じた)などと呼ばれ、みな寺院がその製作に関わっていた。また家康は晩年を過ごした駿府城で、林羅山や金地院崇伝らに命じ、儒学に関する漢籍や和漢の歴史書などを集めて、銅活字を使って印刷出版させるプロジェクトを手がけた。ここで出版された書籍は「駿河版」と呼ばれ、江戸城の将軍のもとにも送られ、のちに江戸城内に作られた紅葉山文庫に保管された。また明治以降は内閣文庫に入り、現在の国立公文書館に引き継がれている。

                  (徳川家康による「駿河版」の銅製活字)

世界遺産級の印刷出版物を収集、保存した家康

こうして貴重な文献資料を後世に記録として残すという家康の熱意は、最近、ユネスコの「世界の記憶」にも認定された「増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書」にもよく現れている。これらは、徳川家康が全国から収集し増上寺に寄進したもので、12~13世紀の中国の南宋と元の時代、それに朝鮮半島の高麗時代に制作された版木をもとに印刷された総数1万二千点に及ぶ仏教経典と解説論文集で、「東アジアの漢字文化と印刷文化の至宝として高く評価され、国の重要文化財にも指定されている」(読売新聞4月18日)。家康が残した出版文化への熱い思いは、400年の時を過ぎて世界に評価されるとともに、現代に生きる我々も改めて家康公に、貴重な資料を残してくれてありがとうと感謝の気持ちを捧げなければならない。

一方、江戸時代初期になると「枕草子」や「伊勢物語」など古典の名作も故活字本で次々出版され、お公家衆だけでなく幅広い庶民にも読者を広げるきっかけになった。そのうち本阿弥光悦や俵屋宗達らの協力も得て京都の嵯峨で印刷された故活字本は「嵯峨本」と呼ばれ、その流麗優美なひらがなの文体と趣向の凝らされた挿絵は、「日本の出版史上最も美しい書物」として美術工芸品としても高く評価されている。また故活字本の挿絵にあとから彩色を施した「丹緑本」と呼ばれる物語本も人気を集めた。

                 (嵯峨本による『伊勢物語』1608年刊行)

ビジネスとなった出版、次々と生まれる本のジャンル

江戸時代前期には、出版を請け負う業者(版元・地本屋)も登場し、次々とベストセラーを生み出すようになり、いわゆる「商業出版」の時代を迎える。一方、元禄期(1688~1704年)までの文化は上方(かみがた 京・大坂など畿内一円)が中心で、浮世草子の井原西鶴、人形浄瑠璃の近松門左衛門、浮世絵版画を確立した菱川師宣などもみな上方を中心に活躍した。しかし、18世紀に入り、江戸が百万都市に成長し、経済や文化を牽引するようになると、上方中心に活躍した版元も江戸に進出し、鶴屋喜右衛門や鱗形屋孫兵衛、須原茂兵衛などヒットメーカーも現れた。そして、その一角にのし上がったのが、「コンテンツビジネスの風雲児」そして「江戸のメディア王」蔦屋重三郎というわけである。

蛇足ながら、上方が中心だった当時、江戸の人々は上方で作られたものを「下りもの」と称し、上方で出版された本も江戸では「下り本」と呼ばれた。出来の悪いものは江戸には下らないという当時の評判から、出来の悪い、つまらないものを「くだらない」と呼ぶようになったという説もある。

                 (葛飾北斎の画による「源氏一統志」)(1846)

出版ビジネスを支えたのは文字をすらすら読める庶民

ところで、江戸中期の天明・寛政期(1781~1801年)には蔦重が始めた「黄表紙」という本のジャンルが一世を風靡し、人気を集めた。黄表紙とは「洒落、滑稽、風刺をおりまぜた大人むき風俗小説」、あるいは「古典をもじり、洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴ったもの」で、ほかに「草双紙」、「絵双子」などの呼び方もある。いずれにしても誰もが気軽に手にとることができ、絵入りで理解しやすい軽い読み物、というイメージだが、そこに印刷されている細かいひらがなや漢字は崩し字で、現代人が読み解くのは簡単ではないが、当時の江戸の人々は、初めから崩し字の字を習ったので慣れていたことがわかる。

