音楽が“軍需品”だった時代、「空気に流されない」自覚の大切さ

NHK・Eテレのドキュメンタリー『音楽はかつて“軍需品”だった~幻の楽譜に書かれた戦争~』(2025年8月16日午後10:00~10:59放送)を見た。毎年8月の「終戦の日」の前後にあまた制作される関連の特集番組の中でも秀逸な番組で、総合テレビのプライムタイムではなく、教育テレビでの放送は残念だった。

(参照:オトカゼ~音楽の風~音楽はかつて“軍需品”だった――山田耕筰、古関裕而らの「戦時楽曲」から紐解く戦争の時代)

「戦時楽曲」253曲の楽譜が見つかる

番組は、80年前、戦争のさなかに書かれたオーケストラ曲や吹奏楽などの古い楽譜がNHKの倉庫で大量に「発見」された、として始まる。その数、253曲。1930年後半の日中戦争から太平洋戦争にかけての時代に作られた曲で、作曲したのは「赤とんぼ」や「この道」など山田耕筰、それに斎藤秀雄、服部良一、成田為三、古関裕而などなど、当時第一線で活躍し、いずれも日本の音楽史に名前が残る当代一流の作曲家たちだった。

NHKの倉庫で眠っていたそれらの楽譜は、「戦時楽曲」と書かれた大判の茶封筒に入れられ、整理されていた。

こうした「戦時楽曲」が作られた背景には、当時、政府が推し進めた思想運動「国民精神総動員運動」があった。「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」のスローガンとともに戦時下に国民が一致団結するよう生活から思想までを統制した。音楽も例外ではなかった。当時、政府の管理下にあったNHKの前身、日本放送協会も歩調を合わせていく。

ラジオ放送をコントロールしていたのは内閣の機関である情報局で、戦時中の一時期は、丸の内の東京帝国劇場に情報局が置かれていた。その情報局が掲げていたスローガンは「音楽は軍需品なり」だった。

日米開戦の直後、情報局は「戦時下国民娯楽に関する緊急措置に関する件」(1941年12月)を発布し、音楽について次のような指示を出していた。「雄大にして健全、明朗にして清醇(せいじゅん)なる娯楽を与うる」。

「健全娯楽として、雄大にして健全、明朗にして清醇(せいじゅん)」な音楽といえば、クラシック音楽ということになる。日本放送協会としては邦人の作品を中心にプログラムを組む。それをどんどん放送で取り上げなければいけない。だから日本人の作曲家に作品を委嘱してオーケストラあるいは器楽のクラシックの作品として作り出していく。

「放送音楽も戦っている」「音楽も弾丸なり」

当時の音楽番組担当者はこんな言葉を残している。「楽曲はすべて勇壮な作品ばかりとし、国民の士気を弥(いや)が上にも昂揚することのみを目的とした。日本人の手になる楽曲が必要だ。作曲家もみんな興奮している」。そして「放送音楽も戦っている」「音楽も弾丸なり」という言葉も見える。

当時、「国民精神総動員強調週間」を制定した際のテーマ曲が「海ゆかば」である。信時潔(のぶとき きよし)が日本放送協会の委嘱を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。万葉集巻十八大伴家持の長歌「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば草生(む)すかばね、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ(長閑(のど)には死なじ)」を歌詞は、大東亜戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれ、ラジオが戦果を報じる大本営発表で「玉砕」の報を伝える際には冒頭に必ずこの曲が流れた。また日本海軍を象徴する歌として戦前・戦後の多くの戦争映画にも使われた。この「海行かば」を契機に当時の日本放送協会は戦意高揚のための音楽を積極的に作曲家たちに依頼するようになっていく。

「国民音楽」は戦争協力へと舵をきる

戦前の日本でクラシック音楽の世界を率いていたのは「赤とんぼ」で知られる山田耕筰、明治時代ドイツに留学し、オーケストラ音楽の作曲法を身につけた日本の草分けだ。代表作の一つ「この道」は大正14年の作品。山田は日本語のリズムやアクセントをつぶさに分析し、どのような旋律が日本の情緒をもっとも美しく表現できるかを考え続けていた。西洋のマネではない、日本ならではの「国民音楽」を作りたい。貴重な山田の肉声がラジオ番組「朝の訪問」1950年放送に残っていた。「心が動くのは日本語ですよ。日本語の中に眠っている、いわゆる音楽的な要素をいかして、それを音楽で再現すれば日本的な楽曲が生まれてくる」。

