反日種族主義⑤ 子供の遊びも日本が押しつけた?

韓国人の妄想癖もここまで来ると、とても付き合っては行けない。ここで紹介するのは、時間と労力の無駄かもしれないが、その妄想癖がどれほど馬鹿馬鹿しいものかを示すため、しばし、お付き合い願いたい。

韓国の小学校教科書で紹介される子どもたちの伝統的な遊びの多くが、日本由来のもので、日本統治時代に朝鮮半島に持ち込まれ、軍国主義国の兵士として子供達を育てたり、朝鮮古来の精神を破壊させる意図をもっていたり、果ては慰安婦の「強制連行」を想起させる遊びもあるから、こうした日本由来の遊びは子供たちから遠ざけるべきだという主張が、堂々と新聞紙面に載り、あろうことか文部省にあたる教育部までが、そうした主張にまともに向き合い、対策を講じことになったという。

たとえば韓国で『しっぽ取り』という遊びは、日本では「子とろ子とろ」と呼ばれ、列を作った最後尾の子供を鬼がタッチしようとし、列の先頭の子はその鬼の前に立ちはだかってそれを遮ろうとする遊びで、遊びの形態は確かに日本も韓国も同じだそうだ。また『我が家にどうして来たの』という遊びは「勝ってうれしい花いちもんめ、負けてくやしい花いちもんめ」の「花いちもんめ」と同じ(この「勝って」を韓国では娼婦を「買って」の意味だと韓国の大手ポータルサイトのNAVERが解説している)。『大門遊び』は「通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ」の「通りゃんせ」(韓国ではこの歌は「神隠し」を連想させるらしい)に対応するという。韓国語では実際にどういう言い回しで歌われているのかは分からないが、これらは「実は日帝強占期の慰安婦強制動員に由来する物」であり「江戸時代に盛んに行われていた人身売買、とりわけ日帝時代に日本軍が慰安婦を強制的に連れていく過程などを描写したものだ」と主張する。

朝鮮日報日本語版12月20日「『うちになぜ来たの』は慰安婦に由来? 調査に乗り出した韓国教育部」)。


仮に「しっぽ取り」のような遊びが「慰安婦の強制連行」に由来するというのなら、逃げる相手を追いかけ、捕まえようとする鬼ごっこや隠れんぼもすべて慰安婦に関連づけることも可能ではないか。しかし、たとえそれが慰安婦や人身売買に関連していたとして、日本がそれらの遊びを意図的に朝鮮半島に持ち込み、子供たちに教えることにどういう意味があったというのか。慰安婦とは何かも知らない子供たちに、そういう存在があることを知らせるのは、子供たちに恐怖心を植え付けるだけで、「慰安婦狩り」には逆効果ではないのか。あるいは、子供たちを捕まえて無理やり連れ去られてもいいようにあらかじめ免疫でもつけさせる目的があった、とでも言うのか。いずれにしても理屈が通らない。

それより「江戸時代に盛んに行われたのが人身売買」だというが、20世紀の初めまで白丁、奴婢という奴隷制度が存在し、両班たちは奴隷を自由に売り買いし、奴婢の女に勝手に手をつけて子供を産ませることができた。中国に差し出すための「貢女」を大量に狩り集める必要があった時代が連綿と続いてきたことを、彼らはどう反省しているのか?

こうした荒唐無稽の主張を展開しているのは、世宗市にある燕岐郷土博物館の館長で、長年、伝統遊びを研究してきたというイム・ヨンスという人物だ。

イム氏が、この10年間に出版された小学校の教科書133冊を調べたところ、「伝来の遊び」として教科書に紹介されている子供の遊びのうち23種類は日本由来のもので、そのうち「しっぽ捕り」をはじめ「うちになぜ来たの」や「大門遊び」、それにあとで紹介する「碑石当て」「領地取り」「四方遊び」など9種類は、日本が1940年代に韓国の民族文化を抹殺するため意図的に持ち込んだ遊びだというのが彼の主張だ。イム氏は8年前から地元のローカル紙「大田日報」などに、こうした主張を発表し、連載記事として寄稿してきた。

