NHKの大河ドラマ「べらぼう、蔦重栄華乃夢噺」をきっかけに、江戸の出版文化を支えた江戸庶民の識字率に大いに関心を持った。そして過去のブログでは、識字率とその識字率向上に役割を果たした江戸時代の初等教育について、日中韓三か国を比較しながら3回にわたって論じてみた。
そこで分かったのは、当時の日本の識字率や初等教育のレベルは、中国や韓国など同じ儒教文化圏・漢字文化圏とは比較にならないほど、日本がはるか先に進んでいたことであり、欧米の国々に比較しても決して劣ることはなく、当時の世界最高の発展レベルを示していたという事実である。江戸時代の一般庶民の識字率や教育レベルは、その後、明治維新を経て19世紀後半以降のスムーズな近代化を成し遂げる土壌となり、現在の日本で暮らす私たちが、日々味わい、楽しんでいるさまざまな豊かな文化の根源になっていることは間違いない。日本人は、江戸時代にもっと誇りを持ち、江戸の文化を生み出した当時の人々の知的レベルにもっと感謝したほうがいいと心から思った。
今回は、これまでの考察を補う形で、江戸時代の出版文化や読書体験が、地方の農村や農民にも広く普及していた実態を紹介したい。以下は、同じくNHKの番組「3ヶ月でマスターする江戸時代」の第5回「華やかな『元禄文化』とはどのように生まれた?」で紹介された内容である。
(寺子屋を描いた浮世絵 一寸子花里画)
最近の歴史研究で「文化の受け手」側に関する新たな「発見」
この番組の中で、ゲストとして登場した国立歴史民俗博物館名誉教授・横山百合子さん(日本近世史・ジェンダー史が専門)が紹介したのは、最近の歴史研究で新しい「発見」とも呼べるべき成果として、大きく研究が進んだのは、文化を生み出した人とか、文化の中身に注目するのではなく、その文化を享受した人、特に書物を誰がどういう形で一生懸命読み、または読みたいと思い、それを自分のものにしていったのか、という「文化の受け手」の側からの研究だという。
とりわけ「元禄文化」というと、京都・大阪の上方を中心にした「町人の文化」というイメージが強いが、その周辺の農村や地方の都市にも視野をひろげて、広い視点から元禄文化を俯瞰すると、農村の百姓や地方の商人などの中にも、本を読んで学びたいという人が現れ、幅広い読者層が各地方、全国に現れた時代だったことが、最近の歴史研究者たちの研究から分かってきたという。
当時の人々には、読み書きの能力が高まり、本を読んで農業の技術を研究したり、あるいは自分の家を守っていくのにどういう心構えをしていったらいいのかという教えを道徳や哲学書に求めたりして、さらには自然科学を含めた幅広い書が読まれた。それくらい書籍を読んで理解できる知的リテラシーを持つ層が広く生まれてきた時代が、江戸幕府成立から100年前後の元禄時代(1688~1704年)だった、といわれる。
その時代は、農業が爆発的に発展した時代だった。たとえば江戸初期には164万町歩だった耕地面積が、大規模な干拓や治水事業の結果、元禄期には290万町歩まで増え、100年弱の間に倍近くまで増えた農業生産によって、経済も飛躍的に発展した。そして、そうした地方の年貢米や全国の特産物が、陸路の五街道で運ばれ、東廻り海運(太平洋側)・西廻り海運(日本海側)の海路を通じて集積したのが、「天下の台所」といわれた大坂だった。また古くからの老舗が集まった京都を含めて、経済が大きく発展する中で力をつけ、ゆとりを蓄えた新興の商人たちが、たとえば尾形光琳や井原西鶴、近松門左衛門などが描く絵画や小説、演劇など、次々と生まれる文化に惜しみなく資金を投じ、華やかな元禄文化の粋(すい)を集める結果となった。