戦時色が強まる中、音楽家たちも戦時体制に組み込まれていく。陸軍省報道部嘱託だった山田耕筰。情報局管轄のもと政府と音楽家たちをつなぐ組織「日本音楽文化協会」の副会長も務めた。「音楽挺身隊」を組み各地で慰問演奏を行った。戦時中の雑誌『音楽文化』に山田の言葉が残されている。「国家と共に国民と共に殉じる精神をもって、音楽を武器とする」「国民音楽の創造は今日を措いて他日にない」

「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」「サイパン殉国の歌」「英霊葬送曲」「小国民決意の歌」、山田は戦争を題材に曲を次々に書き上げ、その数は50以上にもなった。

神武天皇即位2600年を記念して開かれた巨大な芸術の祭典、「紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会」が1940年、東京歌舞伎座で挙行された。国の威信をかけたこの舞台で指揮する山田耕筰の姿があった。愛国心の高まりとともに日本ならではの音楽が盛り上がりを見せた時代。山田が目指した「国民音楽」は戦争協力へと舵を切っていく。

                                                                                         (山田耕筰1886-1965)

音楽がニュースとして戦況を伝える

「ニュース歌謡」という作品も多く作られ、それらを流すラジオ番組もあった。大本営発表が出るや否や、スタジオで待機している作曲家と作詞家が発表の内容を曲に仕上げ、それを生放送で伝えるのである。流行歌の作曲家として名をはせた古関裕而も「滅びたり、滅びたり、敵・東洋艦隊は・・・」と歌う「英国東洋艦隊壊滅」(高橋掬太郎作詞)という曲を残している。

渡邉浦人(うらと)が1944年に作曲「劔」(つるぎ)と題した直筆の楽譜には、「マーシャルにおいて玉砕の報に接してつつしんでこの曲を捧ぐ。我がつるぎ必ず復讐をなさん。英霊よ安かれ」と書かれていた。玉砕のニュースに合わせてNHKで音楽番組を組んで、玉砕した英霊に捧ぐ、という形で放送したと見られる。

土岐善麿作詞大木正夫作曲の朗読及び混声合唱付き「交響抒事詩“漢口進攻”」は、1938年武漢三鎮の陥落の状況を音で描いたもので、馬の蹄の音を表すカッポウの擬音、ティンパニーの音で爆本や軍隊ラッパなどで進軍の様子が劇的に表現される。当時、欧米でも政策などの伝達手段としてラジオ用の朗読付き管弦楽曲が多く使われていた、という。

日米開戦と同時に誕生した「大東亜行進曲集」

1941年12月8日、真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦は、新たなオーケストラ曲誕生の大きな起爆剤となった。残された253の戦時楽曲のなかに開戦直後に作られたものが、20曲もあり、それらは「大東亜行進曲集」と名付けられていた。日本放送協会は作曲家30人に行進曲の作曲を依頼、作品提出まで2週間という突貫作業だった。吹奏楽行進曲「南進日本」須賀田次郎、行進曲「南国進軍」堀内恵三、行進曲「輝かしき日」諸井三郎、行進曲「青年日本」秋吉元、中には開戦からわずか9日後に書き上げられた曲(土井晩翠作詞「正義の鋒先」石井某作曲)もあった。

行進曲「二千六百一年」もその大東亜行進曲集のひとつで、作曲したのは斎藤秀雄。ドイツ留学を経てチェロ奏者、そして指揮者として活動していた。斎藤は楽譜に「大東亜戦争の戦勝を祈りつつ、昭和16年12月」と記している。

今聞いても行進曲としては心ウキウキする名曲だ。政治学者で音楽評論家の片山杜秀も「上品な演奏会用マーチで、題名が違えば今演奏されてもおかしくない曲だ」と評価する。今回発見された戦時楽曲253の楽譜のなかで行進曲は87に及ぶ。マーチのリズムが国民を戦争へ駆り立てた。

                           (斎藤秀雄1902-1974)