こうした主張は、ついには、韓国教育部(文部省)まで動かし、その真偽を確かめるため、教育部は去年11月、韓国民俗学会に対し、小学校の教科書に記された『伝来の遊び』が日本からもたらされた遊びかどうか分析してほしいと政策研究を依頼した。この教育部の決定は、韓国の主要全国紙である朝鮮日報の記事で大きく報じられることになり、論争の所在が多くの人に知られるところとなった。

<しかし、子供たちの遊びがもとは日本の遊びだったからといって、今さらどうするつもりなのか。学界には「伝統の遊びといってもその由来はさまざまで明確にならないものも多く、日本由来だとしても全て問題だと見なせるのか」という意見と、「日帝強占期の民族抹殺政策の一つとして持ち込まれた遊びで間違いないなら、教科書から削除すべき」という意見がぶつかっているという。(同上・朝鮮日報記事)>

それにしても、教育部(文部省)ともあろうものが、さまざまな「伝統」のなかに日本の痕跡を探しだし告発することを専門にしたいわばクレーマーのような人物をまともに相手にし、こじつけもいいところのめちゃくちゃな理屈に付き合って、調査に乗り出すとはいったいどいうことか。彼を「クレーマー」だというのは(あるいはヘイト・人種差別主義者というべきか)、日本由来の遊びのことを問題にし、徒に言上げするのは、この人物だけであり、世界中で旭日旗と似たデザイン・意匠が見つかれば、必ずクレームをつける誠信女子大学の徐敬徳(ソ・ギョンドク)教授を連想させるからだ。

その主張が、いかに荒唐無稽であるかを示すため、日本由来だとして彼が取り上げた伝来の遊びと彼の主張を紹介したいと思う。

日本では円陣を作って座る子供たちの後ろに鬼がそっとハンカチを置いて逃げる「ハンカチ落とし」という遊びがある。韓国では「スゴントルリギ(수건돌리기)」というが、これは文字通り手巾(スゴン)=ハンカチで騙す、仲間はずれにするという意味だ。しかしイム・ヨンス氏によると、この遊びは、日本統治時代に特高警察が独立軍の潜伏場所やアジトに何か目印となるものを置いたことが起源だと主張する。当時の日本の特高がそんな手段を使っていたことをわざわざ子供たちにも教えるために、日本はこんな遊びを持ち込んだというのか。なぜ?どうして?訳が分からない。  

「수건돌리기도 일본 놀이(スゴントルリギも日本の遊び)」 (大田日報2018年12月19日)

「碑石打ち」(ピソクチギ・비석치기)という遊びは、少し離れたところに板状の石(碑石・ピソク)を一列に立てて並べ、子供たちはその石に向かって小石をぶつけて倒す遊びらしい。

イム氏の説によると、昔、村の入り口には立派な行いをした人物の功績を称える石碑が並んで立てられていた。親は子どもを石碑の前に立たせて、お前の先祖は国のために功を建て、あるいは親に孝を尽くしたという話を聞かせた。しかし日本はこれが気に入らなかった。村毎に立てられた多くの石碑を全て無くすことはできないのでピソクチギ(碑石打ち)という遊びを作って、子供たちが自ら石碑を壊して無くすことを望んだ、とイム氏はいう。残念ながら、日本にそんな遊びがあるとは聞いたこともないし、そもそも子供が投げた小石ぐらいで破壊される石碑って何なのか?

サバンチギ(사방치기=四方打ち)という遊びは、辞書には「4人が四方に立って紙や布で包んだ銅銭や石などを地上に落とさないように次々と蹴る石けり」とある。またタンタモッキ(땅따먹기=土地取り)とは、辞書には「駒をはじいて線を引きながら陣地を奪いあう遊び」とある。遊びには立派な韓国語の名前があり、辞書でもちゃんと説明されているのに、イム氏は、サバンチギもタンタモッキも日本が朝鮮に持ち込んだものだと主張し、軍国主義日本には、この種の陣地や領地を奪いあう遊びがとりわけ多いと言って、次のような、もっともらしい解説をつける。

「日本は戦争を多くする国だ。歴史的に互いに戦争をして土地を奪って、全国が統一されれば海の向こうの陸地に進出して土地を奪おうと戦争を起こすのが日本だ。そのためか、日本では陣取り遊びが特に多い。

