初等教育の日中韓比較:江戸の将軍は寺子屋の教科書にも心を砕いていた

蔦重シリーズ第3弾「暴れん坊将軍」は漢籍の輸入にも熱心だった

NHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の蔦屋重三郎(1750~97)が活躍した天明・寛政期(1781~1801)から遡ること半世紀前、享保年間(1716~1742)は、8代将軍徳川吉宗が活躍した時代だった(在位は1716~1745年の30年間)。8代将軍吉宗といえば、往年の世代にはテレビドラマの「暴れん坊将軍」の名で覚えている人が多いかもしれないが、そのイメージとは違って、漢籍や絵画にも精通した知識人、教養人でもあった。

「鎖国」を行っていた江戸時代は、外国の情報や文化には疎遠だったと思われがちだが、実際は、長崎を海外との窓口とし、中国や東南アジアとの間を行き来した貿易船を使って、西洋の文物や最新の情報をいち早く入手していたほか、当時、中国で印刷された最新の書物を輸入したり、または唐船の船長に発注して取り寄せたりするなど、大量の漢籍を入手していた。たとえば、吉宗自身が、明の刑法「明律」について調べるため、『大明律』に関する本を取り寄せ、側近の儒学者に訓点をつけさせたり、全文和訳を命じたりした。また清の法律や政治制度をまとめた『大清(康熙)会典』全162巻の入手を命じたが、清朝政府の公式文書でもあるため入手が困難で、発注を受けた唐船の船長(船頭)は印刷された版本ではなく、自ら写本を手配し、長崎に運んだものと見られている。

江戸時代の日中文化交流は唐船の船長が担った

これらの事情は、江戸時代の「唐船持渡書」(もちわたりしょ)の研究で知られる大庭脩氏(関西大学教授・文学博士)の『江戸時代の日中秘話』(東方出版1980年5月)に詳しい。それによると、清朝が明の時代から続いた海禁政策を見直し、船の海外への渡航を解禁した1684年以降、当時、中国大陸と長崎を往来した唐船は、1688年には193艘まで急増し、長崎に来航した中国人は9128人を記録した。彼らの積み荷は、中国からは生糸、絹織物、漢方薬剤、砂糖などだった。また帰りの船に積み込んだのは金・銀・銅で、これらの入手こそ彼らが日本に来る目的の一つだった。金銀銅の中国への輸出は、江戸幕府が1763年に禁輸措置をとるまで続いた。またフカヒレやアワビ、ナマコなどの乾物も帰りの船の積み荷となった。

一方、唐船の中国からの積み荷の中には、書籍も含まれた。船によって数のばらつきはあるが、たとえば正徳元年(1712)に15番目に入港した南京船には書物を入れた箱93個が積まれていた。また同じ年の51番目に入港した南京船には書物40箱が積み込まれ、合計86種、1100冊以上の書名が、長崎の唐通事が残した「唐船持渡書」の記録で確認できるという。

ところで清代の中国で出版業が盛んだった中心地は、南京や蘇州など南京船の集荷地と、杭州つまり寧波船の集荷地に当たり、そこから北京などへも運ばれたが、海路だけで運べる長崎の方が北京よりはるかに便利で、新しく出版された書籍はむしろ北京よりも早く入手できる地理的環境にあった。

また前にも述べたように、中国の書籍の入手は唐船の船長に直接発注することが多く、それが長崎入港を許可する免許状(信牌)を発行するための見返り条件にもなっていた。そして「将軍が注文した書物は特別の価格で買ってやる」という通達まで唐船の船長には出ていたという。「その意味で無名の中国人たちが江戸時代に日本に中国文化を運んでいた」(p241)のだと大庭氏は言う。

徳川文化の発展と庶民教育にも心砕いた吉宗

そうして長崎に持ち込まれる漢籍は、長崎奉行の下に置かれた「書物改役(あらためやく)」と「書物目利(めきき)」によって、禁制のキリスト教関係の内容や記述が含まれていないかのチェックが行われ、少しでもキリスト教に関連する内容が見つかれば、船長に対する尋問が行われ、書籍は焼き捨て処分された。しかし、こうした禁制の書籍に関する制限も、8代将軍吉宗が1720(享保4)年、蘭学を奨励するために制限を緩和したため、それ以後は天文、医学、数学などに関する漢籍や洋書も盛んに流通するようになった。