大東亜共栄圏に協力させられた台湾出身作曲家

日本は大東亜共栄圏をスローガンにアジアに進出した。253の楽譜の中には植民地だった台湾出身の作曲家によるものもあった。「明けゆく東亜」江文也(こうぶんや)作曲。江は1936年、ベルリンオリンピックの芸術競技で入賞、メダルを取り、世界的にも名を上げた。大東亜共栄圏を掲げる日本とアジアの国々との架け橋の役割を期待されていた。

「明けゆく東亜」は、中国的なメロディーがふんだんに取り入れられた今聞いても心が踊る楽しい曲調である。山田耕筰に学んだ江文也は、台湾や中国に目を向け東洋音楽の可能性を模索したとみられる。80年ぶりに父の楽譜が残っていることを知った江の娘、庸子は「それこそ東亜圏の誰が聴いてもいいように作ったのだと思う」と語る。

「父は本心は戦争大嫌いで、我が家では軍歌はいっさい禁止。ラジオからそれが流れてくると母がすぐに切った。(父は)気持ちの上ではずいぶん葛藤があったと思う。それはほかの作曲家もみなおなじだと思うが、全部拒否すれば作曲することもできなくなる。作曲家として仕事を続けるためには、ある程度引き受けなければ生きていけないという現実があった。時局的な曲を作ったという楽譜は我が家には一切残されていません」。

戦時中、中国と日本を行き来して活躍した江文也は中国で敗戦を迎えた。対日協力者として逮捕され,文革でも激しい糾弾を受けた。そのまま中国で生涯を終えた。庸子さんは戦争中、4歳で父と別れ、再会は果たせなかった。

                              (江文也1910-1983)

終戦まぎわには次第にオーケストラの編成も困難に

戦争が長期化すると物資や配給が滞るようになり、人々の疲労と鬱屈がたまっていった。1944年4月、政府情報局は「大東亜戦争、放送指針彙報」を発布し、放送をめぐる方針を転換する。「聴取者にお説教するようなものは極力避けねばならない。国民の疲れを癒やし不平不満や陰鬱な気分を払拭するように極力努力しなければならない」。こうした情報局の方針を受け、音楽も変化する。253の楽譜には「銃後のくらし」に寄り添ったものもあった。「もんぺ、よいもの、たのしいものよ」と歌う「意気なもんぺ」、サトウハチロウ作詞・佐々木すぐる作曲「元気に明るく」など、それまでの勇ましい音楽から一転、親しみやすい曲調のものが多い。

学童疎開を描いた曲もあった。高木東六作曲「少国民のための交響組曲 疎開学童風景」から「第7曲 楽しい食卓」,鉄琴(グロッケン)の音が優しい「第12曲 更けゆく夜」などの演奏とともに番組では,当時の学童疎開の様子が映し出される。情報局の意図はともかく、今これらの曲が流れても、誰も「軍需品」だとは思わないだろう。

黒柳徹子の父、バイオリニストの黒柳守綱は、現在のNHK交響楽団の前身で、山田耕筰が設立した日本交響楽協会に参加し、山田に寵愛されたほか、斎藤秀雄とは東京弦楽4重奏団を組み演奏する親しい仲間だった。黒柳徹子の回想によると「朝からラジオをつけて聞いていた。(終戦間近になると)オーケストラの団員もだんだん出征していく人がいて、ぽつぽつ抜けていって、終わりの方ではオーケストラが立ちゆかない、みんな戦争に行って、結局、父も行くことになったが、そういうぽつぽつと穴が開いていくオーケストラの様子をラジオで聞いていて、なにか戦争ってすごいなと思ったのは覚えている」。

日本の敗色が濃くなると同時に、ラジオから流れる音楽を通して、オーケストラの楽器にも明らかに欠落が多くなるのを、誰もが聞き取れた時代だったというのだ。

山田耕筰作曲「沖縄絶唱譜」は誰がために作られたのか

敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、山田耕筰はある曲を作っていた。独唱附合唱曲「沖縄絶唱譜 牛島中将を称える」。1945年6月23日、沖縄戦を指揮した日本軍第32軍の牛島満司令官が自決し、沖縄での組織的戦闘の終結後に書かれた曲である。

そこに至る過程で、沖縄本島に米軍が上陸したのは1945年4月1日、猛攻撃で5月末には、日本軍の司令部が置かれていた首里は陥落。しかし、日本軍は戦闘をやめなかった。沖縄戦は本土決戦を遅らせるための持久戦だったからだ。戦いに巻き込まれ県民4人に1人の命が失われた。しかし、情報は統制され沖縄戦の悲惨な実態は国民に伏せられていた。