また、日本は自然災害が多い国だ。火山の爆発と津波、地震、そして毎年夏に多くの台風が日本を通過する。そのため、日本は暮らし難い日本の土地を離れて、内陸に進出するのが夢だ。その夢を『サバンチギ』に込めて陣取り遊びをするのだ。

一方、我々はどうか?930回の外侵はあったが、我々は他人の土地を手に入れようと侵略したことはただの1度も無い。欲心無しに純朴に暮してきた我々の先祖たちの精神を陣取り遊び、つまりサバンチギが蝕んでいる。」

「サバンチギは日本遊びタンタモッキだ」 「大田日報」 2018-10-24

記事の日本語訳はlivedoor Blog 「楽しい南トンスランド」から借用した

「朝鮮半島は外国からの侵入を930回も受けたが、自分たちは他人の土地に侵略したことはただの1度も無い」とは本当か?元寇の手先となって壱岐対馬・九州を襲い、乱暴狼藉の限りを尽したのは当時の朝鮮半島の人々だ。世宗大王は対馬を一時攻略したことがあり、最近ではベトナムで多くの虐殺行為を行った。それより問題なのは、現在の南北分断に至る朝鮮戦争もそうだが、古代三国時代を含めて同じ半島の住民同志が互いに勢力と領土の拡張を競い、時には唐や明、清、近代に至っては清や日本、毛沢東の中国や国連軍など外国勢力を巻き込んで、互いに血で血を洗う激しい「陣取り合戦」を繰り返してきたことだ。自分の身を振り返れば、日本が「陣取り遊び」が好きな国だなどと言えるはずがない。

いずれにしてもこれらの遊びについて、日本が意図的に持ち込んだと証明できる根拠は何もないだけでなく、そんなことをする意味、目的が何なのか合理的な説明はいっさいない。イム・ヨンスという人物がたまたま思い付いた考えをむりやり言葉にして固執した「妄想」というしかなく、こんな発想、妄想に何の疑問も抱かず同調する人がいたとしたら、その人の知能レベルを本当に疑わなければならない。しかし、実際にはこうした主張に同調する韓国人は多く、日本が併合時代に残していったものはすべて取り除かなければならないと主張し、実際にそれを行動に移す動きが特に教育界で目立っている。

それは「親日残滓」と呼ばれるもので、例えば日本統治時代に作詞作曲された校歌は、朝鮮人作曲家の手によるものも多いが、その作曲家が日本の統治に協力した親日派というだけで、その校歌がいま攻撃の標的になっている。各地の教育庁が全校の校歌を調査したところ、忠清北道で19校、忠清南道で24校、光州市では7校で親日作曲家による校歌が確認され、校歌が廃止・変更される改定作業が進められている。校歌だけではない。日本統治時代に制定された校章や校標(スローガン)が廃止され、校内に掲示されている歴代校長の肖像や顔写真のうち日本人校長のものはすべて撤去されている。はては、校庭に植えられているカイヅカイブキという樹木が日本原産だという理由だけで各地で大量に伐採されている。そのカイヅカイブキは樹齢50~60年というから、戦後になって植えられたもので、日本が直接植えたものではない。<中央日報1月14日「続く親日清算、「無差別的な親日残滓規定はいけない」反対も=韓国」


日本は併合時代の35年間に小・中学校をはじめ、高校、専門学校、実業学校、師範学校22校、京城帝国大学など、5000校近くの学校をつくり、そのほとんどは戦後もそのまま残った。戦後も75年となり、この間にこれらの学校で学び、卒業した人は無数にのぼる。彼らが在学中に学友と肩を組んで歌った校歌の思い出や学校生活の風景の一部となっている校庭のカイヅカイブキの思い出もすべて消し去れとでもいうのだろうか?