一方、江戸幕府には「書物奉行」という役職が置かれ、江戸城の紅葉山文庫の管理や図書の収集、分類整理、保存・調査などが行われた。そして書物奉行の職務記録として「御書物方日記」全225巻が残されていて、その中には吉宗をはじめ歴代将軍や旗本らがいつからいつまでどの書籍を借り出していたかの詳細な記録がある。また、吉宗や書物奉行らが収集した漢籍のなかには、中国大陸ではすでに失われたものもあり、日本で印刷された漢籍(和刻本)が逆に中国に輸出され、中国人に感謝されるという事例もあったという。

ところで吉宗が中国から入手した書籍の中に、『六輸衍義(りくゆえんぎ)』という本がある。清の第三代皇帝・順治帝が発した「教育勅輸」、すなわち1孝順父母、2尊敬長上、3和睦郷里、4教訓子孫、5各案生理、6毋作非為、という6つの徳目を説いたもので、吉宗は庶民教育のための良い教科書になると考え、この『六輸衍義』に訓点をつけた上で和訳して出版し、全国の寺子屋で学ばせるよう奨励した。

江戸時代の「教育爆発」江戸府内の就学率は70~86%

その寺子屋だが、吉宗の代の18世紀に入ると、教育熱も高まり、急速にその数を増やし、「教育爆発」とも呼ばれる。なぜこうした初等教育が必要だったのかという要因として、幕府の文書主義があるといわれる。街中の辻に立てられる高札の通達文書が読めなければ生活が出来ないし、訴訟を起こすにも文書しか受け付けてくれなかった。また印刷技術の進化で蔦屋重三郎などによる娯楽本が数多く出版されると、字が読めなければ本を楽しむこともできなかった。

「寺子屋では字を学ぶことが中心科目で、『いろは』ではなく漢数字をまず習った。続いて人名・地名を学び、手紙や証文の書き方を学んだ。そして商人、職人、農民の子それぞれに応じて『商売往来』『番匠往来』『百姓往来』など、女子には『女消息往来』などの教科書(=往来)が与えられた」<沖森拓也『日本漢字全史』ちくま新書2024・11 p317>。

中国や朝鮮での儒学中心の教育とは違って、寺子屋の教育は実用主義だったことがわかる。

1883年に文部省が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、そのうち江戸府内には4000か所の寺子屋があり、幕末1850年頃の農村を含めた江戸府内の就学率は70~86%と言われている。<世界マザーサロン「識字率70%超え!~寺子屋の仕組みがすごい~」


中国:庶民の就学率は20世紀初頭でも2%

それでは、同時代の中国ではどうか。中国には古くから「科挙」を受験する官僚志望者のための高等・中等の教育機関、たとえば国子監(隋代以来中央に置かれた教育行政機関)、府学・州学・県学・官立書院などの官立教育機関と、官立以外の書院、義塾などの私立の教育機関があった。科挙制度は、隋の文帝(587年)から清朝末期(1905年)まで1300年余にわたって行われた官吏採用試験制度であり、明・清代では郷試・会試・殿試の三段階で試験が行われた。また官立・私立を問わず教育機関で教える教員には科挙を受験し、会試に合格した「挙人」以上が充当された。

つまり中国の教育制度は「科挙」の試験制度を中心にしたもので、一般庶民を対象にした教育制度が作られたのは、1902年光緒帝が『欽定学堂章程』(「壬寅学制」)を公布した後だった。このとき初等教育機関としての蒙学堂(4年)、尋常小学堂、高等小学堂(各4年)、中等教育機関 としての中学堂(4年)、高等教育機関としての高等学堂または大学予備科、大学堂(いずれも3年)という制度が設けられ、1904年の『奏定学堂章程』の公布にともない、中国における近代学校制度がようやく発足するに至った。