その当時放送された番組の一つに「戦う南西諸島に送る」があった。ラジオで流されたのは歌や朗読などで沖縄を励ます内容だった。番組の冒頭、首相の鈴木貫太郎自らが登場し「沖縄全戦域に一致団結して全員必死特攻敢闘せらる将兵各位並びに官民諸君、私ども本土にある国民もまた時来たらば一人残らず特攻隊員となり、終局の勝利を得んことを固く決意している」と沖縄の人々を激励している。しかし,沖縄では放送局はすでに閉鎖されていた。番組に耳を傾けたのは沖縄の人々ではなく、本土の人々だった。

「改ざん」させられた牛島中将辞世の句

山田耕筰作曲の独唱附合唱曲「沖縄絶唱譜」の第1曲「秋を待たで」には「秋を待たで枯れゆく島の青草は皇国(みくに)の春に甦(よみがえ)らなむ」。第2曲「矢弾尽き」には「矢弾つき、天地(あめつち)染めて散るとても、魂(たま)がえり、魂がえりつつ皇国(みくに)護らん」とあり、いずれも牛島満中将の辞世の句が使われている。

ソプラノの独唱と混声合唱で歌われる辞世の句の歌詞は、重厚で激しいところのない、もの静かな曲調で、レクイエムとして聴くことができる。

ところが、沖縄タイムスはことしの沖縄慰霊の日の前日、一面トップで「(牛島司令官の)辞世の句、軍が書き換え」と題する記事を掲載した。

牛島司令官が大本営に送った辞世の句(書き換えられる前)は、国立公文書館アジア歴史資料センターが公開している暗号電報の訳文などから「秋ヲモ待タデ枯レ行ク島ノ田草ハ帰ル御国ノ春ヲ念ジツツ」だったことが分かったという。牛島司令官は自決前の辞世の句で自らを取るに足らない存在だとして「田草」に例え、「田草(雑草)のような存在の私は先に死んでいくが、この先、日本が戦争に勝ち、わが国が安泰になることを願う」という気持ちを詠んでいた。しかし、その「田草」が国民を表す「青草」に改ざんされ、さらに「御国ノ春ヲ念ジツツ」が「皇国の春に甦らなむ」と改変されたことで、徹底抗戦を呼びかける意味合いが強まったと記事は主張する。

2025年6月22日沖縄タイムス「沖縄戦を指揮した牛島司令官の辞世の句、日本軍中央が改ざん 沖縄での劣勢報告も 本土決戦へ戦意高揚狙う」

山田耕筰はある意味、軍部の意向に添うだけで、戦禍に蹂躙される沖縄の人々に思いは至らなかったかもしれない。

一方で前出の片山杜秀は「沖縄絶唱譜は日本語の響きがたおやかな音楽と結実している山田らしい名曲だと感じた。同時に沖縄の痛みを美しさでごまかしたプロパガンダの音楽でもある。山田だけではない。多くの作曲家が時代の歯車となり、音楽で戦争に協力していた。記録がないため沖縄絶唱譜がラジオで放送されたかどうかは不明だが、80年前に生まれたこの美しい曲を置き所のない不幸な曲としてしまったのが、戦争なのだ」「戦後80年の今だからこそ、こういう曲があったのだということを知って、聴いて欲しい。それと今を重ねて欲しい、独りよがりのメッセージかもしれないが、すごくそう思う」と語る。

音楽家が戦犯とされた「楽壇戦犯論争」

日本が戦争に敗れたあと、日本放送協会は戦時下の記録を焼き捨てた。253の楽譜の一部も焼け焦げていた。山田耕筰は厳しい批判に晒された。東京新聞は音楽評論家・山根銀二による「楽壇時評」(1945年12月3日付)「資格なき仲介者」で、「軍の圧力を借り一般音楽家を威圧しつつ行われた楽壇の軍国主義化において典型的な戦争犯罪人と目される」として山田耕作を名指しで非難し、その後,山根と山田は『東京新聞』紙上で「楽壇戦犯論争」「音楽戦犯論争」と呼ばれる論争を繰り広げた。

敗戦の年の秋、山田は広島と長崎を巡る演奏旅行に出た。旅先で目にしたのは、戦争で破壊された被爆地の現実だった。そして小さな歌を書いた。被爆者で医師の永井隆が妻への思いを書いた詩を歌曲にした「南天の花」である。