教育現場でいま消えているものは他にもある。洪蘭坡(ホンナンパ)といえば、「鳳仙花」や「故郷の春」など韓国・朝鮮人なら誰でも口ずさめる「国民歌謡」ともいうべき歌を100曲あまりも作曲し「韓国のシューベルト」とも言われる作曲家である。彼が作曲し音楽教科書に取り上げられた曲は、1980年代の中学教科書では10曲を数えたが、それが2012年になると6種類の教科書のなかでたった1曲だけになった。洪蘭坡は、アメリカ留学中には抗日独立運動団体のメンバーだったが、帰国して逮捕されたあとは「転向」して日本の植民地政策に協力するようになった、つまり親日派だという。

<崔碩栄著「韓国で行われている『反日教育』の実態」彩図社 kindle位置1472~1508>

しかし、韓国・朝鮮の作曲家でいちばんの親日派といえば、韓国国歌「愛国歌」を作曲した安益泰(アン・イクテ1906~1965年)である。愛国歌は、満洲国建国10周年を記念して安が作曲した祝賀曲が元になっているといわれ、実際に安が戦前にこの祝賀曲をベルリン放送交響楽団を指揮して演奏したことがあり、その映像が発見されたことで愛国歌との類似は明らかになった。しかし、安益泰の親日派批判は起きないし、愛国歌の譜面と歌詞は大韓民国歴史博物館で大きく展示されている。

旭日旗批判で、旭日旗そのものである朝日新聞社旗については決して批判しないのと同じで、すべてがダブルスタンダード、ご都合主義なのである。

ところで、冒頭でも語ったように、日本は子供の遊びも意図的に韓国に持ち込み、押しつけたと主張するが、日本が朝鮮に近代教育を導入する上で、実際に行ったことで確かなのは朝鮮語による、朝鮮の実情に即した「学校唱歌」の創作と普及だった。

(以下引用)「日本が朝鮮に近代教育を整備したとき、(台湾や満州における日本語教育と同様に)唱歌教育を導入している。これは“日朝折衷”ともいうべきものだった。日韓併合(明治43年)直前の保護国時代、韓国統監府が監修し大韓帝国学府が発行した『普通教育唱歌集 第一輯』は日本の唱歌をそのまま朝鮮語に翻訳したものだった。日本は、同じく統治した台湾や、日本が強い影響力をもっていた満州でも、土地の自然や名所旧跡などを取り入れたオリジナルの唱歌をつくっているが、「現地語の唱歌」をつくったのは意外なことに朝鮮だけだった。ところがこの〝日朝折衷〟唱歌の評判があまりよくない。当然だろう。なじみのない(日本の)山河や動植物、風習を織り込んだ歌が朝鮮の児童の心に響くはずがない。唱歌や童謡は、子供たちが、子守歌の次に触れる歌である。(中略)そこで、朝鮮に渡った日本人教師や総督府の教育担当者は、「朝鮮の偉人や旧跡、自然、風俗を取り入れたオリジナルの唱歌をつくろう」と主張する。そして、その歌を朝鮮の子供たちに公募し、歌詞を書いてもらう。大正 15 年に朝鮮 総統府が編纂・発行した『普通学校補充唱歌集』(60 曲)だ。」(引用終わり)

<喜多由浩著『韓国でも日本人は立派だった 証言と史料が示す朝鮮統治の偉業』産経新聞出版(位置No.1064-1071>


「1926年、総督府は音楽教材『普通学校補充唱歌集』を編纂した。全60曲が収録されているが、うち朝鮮語唱歌は22曲である。」

<松本厚二著「韓国『反日主義』の起源」(位置4587)>

唱歌の曲名をみただけでも、当時の朝鮮総督府の教育担当者が何を意図していたかは明らかだ。子供たちが毎日楽しく学校に通えるように、子供の心に響く内容が盛り込まれているように見える。無邪気な子供の遊びが慰安婦狩りに関係しているなどと、根拠もない妄想に浸るより、具体的な資料がある日本統治時代の学校唱歌の研究でもしてみたらいかがか。

富士の高嶺から見渡せば

大学で中国語を専攻して以来、半世紀にわたって中国・香港・台湾を見続け、朝鮮半島にも関心を持ち続けてきました。これらの国との関係は過去の歴史を含め、さまざまな虚構と誤解が含まれています。富士の高嶺から、雲海の下、わが日本と周辺の国々を見渡せば、その来し方・行く末は一目瞭然。霊峰富士のごとく毅然、敢然、超然として立てば、視界も全開、隣国を含めて同時代の諸相に深く熱く切り込めるかもしれません。

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