急速に豊かになって、人々の暮らしも変わった。戦さがない安定した時代で、人々が小さな家族を作って、いくらかのゆとりをもって暮らせるようになった。そして自分の家を次の世代に伝えていきたい、すこしでも豊かに生きていきたい、という欲求が強く芽生えた時代。そして儲けることに一心不乱になれる社会が出来上がった。そうした時代は、戦後の1950年代半ばから1970年代にかけて多くの人が豊かになりたいと、がむしゃらに働いた高度経済成長期によく似ている。
上方の町人が主体となって作られた元禄文化
なぜ上方が文化の中心になったのか?農業という面だけを見ても、圧倒的に畿内が先進地域だった。単に米を作るだけではなく、たとえば京都などで地域ブランド化が進み、作物もここでしか作れないものを作って高く売ろう、あるいは灘の酒造りの技術を活かして、いい商品を作り、高く売って儲けよう、生産を拡大し発展していこうという動きが盛んになった。
そうした富を資金源に元禄文化が生まれた。経済的な力をつけてきた農村の有力な百姓だったり、その流通を担う商人が現れて、いろいろ文化を生み出し、享受するゆとりが爆発的に広がった。文化を担った商人は、江戸時代初めは幕府から特権を与えられて商売を行った特権的な商人が中心だったが、元禄のころになると京都や大阪の町で、自分の家の家業として職人をやったり、店を営んだりする中小規模の商工業者が中心になった。
たとえば国宝「燕子花(かきつばた)図屏風」という現代にも通じる画期的な意匠デザインを描き出した尾形光琳(1658~1716)は、京都の呉服商の家に生まれ、後に「琳派」と呼ばれる日本画壇の中心になった。人々がこぞって読んだ浮世草子(うきよそうし)。そのベストセラー作家・井原西鶴(1642~93)は「日本永代蔵」(貞享5年・1688年刊)で、当時の市井の人々のリアルな姿を軽やかに描き出している。またそんな町人の楽しみの一つが歌舞伎や人形浄瑠璃だったが、たとえば近松門左衛門(1653~1725)が描いた人形浄瑠璃「曽根崎心中」(元禄16年・1703年初演)は、初演1か月前に実際に起きたお初・徳兵衛の心中事件という純愛悲劇をモデルにしたもので、演目は大当たりし、後を追って心中する恋人たちも現れたとか。
しかし、こうした書籍を読み、芝居を見るだけでは物足りない、という町人の間で流行したのが俳句を詠むことだった。自ら作品を生み出すという喜びに浸(ひた)るため、句会を開いて腕を競い合い、楽しんだ。元禄文化の俳句の第一人者・松尾芭蕉(1644~1694)は、東北や北陸を旅して紀行文「奥の細道」(元禄15年1702刊)を書いたが、行く先々で句会を開き、多くの人に歓迎され、俳句を残した。どこの村にも俳句を愛し、芭蕉を温かく迎える人がいて、俳句の一つも読めないと商売にならない、そういう文化が成り立つ社会だった。
その伝統は、現代にも引き継がれ、新聞に俳句・短歌の投稿欄があり、庶民の作品が紙面いっぱいに賑わっているような国は、日本だけだろう。因みに大河ドラマ「べらぼう」では、天明・寛政期(1781~1801年)へと時代は下るが、狂歌が一大ブームを巻き起こした江戸の町を描いている。いつの世も、市井の庶民が一大文芸運動の中心を担ったのである。
地方の農民・百姓が著した「農書」がブームに
一方で、17世紀後半、天和年間(1681~84)のころから、農村でも次々本が書かれた。『農書』と呼ばれるその土地にあった栽培技術や作物の知識をまとめた書物で、例えば三河・遠江の『百姓伝記』や会津地方の『会津農書』など、単に自分が知るだけではなく、それらをまとめて整理して、地域的に普及させるためのものだった。