南天の花 咲きぬ ひそかに 咲きぬ  

おもかげは かなしかるもの この花の しずけさに似て

焼跡に ふたたび生きて 南天の花は 咲きぬ

南天の花 散りぬ ひそかに 散りぬ

おもかげは ほのかなるもの この花の はかなさに似て

焼跡に われのみ生きて 南天の花に 泣きぬ

南天の花を亡くなった妻に見立てて歌う永井の詩に付けた山田のメロディーはどこまでも美しく、澄み切っていて、それが戦争の悲惨さをかえって鮮烈に表現している。この楽譜の冒頭には「Very slowly, As If preying Quietly(きわめてゆっくり、しずかに祈るように)と書かれている。山田は戦後20年の1965年12月,79歳で没しているが、家族によると、「よくおしゃべりしたが、戦争のことは何も語らなかった」という。

一方、行進曲「二千六百一年」を作った斎藤秀雄、戦時中は軍楽隊を指揮することもあったが、戦後は、一貫して子供たちのための音楽教育に邁進した。1948年「子供のための音楽教室」を開設、これが桐朋学園での一連の教育活動につながる。小澤征爾、山本直純、岩城宏之ほか名だたる音楽家を育てた。没後、齋藤の教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラやサイトウ・キネン・フェスティバル松本が創設され、現在のセイジ・オザワ 松本フェスティバルに繋がっている。


改めて「音楽と戦争の関係」を考えてみる

音楽が戦争に利用されてきた歴史は日本だけのものではない。以下は、戦争と音楽の関係、あるいは「音楽は戦争にどう利用されてきたか」という質問に対して、ChatGPTが答えてくれた、いわば模範解答である。

音楽と戦争の関係

 音楽は人々の感情に直接働きかけ、共同体を結びつける力を持つ。そのため戦争という極限状況において、音楽は兵士の士気を高め、民衆を動員し、国家の理念を浸透させる手段として利用されてきた。歴史を振り返ると、音楽は権力の道具として戦争に奉仕する一方で、逆に反戦や平和の象徴としても機能してきた。本稿では、西洋と中国の事例を取り上げ、音楽の二面性を考察する。

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1:西洋における軍楽とナチスの利用

 西洋では古くから軍楽隊が存在し、ナポレオン戦争期には行進曲が兵士を鼓舞し、部隊を統率する役割を担った〔注1〕。強いリズムと単純な旋律は、恐怖心を抑え、戦意を高める心理的効果を持っていた。

 20世紀に入ると、ナチス・ドイツが音楽を体系的に利用した。ヒトラーはワーグナーの楽劇を「ドイツ民族精神の象徴」とみなし、演奏会やラジオ放送を通じて国民意識を統合しようとした〔注2〕。同時にユダヤ人音楽家を排斥し、体制に従う音楽家を国家的に優遇した〔注3〕。音楽は娯楽を超え、戦意高揚と思想統制の武器とされたのである。

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2:中国における抗戦歌と革命音楽

 中国でも音楽は抗戦のプロパガンダに利用された。代表的な作品が《黄河大合唱》であり、抗日戦争期に広く歌われ、民衆の団結と抗戦精神を鼓舞した〔注4〕。さらに人民解放軍の軍歌や革命歌は、戦場や集会で繰り返し歌われ、個人を集団に組み込み、国家への忠誠を強調する役割を果たした。音楽は単に娯楽や芸術ではなく、「民族の存亡を支える声」として機能したのである。

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3:音楽の反戦的側面

 一方で音楽は権力に抗う手段としても働いた。ベトナム戦争期のアメリカでは、フォークソングやロックが反戦運動の象徴となり、若者たちの疑問や怒りを代弁した。ボブ・ディランやジョーン・バエズの歌は、国家による戦争動員に抗し、個人の良心と平和への希求を象徴した〔注5〕。ここに音楽の二重性、すなわち「動員の道具」であると同時に「抵抗の声」である側面が現れている。

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結論:音楽の二面性と現代への教訓

 戦争と音楽の歴史を振り返ると、音楽は国家に従属することで戦意を鼓舞し、社会を統合する力を発揮してきた。他方で、音楽は暴力や抑圧に対抗し、平和を求める声を代弁する役割も果たした。この二面性こそが音楽の本質である。

 現代社会において、音楽をどのように用いるかは私たちの責任である。旋律やリズムが人を動かす力を持つ以上、音楽は常に政治的意味を帯び得る。ゆえに、私たちは音楽を「戦争のため」ではなく「平和を築くため」にこそ活かすべきであろう。

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1. Michael Oliver, The History of Military Music, Oxford University Press, 1991.