また「浮世草子」(当世の風俗・人情を写実的に描く)、「仮名草子」(庶民向けの教訓ばなし風の読み物や実用書)、「洒落本」(遊里を題材とし会話を主体とした風俗小説)、「人情本」(女性向け恋愛小説)、それに十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を代表作とする「滑稽本」など、様々な呼び方とジャンルがあるが、これらの書物の名前を聞いただけで、人生がなんだか楽しく、愉快になりそうな、そんな気持ちになってくるから不思議だ。

江戸時代の人々は、飢饉や天災で苦しむ時もあり、実際に多くの人が命を落とす不幸な時代もあっただろうが、蔦重らが巻き起こした印刷・出版文化のおかげで、そんな苦しいことも忘れ、笑いを取り戻す時間があったのかもしれない。そう考えると、江戸の人々は想像とは違って、ひょっとしたら楽しく愉快に暮らす人々だったかもしれず、その当時の外国の都市と比べても相当に豊かで進んだ文化を享受していた可能性があり、日本人としてそんな江戸時代があったからこそ、今の日本があると胸を張って言えるような気がする。

ところで、そうした江戸時代の印刷・出版文化を、読者つまり消費者として支え、その出版文化の豊かさを理解し、本が提供する情報や文字が生み出す思考の世界をしっかり受け止め、本を読む楽しさ、喜びを味わえるのは、当然、書物を読んで理解できる当時の江戸庶民の高い識字率が背景にあることになる。

それでは、江戸の人々が実際にはどれほどの識字率であったか、ネット検索で引っかかった研究論文をもとに以下に検証してみたい。

流通科学大学名誉教授の作古貞義氏によると「幕府に開国を迫ったペリーが庶民の子供の読み書きができることに驚いたとの史実がある。幕末には全国に1万5千以上の寺子屋があり、江戸時代中期の人口100万人、成年男子の識字率70~80%は世界一といわれる。当時のロンドン人口86万人、識字率20%、パリ54万人識字率10%との記録がある。当時の識字率が維新改革・西洋化に適応できた理由と認識されている」という。

【シニアマイスター経営の知恵 190】江戸時代の識字率と寺子屋 シニアマイスターネットワーク理事長・流通科学大学名誉教授 作古貞義 - 観光経済新聞

ここでいう「江戸時代中期の人口100万人」とは、江戸の町方(都市部)の人口のことで、「成人男子の識字率70~80%」も、全国の数字ではなく、江戸府中の成人男子のことを言っているのは文脈からも間違いない。

一方、国立教育政策研究所の斉藤泰雄氏は以下のように論じる。

「江戸末期において、当時の日本はすでに庶民層を含めてかなり厚みをおびた識字人口層をかかえていた。学校教育の普及が低迷していた明治初期20年代半ばまで識字人口層は、江戸末期とあまり変らず、文部省の自署率調査(自己の姓名を筆記できる者の割合。引用者注)によれば、識字率は最大で、男子で50~60%、女子で30%前後であったのではないかと推測される。壮丁教育程度調査(国民皆兵の徴兵検査の際に読み書き能力と算数能力の程度が試験によって判定された。引用者注)によれば、それが開始された明治32~33年頃は、青年男子のおよそ半数の者は、読み書き能力の不確かな者とされたが(詳しくは「やや読書算術を為し得る者」=機能的非識字者26.0%、「読書算術を知らざる者」=非識字者23.4%、引用者注)、その比率は、その後の日清、日露の対外戦争を転機として小学校への就学率が急速に向上する状況の後を追うようにして、急速に減少することとなる。こうして、青年男子(20歳)の間における新規の非識字者の出現は、1925年(大正末)頃までにはほぼ根絶されたと推測される。青年女子の場合も、明治末までに男女間の就学格差が急速に改善されたことを考えると、ほぼ10年間の時間差はあるものの、男子の場合とほぼ同様な状況が出現したものと推察される。」

斉藤泰雄(国立教育政策研究所)「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」(広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第15巻 第1号・2012

斉藤氏の論文は具体的な統計調査をもとにしたデータなので信頼できる。それによれば、江戸末期から1900年(明治34年)まで、成人男性の識字率は50%、成人女子は30%前後で推移し、その後、1925年には男子は100%、女子もその10年後には100%の識字率を達成していた、ということになる。作古貞義氏が上げた数字に比べると、だいぶ下がるが、ただ都市部、つまり江戸の成人男子に限ってみると70~80%の識字率という見方は、壮丁教育程度調査の「やや読書算術を為し得る者」を「機能的非識字者」とした26%を、識字者に含めた場合と一致する数字でもある。