崔淑芬「張之洞と中国教育の近代化」・筑紫女学園大学

一方、胡学亮「清末中国民衆私塾就学率的考察」(京都大学2009)という論文によれば、1907年の初等小学堂の全国平均就学率は約2%で、清末の私塾への就学率も全国平均で15%以下だと推定している。識字率と就学率は必ずしも一致するものではないが、こうした新式小学校への就学率から見て、1910年代の識字率は5%以下だったという見方を示している。

実は漢字が苦手な中国人 なぜ文盲率が高いのか

ところで、中国での国語教育は漢文の素読が中心だった。しかし、子供たちが漢文を声に出して素読しても、文の意味がまったく理解できないという問題を抱えている。孫文の右腕といわれ国民党政権に中枢にいた理論家に戴伝賢(たい・でんけん)という人物がいた。彼の自伝によると、5,6歳から徹底的な古典教育をうけ、12,3歳のころには『論語』など主要な古典はあらかた暗誦できたという。ところが彼の告白によれば、自分が暗記した古典の意味が文字通り一つもわからなかったという。10万字を超えるテキストが完璧に頭に入っているのに、その意味するところがまったく理解できなかった、というのは恐るべき話だ。ところが、ある日、漢籍を読んでいるとき、ある一節が目に入り、これはひょっとするとこういう意味の言葉ではないかと思ったという。「十代の戴伝賢にとって、自分が読んでいた漢文に『意味がある』ということを知った衝撃的なできごとだった。そして、その一つの単語の意味がわかったおかげで、まるでもつれた糸がほぐれるように、他の単語の意味もわかるようになった」。

歴史学者の岡田英弘氏がその著作集『漢字とは何か』(宮脇淳子編・藤原書店2021、p61)で紹介している逸話である。岡田英弘氏のこの本には、「漢字が苦手な中国人」「文字の国の悲哀、漢字は中国語ではない」「なぜ中国では文盲率が高いのか」「貧弱な漢字が漢人の精神を支配する」などの散々な否定的なタイトルが並ぶ。そして次のような一文もある。

「日本では文盲率がきわめて低い。それはなぜかと言うと、漢字を使っているからである。同じく漢字が原因なのに、この違いが出るのは、われわれの漢字の使い方が違うからだ。中国語で読まず、日本語で読むから、漢字は使え、覚えやすい」「日本文明は漢字を訓読することから始まった。日本の文盲率の低さは、営々と築き上げた、漢字を咀嚼する力に由来する」(同書p157)。ひらがなやカタカナ、それに訓読法を編み出してくれた古人の功績に感謝するしかない。

韓国:上流階級専用「科挙」試験のための「書院」

一方、朝鮮半島では教育制度はどうなっていたか?朝鮮にも「科挙」の制度があり、受験できるのは「両班」(ヤンバン)と呼ばれる上流階級の人に限られた。その両班の科挙受験のために「書院」(ソウォン)という教育機関が各地に作られた。書院は、日本で言えば各藩に設置された「藩校」と同じで、地方の有力者などが私財を投じて作った。その数は、18世紀初頭には全国で593校を数え、さらに朝鮮時代末期には約650カ所まで増えたともいわれる。しかし、政治が混乱に陥った際には、書院で学ぶ儒生たちが一丸となって王に上疏し、「万人疏」と呼ばれる1万人に及ぶ儒生が抗議する事件も起きた。また書院自体が不正を犯す温床になるなど、さまざまな弊害が生じたため、朝鮮王朝は1868年に「書院撤廃令」を下し、その結果、全国47院の書院だけ残されることになった。1868年といえば明治元年で、日本が近代化に向けて足を踏み出した一方で、お隣では教育に関して後退する動きを見せていた。

ところで、今に残る「書院」の建物のうち9つが、2019年ユネスコの世界遺産に登録されている。その登録理由は「韓国の儒教・儒学(性理学)が韓国の状況に合わせて変化してきた歴史的過程を示すもの」として、“顕著な普遍的価値”が認められるとした。要するに教育施設としての価値より、儒教・儒学の韓国的変遷のほうに注目したのである。