2. Frederic Spotts, Hitler and the Power of Aesthetics, Overlook Press, 2003.

3. Erik Levi, Music in the Third Reich, Macmillan, 1994.

4. 李謨如《冼星海與黃河大合唱》人民音楽出版社, 1990.

5. David James, Songs of Protest, War, and Peace, Greenwood Press, 1995.


時代の空気に流されるという危険

ところで、Eテレのドキュメンタリー『音楽はかつて“軍需品”だった』と時期を同じくして、NHKスペシャル「シミュレーション 昭和16年夏の敗戦」(8月16/17日放送)を見た。猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦 ―総力戦研究所“模擬内閣”の日米戦必敗の予測―』(1983年)を原作としてドラマ仕立てにしたもので、1940年当時、情報局管轄のもとに実際に作られた教育研究機関『総力戦研究所』を舞台にしている。民間の研究所や企業、各省庁や陸海軍から優秀な若手エリートを集め、それぞれに各省庁の閣僚や国家機関のトップの立場を与えて模擬内閣を作り、日米開戦のシミュレーションを行わせた。メンバーそれぞれが所属する省庁や企業から機密情報を取り寄せて分析し、日本の国力について産業、資源、食料、治安など多くの分野で正確に分析していた。

その結果、石油に関しては、開戦の翌年から逼迫すると予想。船舶が戦いのなかで不足していくためで、物資の不足から日本が極限状態に陥ると指摘していた。米軍による東京への初めての空襲は昭和17年4月だったが、総力戦研究所の若者たちの予測では昭和17年3月とし、ほぼ正確だった。広島・長崎への原爆投下は予測できなかったが、ソ連の参戦は正確に予測していた。彼らが出したのは、日米の戦争は必ず負けるという結論であり、開戦3か月前の1941年8月27・28日、首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』で近衛首相や東條陸相以下、政府・軍部関係者の前で報告された。

しかし、彼らの戦えば必ず負けるというシミュレーションは、活かされることはなかった。それはなぜか?昭和12年(1937)から4年にわたる日中戦争で陸軍将兵18万が命を落とし、靖国神社に祀られていた。開戦を避けるには、米国の要求に応じてその中国からの撤退が必要だった。しかし、すでに多くの犠牲を目の前にして陸軍は引くに引けないと考えていた。

海軍も戦争に絶対の自信があるわけではなかったが、海軍にも開戦に向け止めることのできない組織の論理があった。当時、国家予算の7割が軍事費、なかでも海軍は米国との戦いに備え、軍艦などに長年、巨額の予算を使ってきた。海軍は軍備拡張のために多額の予算を使い、いまさら戦えないなどとは言えない状況にあった。

戦えば負けるという総力戦研究所のシミュレーション結果は、軍部も政府もある程度、分かっていたことだった。しかし、開戦に向かう空気を押しとどめることはできなかった。番組に登場する研究者(中村陵立教大学講師)は、「戦争するとまずいなと分かっていていながら、誰も言い出せない。そういった世間の空気に,東條も政府も押し流されてしまったといえる。流される、信頼しきってしまうということは、今でも続いている面はあるのかも、と思う」と語っている。

科学技術と同じで、音楽をどのように用いるかはその時代の人間、なかんずく放送メディアに携わる人間の責任だろう。旋律やリズムが人を動かす力を持つ以上、音楽は常に社会を動かす影響力を備えることにもなる。ある政治的な方向に向けて世の中の気分を盛り上げるために意図的に音楽を利用する。音楽を感受し、楽しむ側は、かつてそうした時代があったことを自覚し、時代のそうした気分に敏感となり、流されないこと。そのためにも歴史を学び、あの時代に作られた「戦時楽曲」という存在を忘れず、時代背景とともにそれらの曲の実際に時々は触れることも大切ではないか。その意味で、こうして歴史を振り返る番組はいつまでも意義があることだと感じた。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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