中でも元禄10年(1697)に出版された『農業全書』は筑前国女原村(みょうばるむら、現在の福岡市西区)の宮崎安貞(みやざき・やすさだ1623~1697)という武士から百姓に転じた人物が書いた書物で、作物の栽培方法や様々な農法を研究・観察し、実験を重ねデータを集めたほか、各地を回って情報収集し、中国の最新の書物(徐光啓『農政全書』明代1639年刊)からも学んで、まとめたもので、詳しい図解入りで農業に関する多くの知識を吸収できる本だった。読み書きをできる百姓は一部だったが、こぞってこの本を欲しがったといわれ、あの水戸光圀も絶賛したといわれる。
安貞は知識を体系化するという強い意志を持ち、農業に関する標準的な知識水準を全体的に向上させるという強い意欲でこの本をまとめたものと見られ、しかも、それが江戸や京・大坂から離れた地方から出てきたというのがすごいことだった。近世江戸前期の時代、全国津々浦々で、人々が文字を使って技術を学び、生産力を上げようと努力をした、ということは途轍もないことであり、日本の歴史の中でも初めてのことだった。しかも観察と実験を重ね新しい工夫を加えるということは科学的な精神がないとできないことであり、『農書』や『農業全書』は、日本の科学の始まりの一つだと評価する研究者もいる。
因みに『農業全書』は明治以前の最高の農書と評価され、宮崎安貞は大蔵永常・佐藤信淵とともに江戸期の三大農学者と呼ばれている。
関孝和を元祖と仰ぎ 難問の和算に挑んだ「関流」の人々
和算家(数学者)の関孝和(せき こうわ 1637?~1708)も元禄時代に活躍した人物で、甲府藩士、のちに旗本として江戸でも勤務した。生年ははっきりしないが、英国のニュートン(1642-1727)やドイツのライプニッツ(1646-1716)より、わずかに年上とみられ、円周率を正確に計算し、微積分の創始者といわれるなど、彼らともひけをとらないレベルの数学能力を発揮した人物であり、明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされ、「算聖」とも称される。
(関孝和『括要算法』の円周率の計算)
関孝和の和算の能力は、師につかずに吉田光由(1598-1673)の『塵劫記(じんこうき)』(1627年初版)を読んで独学したものとされる。『塵劫記』は九九などのかけ算やそろばんによる四則演算の計算法、それに田畑の面積計算、測量術の方法といった実用重視の計算法がまとめられたもので、日常に必要な算術を説明する書として人気となり、江戸時代を通じたロングセラーとなった。
そろばんが民衆に広まったのは豊臣秀吉に仕えた出羽守・毛利重能(もうり しげよし、生没年不詳)が明に留学したのち、京都で開塾し、そろばんを教授するようになった江戸初期だが、「塵劫記」の著者・吉田光由も京都の豪商・角倉一族の出自で、若い頃に毛利重能について、そろばんを学んだ。毛利重能は後の関孝和に連なる和算の始祖とされ、寺子屋で教える「読み書きそろばん」といわれたように、実用的な算術を世に普及される基礎となった。
そうした一方で、関孝和の「和算」は、彼のもとに集まった多くの門弟が、全国に広がって各地に門人を集める塾が成立するなど、関孝和を元祖と仰ぐ「関流」として、大小様々な家元・流派が全国各地に乱立し、複雑で難解な和算の解法を競い合う組織としてピラミッド式に拡大する。とりわけ「関流」は、参勤交代で全国から江戸に来た侍たちが多数入門したことで、全国的な普及につながったといわれる。そして彼らが互いに切磋琢磨して、複雑難解な数学問題に挑み、解いた証拠として残されたのが、各地の神社・仏閣に奉納されたのが「算額」と呼ばれるもので、1997年に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存しているという。高度な「数学難問クイズ」というべき問題に、全国津々浦々の庶民が挑み、その知的レベルの成果を競い合い、互いに称揚するなどという国が、日本以外にあるだろうか?