開国後急増した「書堂」 それでも就学率は25%

一方、書院が上流階級に独占されていたのに対し、一般庶民の教育制度はどうだったのか?朝鮮王朝末期から日本統治時代にかけて朝鮮各地には「書堂」(ソダン)と呼ばれる私塾、民間の初等教育機関があった。書堂は主に郷吏(自作農や地主などから構成される村の役人で、身分は低いが経済力と政治力があった)を中心に設立されたもので、書院と同じく私立の教育機関だった。

開国後の1883年から日韓併合直前の1908年にかけて約5000校の書堂が設立された。また日韓併合(1910年)の時点で約20000校、また朝鮮総督府が「書堂規則」を制定し、書堂を監督下に置いた2018年の時点で、約2万5000、児童数約25万9000という数字もあるから、この間10年の間に2万の書堂が急増したことになる。(いずれもWikipedia「書堂」の解説

一方、朝鮮総督府が1940年にまとめた『施政三十年史』(国立国会図書館ライブラリー)には以下の記述がある。

「明治38年(1905)保護条約(第2次日韓協約)の締結せられる前後より、朝鮮人並びに外人宣教師により設立された各種私立学校は著しく増加するに至ったが、その内容には見るべきものはほとんどなく、かつ中には不穏なる教科書を使用するものも少なくなかった」(p74)

「書堂。これは旧来の初等教育機関であって、各道至る所に存在し、いずれも皆初歩の漢文教授及び習字を為すに止まるも、遽(にわ)かにこれが廃絶を図るは時宜に適せざるものあるをもって、徐々にこれを改良発達せしめる方針を執った。本期の終わり(1916年、引用者注)に於ける書堂の数は各道を通じて総数約2万1800余であって、そのなか改良書堂の数は700余に達している。」(p79)

要するに、日韓併合後の朝鮮総督府は「教育令」を発令し、初等教育の拡充に取り組んだ。その当時すでに存在した「書堂」を改良して活用する方法も検討したが、改良して利用できた書堂は2万余のうちわずか700に過ぎなかったというのである。それだけでなく、わずかに漢文の素読と習字だけを教えるに過ぎない書堂の存在は、近代的な教育課程を目指した朝鮮総督府の教育方針を阻害するものにもなった。

『施政三十年史』には、昭和11年に朝鮮各地には初等教育機関として官立2校、公立2411校、私立85校の計2498校があり、行政区画の最小単位である「一面に1校」という目標を達成したとしている。しかし、その時点でも「一般朝鮮人児童の就学状況をみれば、推定学齢児童総数に対する就学児童割合はようやく25%前後に過ぎず、その前途はすこぶる茫洋」(p796)と嘆息している。


せっかく日本に来るなら江戸の文化に触れ日本理解を

如何だろうか。3回に渡ったブログを通じて、蔦屋重三郎と江戸時代の出版文化をたどるなかで、当時の東アジア、日中韓3カ国の出版、教育、文化事情も比較してみた。日本の江戸時代と比べて、中国・韓国には20世紀初頭まで信頼できるデータがないので、あくまで推測の域を出ないことを前提に、この3か国を比べると、日本は文化的にはるかに進んだ国であり、一般庶民に至るまで高い識字率を誇り、豊かで多様な文化・情報を享受していたことが分かる。戦前に韓国・中国を武力で侵略したこときっかけに、戦後80年が経ってもいまだにこれらの国からは「軍国主義、侵略国家、反省も謝罪もない」と言われ続け、道徳的・文化的に日本より自分たちのほうが高い位置にいるとみられているようだ。またこれらの国の人々は、歴史の真実を自ら学ぼうという姿勢に欠け、どうも政府やマスコミの言い分だけを繰り返す傾向がある。

別に日本を好きになってくれとは言わないが、日本には江戸時代という平和で世界的にももっとも豊かだった時代があったことを知ってもらい、江戸の出版文化や日本の美術、伝統工芸にも触れて、日本的なるものの雰囲気を少しでも味わってもらい、その上でもう一度、自分の国の歴史を改めて虚子坦懐に振り返ってもらっては如何かと思う。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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