20世紀前半の識字率、日本は100%、中国・韓国は25%程度か

それでは同じ漢字文化圏の中国と朝鮮半島ではどうか?まず中国の場合の識字率はについて、愛知大学の三好章教授(中国教育史)は「現代中国の識字運動とその成果」という論文で、「清末(1910年前後・引用者注)で男30ー40%、女2ー10%、平均で全人口の16ー28%ともいわれる」(斯波義信『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社1983)。あるいは「当時(清末・引用者注)の文盲率は90%、近代工業の労働者でも実に80%が文盲だった」(小島麗逸『中国の経済改革』勁草書房1988)という説を引用した上で、「新中国建国(1949年)直後でも、(識字率は)男子は40%、女子は5%、全国成人男女総合で25%以上と考えられていた」(三好章「現代中国の識字運動とその成果」・『中国の人口変動』アジア経済研究所1992所収)と述べている。

つまり、清末から20世紀前半にかけて、男子は40%以下、女子は5%前後の識字率しかなかったことが分かる。一方、これは次回のブログで示すが、1910年代の中国の識字率は全体でも5%前後だという見方もある。

一方、朝鮮半島では朝鮮総督府による1930年の国勢調査で識字率調査が行われている。それによると、「6歳以上の日本人の識字率は95.2%、朝鮮人は27.4%。また朝鮮人男性の識字率は44.4%に対し、女性は9.8%で、男女差(女性の識字率1.0にした場合の男性識字率の比)は日本人1.1、朝鮮人は4.5となり、男女差に開きがあった。さらに朝鮮人の場合、府部では43.3%に対し郡部では21.3%の識字率」といった調査結果の数字が並ぶ。(板垣竜太「植民地朝鮮における識字調査」アジア・アフリカ言語文化研究58、1999

また「1930年代、朝鮮人口の識字率は日本語+ハングルが7%、ハングル16%で、日本語もハングルも解読できない人口が77%に達していた」(朴多情「植民地朝鮮の大衆文化と近代メディア」東京大学団学院情報学紀要 情報学研究No97)というデータもある。

中国・韓国では漢字の使用は身分上の特権だったという事実

以上の資料データから、日中韓で識字率を比較できるのは20世紀前半の期間だけということになるが、その時点では、日本人の識字率はほぼ100%に対し、中国と朝鮮半島では大雑把に25%前後という結果になる。蔦重が活躍した18世紀後半の識字率について、日本と中国、朝鮮半島を比較は、20世紀前半のデータから見て推測するしかない。しかしその前に、同じ漢字文化圏とはいえ、中国大陸や朝鮮半島では、漢字を読み書きできるのは一部の特権支配階級だけであり、漢字を使うということはまさに身分上の「特権」だったという歴史的事実に触れなければならない。

例えば、李氏朝鮮時代の朝鮮半島では、両班(ヤンバン)と呼ばれた特権階級が漢字の読み書きを独占し、賤民、白丁、奴婢などと呼ばれ、人口の半数、時には8割をしめたといわれる奴隷階級は、自分の名前を持たなかっただけでなく、文字を勉強することも許されなかった。15世紀に漢字の正しい読み方を指導した「訓民正音」という表音文字が制定され、いまハングルと呼ばれている文字は、女こどもが使う卑しい文字と貶められ、それが朝鮮で実際に普及するのは、福沢諭吉とその門下生らが日本語の漢字かな混じり文と同じ「漢字ハングル混じり文」を推奨し、それを実践した以降だったというのは、日本人なら多くの人が知っている歴史的事実だ。

一方、中国大陸では、多くの民族が中原を行き来し、多くの王朝が交代したが、漢字を必要としたのは科挙の試験を受け、官僚を目指す一部の知識人階級と、商人として各地を旅し、言葉が通じない人々と意思疎通を図るための筆談の手段として漢字を覚えた人々くらいで、先祖からの土地に張り付き、農地に縛られて生きる多くの農民にとって、文字を学ぶ必要はまったくなかった。

それでは、次回のブログでは、その識字率と密接に関係がある教育制度について比較検討してみたい。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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