<和算については国立国会図書館「江戸の数学 第一部 和算の歴史」に詳しい>
江戸時代を通じて庶民に読まれたベストセラー書籍
実用的な算術を教える『塵劫記』のほかにも、江戸時代を通じてベストセラーかつロングセラーとなった、いわゆる「ハウツー本」も多い。その一つに『養生訓』(正徳2年・1712年刊)がある。幼い頃から病弱だった儒学者・貝原益軒(1630~1714)が83歳になって書いた『養生訓』は、健康で長生きするための指南書、実益第一のハウツー本として江戸時代の隠れたベストセラーにしてロングセラーとなった。彼は儒学者で、普通は漢文で考えたり書いたりするが、この本は漢文ではなく和文で書かれた。益軒は誰もが読め、皆に役にたつものを書く、という意識で書き続けた。「食後は必ず数百歩歩くこと、じっとしていたり昼寝をすると病気になる」「胃弱な人は餅・団子など冷えて固くなったものは食べてはいけない」「老後は若いときの10倍の速さで時が過ぎていく。一日を十日、十日を百日とし、無駄に日を暮らしてはいけない」など、江戸時代に生きていた人々が何に関心を持っていたかが分かるし、ベストセラーになるだけの戦略と構成、内容の作り方があった。
江戸時代の女性の生き方に関しても、益軒が81歳の時に書いた『和俗童子訓』(宝永7年・1710年刊)には、子供や女性にもいろんなことを教えなければならない、裁縫とか女性の嗜(たしな)みはもちろん、算数もしっかり勉強しなさいと書かれている。
苗村丈伯の『女重宝記』(元禄3年・1692年刊)には、おしゃれや化粧法、習い事、祝言での食事内容や出産まで、女性に関わる暮らしの知識・知恵が、イラスト入りで紹介され、まさに江戸の百科事典、一家に一冊の重宝本としてベストセラーになった。
読書を楽しむ知的リテラシーを持つ層は地方まで広がった
最近の歴史研究で新たな「発見」と呼べるものとして、文化を生み出し発信する側ではなく、その文化の受け手として受容し、享受する側の研究が進み、元禄時代の新しい側面が見えてきたという話を冒頭に紹介した。
百姓や地方の商人などの間に、読み書きの能力が高まり、幅広い読者層が生まれた。本を読んで農業の技術を研究したり、あるいは自分の家を守っていくのにどういう心構えをしていったらいいのかという教えを書物に求めたり、それくらいの知的リテラシーを持つ層が広く生まれた時代でもあった。
その一つの例として、その頃、各地に蔵書家と呼ばれる人が生まれたことが上げられる。たとえば甲斐国の裕福な百姓・依田長安は470冊の書物を持つ蔵書家だった。その蔵書の範囲は歴史書、軍書、浮世草子などの文芸書、漢詩本、農業書、医学書、料理本などにも及び、多彩だった。さらに長安は、書物を手に入れて吸収し、感銘を受けた箇所を引用して、自ら文章にまとめ、自分が生涯で学んだことを孫子の世代にも伝えたいと、家訓書として残した。
本を読んで学びたいという人が地方全国に現れ、農書だけではなく、心の持ち方に関する道徳や哲学書、さらには数学や自然科学を含めた幅広い書が読まれた。それが、全体的な知的レベルの底上げにつながり、社会全体の発展を支えた。町人や百姓、女性などいろいろな制約がある中で、民衆自身が文化にコミットして享受し、さらに自らも文化を創り、発展させようとした時代。さまざまな人たちのエネルギーが集約され、現代にもつながる日本的な文化・伝統の原型を形作った時代が、元禄文化の時代だったかもしれない。
こうした大衆レベルの知的な営為を実践できたのも、漢文表記ではなく、和漢混合文の文体を確立し、書物を通じて綴り方の統一ができたことが、大きな要素になったことは間違いないだろう。中国では、相変わらず「四書五経」の文体を離れては文章を書くことが出来ず、文章を書くのは専ら、「四書五経」をマスターして科挙に合格した官僚、または科挙を目指す文人、読書人に限られた。朝鮮半島でも、漢文が主体で、漢文を読み書きできることが両班階級の特権とされ、ハングルの使用は日本統治時代になってようやく普及が始まった。さらに、現代の韓国・北朝鮮では漢字がすべて排除された結果、過去の歴史文献は読めないという文化の断絶が進んでいる。それに引き比べて、我々日本人は江戸時代の浮世草子はもちろん、平安文学であっても原典で鑑賞し、堪能できる。日本語の持つ豊かな表現力とそれを書物として残してくれた先人たちへの感謝は尽きない。
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